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親鸞聖人の伝記
 書 名 巻数  著 者  出 典 
 親鸞聖人正明伝 4巻 存覚述  佐々木月樵編
       『親鸞伝叢書』
 親鸞聖人正統伝 6巻 良空述
 親鸞聖人雑事 1巻 慧空記
 非 正 統 伝 1巻 玄智述
 覚如上人の伝記
  慕帰絵詞 10巻 従覚  『真宗仮名聖教』
  最須敬重絵詞  7巻 乗専  『真宗仮名聖教』
法然上人の伝記  
  拾遺古徳伝 9巻 覚如   『真宗仮名聖教』
  そ の 他
  実 悟 記 1巻 実悟  『真宗仮名聖教』
  反 古 裏 1巻 顕誓  『真宗仮名聖教』
  大師堂虹梁之縁起


 解   題 
親鸞聖人正明伝
 伝文四巻あれば、一名『四巻伝』とも称す。
 『高田正統伝』及び『高田正統伝後集』には別題を附せず、五天の良空師、享保十八年梓行流布の際、初めて『正明伝』と名けぬ。
 梓行の辞に云く「右正明伝一帙者、常楽台存覚師所撰也。贈之蔵野州高田宝庫矣。述作爾来三百余歳于此、視之人尠焉。不肖歎其伝尚淪壁底不行諸世、寿之梨棗広流人間」と云云。然り而して、本書の奥書には、また「文和元年壬辰十月二十八日草之畢 存覚老衲六十三歳」と記せり。
 存覚師(正応三年六月四日誕生、応安六年二月二十八日示寂)は覚如上人の嫡男、従覚師の兄也。
 本書が存覚師の著なるや否やに就ては、古来種々の論あり。そのうち先啓了雅師は之を存覚師の著述目録中に加え、玄智景耀師は、『非正統伝』中『正明伝』評の題を設けて之を疑えり。
 思うに、本書は、存覚師草記の類ありしを、良空師縦に増修して之を印附し、以て『高田正統伝』の輔翼となしたるにはあらざるなきか。

真宗資料集成 第7巻 解題から抜粋(25頁)
解題 5 親鸞聖人正明伝

 享保十八年(一七三三年)、高田正統伝の著者五天良空によって開板され四巻よりなるので『四巻伝』とも言われて世上に流布した書物で、良空はその刊記において、この書の著者は存覚であって、存覚から下野国高田専修寺の宝庫に贈られ、三有余年間、視る人が少なかったので刊行した、と述べている。
 本文には、「文和元年壬辰十月二十八日草之畢、存覚老柄六十三歳」との奥書があって、存覚の著書であるかのようになっているので、先啓了雅は『浄土真宗聖教目録』において、存覚著作の中に加えているが、玄智は『非正統伝』においてこれを偽作と断じ、「余人ノ作ニシテ常楽ノ声誉ヲカリテ、世ニ行シメントスルモノカ、或ハ草記ノ類アリシヲ、良空縦ニ増修シテ印布シ、己カ新伝ノ輔翼トスルモノカ」、ときびしく弾劾している。
 この玄智の評は、現代までほぼ継承されていて、いま本書を存覚の作と考えている学者は一人もない。
 山田文昭氏が『親鸞とその教団』の「親鸞伝の研究資料」において、本書を「その文勢の上からいふも固より存覚のものではない。殊にその内容が暗に高田の正統なることを示さうとつとめて居る点から見ると、後世、恐らくは徳川期に入ってから高田派の学徒が存覚に托して偽撰したもの」、と評されたのが定説と言えよう。
 ただ、江戸時代以降、民間で行われた通俗的な親鸞伝としてもっとも典型的なものと考えられる・・・

 

