親鸞聖人正明伝 第1巻 常楽台 釈存覚述
親鸞聖人正明伝 巻一上 |
釈親鸞聖人、姓は藤氏、大織冠鎌足の苗裔、勘解由相公、有国五代の孫、皇太后宮大進有範卿の嫡男なり。母は、源氏、八幡太郎義家の孫女、貴光女と申しき。常に意を菩提の道に帰せり。一宵、浮世の無常を観じ、ひとり西首して臥したまう。夜まさに半ならんとするに霊夢あり、忽に光明ありて、身をめぐること三匝、ついに口より入れり、貴光女おどろき、臥ながら光のきたる方所を見るに、枕の西に一人あり。面容端厳にして、瓔珞のかざりあり。すなわち告げてのたまわく、我は如意輪なり、汝に一男子を授くべしと云云。貴光女、是より有胎いませり。 |
承安三年、夏のはじめ誕生まします、御名を十八公麿ともうしき。生れて仲冬より、起居歩行したまう。人みなあやしめり。常に念珠を採り合掌し、経巻を見てはこれを戴拝するの癖ましませり。 安元二年二月十五日、晩景のころ、十八公麿ひそかに庭におり、泥沙をもて仏像三躯を造りてこれにむかい、礼拝恭敬あることしばしばなり。 同年の夏、厳父后宮大夫逝去あるのあいだ、十八公麿、舎弟朝麿ともに、伯父業吏部(若狭守範綱)の猶子となり、しばしば俗典をならい、聚蛍のみさを、かつて懈りなし。七歳の春より倭歌の御稽古あり、歌集なむども多くよみおぼえたまう。八歳のとき、南家の儒士、日野民部に従て、儒典の本経なんどを読みわたりたまえり。 八歳五月の末のころ、御母堂貴光女かくれ給えり。いまだ、四十にたらぬ御齢にて侍りき。臨終のとき、範綱卿夫婦を呼びまいらせて申されけるは、二人の幼兄ども、四歳にして先考におくれ、八歳にしてまた母をうしなう、故にためしなき単孤無頼の者にてはべるなり。かならず、二人ともに出家となし、父母の菩提をとむらわせさせ給うべし。さりとても、足下にましませば、有範世におわさんよりも頼敷くこそさぶらへと。涙の裏にのたまいければ、二位殿も、猶子は我児に比すと古より申伝え侍り。露ばかりも、意にかけたまうことなかれ。ひとすじに菩提の道に赴きたまわんことこそあらまほしけれと。御返事あれば、貴光女、歓喜のいろ面にあらわれ、仏号を七八十返ばかり唱えて、安らかに身まかりたまいき。 十八公殿は、この嘆にしずみ、痩おとろえて、起もあがらすおわしけり。三位範綱卿みるにも忍びがたく、『法華経』の中『四要品』をおしえ、是にて先妣の菩提を弔うべし。何ぞ哀傷に沈みて、益なく月日を送らんこと、却て不孝の咎なるべし。諌を容れられければ、十八公殿、この諌にちからを得て、昼夜をわかたず要品を読誦し、あまつさえ法華八軸みなみなに暗誦するばかりに読みおぼえたまう。是よりしきりに出庫の志もよおして、今年の明くるを待わびたまいき。 誠に宿善のきざし既に発し、済度の強縁とき至れるものか。無勝化来の世雄すら、老病死の誘を得ながら、しばらく宮中色味の絆にまとわれたまえり。況や、凡夫の身に於てをや。殊に御父は唇纓高貴の人にて、母なん武門権勢の頼あり。今もし愛別の悲に因りたまわずは、発心の御企もなからまじ。賢くも、父母には別れ給いき。是時、御発心もなくて朝廷に衣冠をかがやかし、射山に長裾をひく御身にて止りたまわば、末代凡愚の輩、いかでか生死の昏衢をてらし、涅槃浄楽の道路を知ることを得んや。しかあれば、今師の発心の端的を以て、すなわち凡夫迷情の信心開発の時節なることを知るべし。一華ひらくれば、これ天下の春なればなり。 |
九歳の春のころ、御出家なり。是は、先考有範卿終焉の時、かねて遺言あり。今年春の初より、十八公麿しきりに伯父三位へ薙染の請達ありければ、若狭守殿も、今は力及ばずとて、青蓮院前大僧正、慈円和尚の禅室にともない給いて、御出家を遂げらる。戒師は大僧正(于時二十七歳)十八公麿(九歳)権智房阿闍閲正範と申人ぞ、除髪をつとめられける。御名を範宴少納言と授けたまえり、于時養和元年三月十五日なり。 同年、叡峯によじのぼり、入壇して円頓菩薩の大戒を受けんとす。大衆さえぎりて云く、夫円頓の大戒は一得永不失の妙戒にして、上古よりこのかた伝々相承の科々〈しなじな〉あり。