親鸞聖人正統伝
 正徳五年正月二十八日、高田派に於ける祖伝研究の代表者、五天の良空師の作也。
 著者良空師は、伊勢三重郡川原田常超院の住持也。霊元天皇、寛文九年誕生、五天はその号にして、また慧日院と号しぬ。
 夙に開祖聖人伝の詳かならざることを憂い、自ら高田の宝庫に入り、真仏、顕智等の古記録を捜索して製したるが即ち本伝六巻なりという。
 今その正徳五年は師が四十七歳の時也。
 又続篇四巻あり、享保六年五月の梓行にかかる。前二巻は、高田派十七代の略伝にして、後二巻は、別題『鉄関踏破』と名く。正しく東門林聴の正統伝の破析たる『鉄関』を反駁したるもの也。
 中御門天皇、享保十八年逝けり。年六十五歳也。
 本伝は、凡例に見、或は又其挿註に徴する時は、正しく『顕智伝』六巻、『下野伝』二巻、『正中記』三巻、『聖徳記』三巻、『五代記』二巻及び『四巻伝』等に拠りたるもの也。
 然り而して、『顕智伝』とは、常に『本伝』と称して、真仏、顕智の筆に成りたる所の聖人伝也。
 『下野伝』とは、鹿島順信房の作にして、『正中記』は信正房、『至徳記』は良覚房の作等と伝えらる。
 然るに、『鉄関』には、「五箇の伝四百年来これをきかず、近世の偽作ならん」といえり。
 要するに、本伝の著者良空師は、本伝を編するにあたりて、常に高田対本願寺の宗我を捨てず、殊に御伝の学説としては、大谷派光遠院慧空師の『叢林集』『御伝絵視聴記』等に対抗することに最もつとめたり。
 之が為めに、時々偏見に陥ることなきにあらずと雖ども、その記事の編年体にして首尾一貫し居るより、今日尚お世人の常に依用する所となる。
 高田派には、尚お他に普門の『御伝撮要』、浄慧の『親鸞聖人伝略』、謙沖の『善信聖人十徳伝」、慧観の『親鸞聖人絵詞伝』等ありと雖ども、これまた本書が該派の諸伝中今日尚お依然としてその第一位に在る所以也。
 本書は、享保二年の刊行本に拠る。
真宗資料集成 第7巻 解題から抜粋(30〜31頁)
解題 10 親鸞聖人正統伝

 著者五天良空は、寛文九年(一六六九年)三重県安芸郡安濃村戸島の長徳寺に生れ、四日市市河原田町常超院の住職となった人で、享保十八年(一七三三年)六十五歳で没している。
  『親鸞聖人正統伝』は彼の主著で、凡例や綱領に記しているところによると、真仏と顕智が著したという「本伝」を中心として、順信の「下野伝」、「正中記」、「至徳記」、「五代記」、存覚の「四巻伝」(『正明伝』に同じ)など、下野の高田専修寺宝庫に伝来したと称する史料を用いて編集したもので、親鸞の年齢によって、編年体に整理して記述している。
 その文章も切れ味よく、内容をズバリとわかり易く表現していて、全体に明快な印象を与えるためか、刊行以後広く世間に流布し、山田文昭氏をして「徳川時代に成立した幾多の親鸞伝の中では、可なり有力なる一つであって、明治の晩年までに出た親鸞伝は、多少皆その影響を蒙って居ないものはない」(同氏著『親鸞とその教団』序説「親鸞伝の研究資料」)と評さしめたほどである。江戸時代親鸞伝のベストセラーとも言われる。

 
親鸞聖人雑事
 本書は、大谷派京都西福寺の住持光遠院慧空師の述する所也。
 慧空、姓は川部辺氏、道西の苗裔にして信空の子也。正保元年五月十五日、近江野洲金森村善龍寺に生る。未だ十五歳ならずして兄を喪い、悲哀に堪えず、是に於てか出塵の志切也。十八歳の時、比叡の山に入る。参究すること茲に三年也。一日竊かに思えらく、予の嚮に世務を辞して此山に入りしは、隠遁の志あるが為め也。されど、永く此山に留住せば、反て実義を翻失せん。且つ、我寺は蓮如上人の御遺蹟、真宗の霊場也。帰りてその緒を継がずは、恐くは恩を知る者にあらざらんと、仍て下山して郷に帰りぬ。
 その後、誓願寺円智に随いて宗門章疏を習う。寛文十年二月召されて本山に出て給事す。時に二十七歳也。延宝八年十二月十二日、京都西福寺に入る。時に年三十七歳也。それより、時々請いに因りて講筵を開き、また命をうけて諸国を巡化す。
 かくて、栂尾山に行きては、明慧上人の遺篋をさぐり、或は又玄誓を誘いて嵯蛾二尊院の宝庫に入ることを願うべく、跣行徒歩三年の長きに及びたりと伝う。これ実に京都高倉学寮第一の講師たり。
 享保六年二月八日示寂、時に年七十八歳なりしとぞ。
 著書極めて多し。御伝の研究に就ては、『御伝絵視聴記』四巻ありて、最も多く世に知らる。『叢林集』また注意すべきものにして、今此『親鸞聖人雑事』は、『叢林集』第六に収むる所のもの也。
非 正 統 伝
 本書は、大和大乗寺大慶師作、玄智景耀師の補にかかるもの也。
 もともと、『高田正統伝』は、高田対本願寺の意味甚だ多く、殊に良空師は、先きにいう所の慧空師の『御伝絵視聴記』及び『叢林集』等を破することに勉めたり。破斥するものは、必ずまたやがて破斥せらるるもの也。
 観省寺某師の『正統伝弾文』五巻、独秀師の『正統伝金剛鎚』二巻、林聴師の『正統伝鉄関』一巻及び本書即ち『非正統伝』等の如き即ちその主なる破文也。
 そのうち、その批評の最も公平無私なるは、蓋し『非正統伝』か。これ、吾人がまた茲に破文として本書を加えたる所以也。
 本書には、刊行本と写本とがあり。今は古写本によりて校訂せり。然り而して、本書の門段中、『文字弁偽』及び丁附は、茲に必要なければ、之を省略せり。