十歳未満の人、此戒場を践むこと、いまだ先蹤を聞かざるところなりと。和尚の仰にいわく、抑伝法受戒は其人の器を見るにあり、異国をば知らず、我山家大師よりこのかた、人壇の人に年齢の定式なし。其人、其器にあたらば、何ぞ老若を選ぶべき。もし百歳の老愚に是戒を授けば、其人よく戒体を知るべきや。されば、龍女が八歳は、円教速疾の規模ならずや。矧んや、白河先徳をはじめ、十歳末満の輩、登壇の例すくなからずと。権智房を以て大衆の中へ申されしかば、弟子を見ること師に如くはなし、かかる明匠の種子の我山に生ずるこそ、二葉の栴檀なれと喜びて、登壇受戒に障者〈さわるもの〉なかりけり。 さても、受戒伝法の時の器量を伝え聞くほどの人々、各偏執をすてて、是なん文殊の化現ならんかと称美せり。又なま才覚なる僧徒等、よりあいては、いやいや称美も詮なかるべし、近頃の法然文殊の出来たるは、却て山の害とは成りぬ、好事にはあらずと申人々もありとなん。 |
十歳、寿永元年、慈円僧正勅令に由て山に登り、天下静謐の御祈祷の事あり。是は去年夏のころ、客星出て天変つねならず、木曾義仲北国に起りて謀叛のきこえ専なるによりてなり。このとき、少納言殿、僧正にともないて叡南無動寺の大乗院に登り、『四教儀』を読み始め給う。権少僧都、竹林房静厳を句読の師とす。それより小止観、三大部等を読み習いたまえり。或は山を下り、京洛にいましては、南都の碩学と聞えし覚蓮僧都なんどを招請して、唯識百法を学びたまう。是僧都は、法隆寺の西国院に住せる人なり。或時は、日野民部太輔忠経を師として、俗典文章の稽古なんども侍るとぞ。 十五歳の春は叡山にのぼり、毘盧舎那秘密潅頂を受けたまう。師範阿闍梨は慈円和尚にてぞおわしける。亦毘沙門堂の明禅法印は、是時一山にかくれなき密学の碩才なればとて、此人に徒いて密法の秘奥を習いたまいき。かくて、相つづき三大部の御学問あり。亦御室に岡慶尊〈おかのけいぞん〉とて華厳の明匠あり。是に従いて華厳を学びたまいき。斯慶尊は、法橋慶雅の弟子なり。師の慶雅は、源空上人壮年のとき、華厳の師範たる人なり。又十七歳の時は、南都興福寺の碩才、大僧都光俊空円律師等にあい、法相三論の奥旨を学びたまえり。 |
建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国機長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、 爰仏子範宴、思入胎五松之夢、常仰垂迹利生。今幸詣御廟窟、三日参籠懇念失己矣。 第二夜四更如夢如幻。聖徳太子従廟内自発石偏*(ケイ 扉−非+(向−ノ))〈けい・かんぬき〉、光明赫然而照於窟中。別三満月在現金赤之相。告勅言 我三尊化塵沙界 諦聴講聴我教令 命終即入清浄土 日域大乗相応地 汝命根応十余歳 善信善信真菩薩 于時建久二年辛亥暮秋中旬第五日午時記前夜告令畢。仏子範宴云云。 斯霊告を得たまうといえども、ふかくつつみて口外なかりき。唯その記文のみ御廟寺にあり。 そもそも、〈件〉の告命六句の文に就て、古来の口訣あること予これを聞けり。ここに去応長正中のころ、関東高田専空上人登られしに、洛の善法院并に河東岡崎の旧坊に於て両度面謁し、祖師一生の事事具さに之を聞く。今此伝に載る所、恐くは滅後展々伝聞の説にあらず、聖人面授の人の口説なり。 然るに、今の告令のことを懇ろに問いしかば、我是を惜むには非ず、他聞を禁ずるの制ありとて伝えざりき。 其伝習はいまだこれを聞かずと雖ども、彼返答の余言を以て、ひそかに案ずるに、十九歳磯長の夢想と、二十九歳六角精舎の告命とは、大凡相似たる趣なりときこえたり。御廟寺の真筆は、かならず我往て拝見せん。専空和尚に親聞しながら、此口授を漏すること、是余が生前の恨なり。後来の徒、ふかく尋ねて伝えずはあるべからず。 |