慕帰絵詞
 従覚(覚如の次男)によって編纂された本願寺第3世覚如の伝記。10巻。
 覚如は観応2(1351)年1月に没し、『慕帰絵詞』は同年10月に著された。
最須敬重絵詞 
 乗専(覚如の門弟)によって編纂された覚如の伝記。
 覚如が没した翌年、文和元(1352)年10月に完成。
 7巻。このうち第3巻と第4巻は欠失して伝わらない。
 拾遺古徳伝絵詞 黒谷源空聖人伝
 覚如上人の撰になる法然上人の伝記。9巻。
正安三年の冬、長井道信(鹿島門徒)の請によって正安三年十一月十九日から十二月五日の間に作られた。
他の法然上人の伝記にはない特徴は親鸞聖人について記述されていることであり、親鸞聖人の吉水入門、選択集書写、法然上人真影の図画、流罪決定の事情などがのべられている。
親鸞聖人が法然上人の門弟であることを伝えるために作られたともいわれる。
実 悟 記
 著者の実悟(1492〜1583)は蓮如(1415〜1499)の第23子。
『実悟記』は蓮如以後、実如・円如・証如の三代にわたって見聞した本願寺の行事・故実に関して記述したものである。
後跋に天正八(1580)年三月の日付があるが、天正八(1580)年三月に顕如は織田信長と和議を結んでいる。
反 古 裏
 著者の顕誓(1499−1570)は本願寺8世 蓮如の孫で、父は蓮如の四男蓮誓である。
 この書は、浄土宗開祖 法然、浄土真宗開祖 親鸞から、本願寺11世 顕如まで、浄土真宗の沿革が記されているが、特に蓮如から顕如まで四代の本願寺一門について詳しい。
 顕誓は永禄10(1567)年に本願寺から蟄居を命ぜられ、翌永禄11(1568)年、蟄居中にこの書を著述している。
 『反古裏』あるいは『反古裏書』と称されるが、『反古裏』本文中の「やりすつるふるき文のうらをかえして筆にまかせてしるし侍る」ということばによって、後世に書名とされたといわれる。
 なお、『反古裏』には『恵信尼文書』についての記述があり、顕誓は『恵信尼文書』を見ていたか、文書の内容を聞き知っていたようである。
真宗大谷派本山 大師堂虹梁之縁起
ある門徒さんの仏壇から出てきた、美濃版の和紙4枚からなる手書きの小冊子です。
 この冊子に書かれている「大師堂虹梁」とは、東本願寺の御影堂外陣正面上にかかっている七間の大きな梁のことです。
 この梁は川に埋もれていた材が使われたと聞いた事があります。山から切り出された材木ではなく、川に埋もれていた倒木だったようです。七間もの大きな梁に使えるようなケヤキ材は、明治時代にも得難かったのでしょう。
 たぶん、当時全国の門徒さんたちは東本願寺再建の材木を探して苦労しておられたことでしょう。とくにこの七間の梁の材となるようなケヤキの立ち木は見つからなかったようです。そこに埋もれ木ではあっても、梁の材になる木が見つかったことは、再建に関わっていた人たちのとって、たいへんな喜びであったに違いありません。
 その喜びの中で、いろいろな物語が生まれてきたようです。ここに紹介します『真宗大谷派本山 大師堂虹梁之縁起』には、三つの文章が記されています。この内、初めの二つは、この材木を見つけ、掘り出し、搬出した人々の中から生まれてきた物語だと思われます。いつごろ、どのように語り始められたのかはわかりませんが、越後から近江まで伝わり書き記されたようです。
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