二十歳の頃とかや聞し、南都招提寺の文乗法師にしたがいて、律の淵源を聞きたまえり。文乗は、鑑真和尚の法号なりといえり。一号には、開元寺の沙門思託の法流なりと云えり。然らば、鑑真和尚の法弟なり。又東大寺の光円得業は、倶舎にも律にも誉たかき人なり。これに従いて、件の法文どもを学びたまいき。 二十一歳の春の頃にやありけん、横川の飯室におわして、一心三観の思惟の定中に源信和尚に謁したまうことあり。これ夢にもあらず、うつつにもあらず、誠に観定悉地の徳なり。 二十三歳の秋九月、横川の禿谷と云ところに於て、光全定尊俊教など云う朋友に請せられ、竊に『小止観』『往生要集』を講ぜらる。三塔の名徳たち、これを立聞してかえり、弟子等に語りていわく、天晴僧正や、能き弟子をこそ持たれたれ。天晴少納言や、北岳の駿馬の種子ならんと、ののしりあえり。 |
建久九年、範宴、初春の祝儀ことおわりて京より山へ帰りたまうに、おりふし、赤山明神へまいり、法施こころしずかにしておわしますに、神籬の蔭より、あやしげなる女姓、柳裏の五衣〈いつつぎぬ〉に、ねりぬきの二重なるを打被、唯一人出来れり。其しな気高くて、いかさま大内に住みけんありさまに見けり。 彼女姓、いとはしたなく、範宴の御傍ちかくまいりて云よう、御僧は、何より何地へ行せたまうと、御供にありける相模侍従、これは京より山へかえるにてそうろう。 女の云く、妾も年来比叡山へ参詣の志ふかくありしが、今日思立てそうろう。初ての所なれば、案内もいささか知りはべらず、一樹のかげ、一河のながれとやらん申こともありときく。今日の御なさけに、いざ連れて登りたまわりそうらえと、染染〈しみじみ〉と申けり。 範宴も興さめて、女姓なれば其事は知りたまわじ。抑我比叡山は、舎那円頓の峯高く聳え、五障の雲のはれざる人は登ることを許さず。止観三密の谷深く裂けて。三従の霞に迷ふ輩は入ることを得ず。『法華経』にも女人は垢穢にして仏法の器に非ずと説きたまえり。されば、山家大師の結界の地と定めたまうもことはりなり。浦山しくも登る華かなと、読みし歌をもしろしめされなん。 唯是よりかえられるべしとのたまえば、女姓、範宴の御衣にすがり、涙の中に申けるは、さてちからなき仰をも聞くものかな、伝教ほどの智者、なんぞ「一切衆生悉有仏性」の経文を見たまわざるや。そもそも、男女は人畜によるべからず、若この山に鳥獣畜類にいたるまで、女と云うものは棲まざるやらん。円頓の中に、女人ばかりを除かれなば、実の円頓にはあらざるべし。十界十如の止観も、男子に限るとならば、十界皆成は成ずべからず。『法華経』に「女人非器」とは説ながら、龍女が成仏は許されたり。胎蔵四曼の中にも天女を嫌うことなく三世の仏にも四部の弟子は有ぞかし。さはありながら、結界の峯ならば、登るべきに便なし。妾山にのぼらば、知識をたずねて捧げんとて持てる物あり。今はよしなし。是を師にたてまつるペしとて、袖より白絹に包みたる物を出し一、是は天日の火を取る玉なり。それ一天四海のうち、日輪より高く尊きものなく、又土石より低く陋きものなし。然に、天日の火ひとり下りて、燈炬となることなし。陋き土石の玉にうつりてこそ、闇夜を照すの財とは成るなれ。仏法の高根の水、ただ峯にのみ湛えて、何の徳用あらん。低く陋き谷に降りてこそ、万械を潤す功はあむなれ。御僧は末代の智人なるべし。よも此理に迷いたまわじ。玉と日と相重るのことわり、今は知りたまうまじ。千日の後は、自ら思い合うことの侍らんとて、玉をばさしおき、木蔭に立かくれて失せ去りぬ。 其後二十九歳の冬のころ、九條殿下の息女に幸したまうのとき、娘の御名を玉日と申に意づきて、是なん日火を明玉にうつして、一切衆生の迷*(コン 聞−耳+昏)〈?昏 ?闇〉を照し、五障三従の女人まで、ことごとく引導すべしとの教なりと、始めて悟りたまえり。かの玉を献りし化女は功徳天女にてありける。本地は如意輪観音にてまします。 |
親鸞聖人正明伝 巻一下 |
建久九年戊午は、範宴二十六歳なり。今年叡山西塔に、一切経蔵を建立したまうことあり。本尊には、弥陀、普賢の二躯を案置せらる。是は、先考先妣の菩提の資糧、ならびに猶父獅母現当の福田のためなり。これ叡南にこそ立てらるべきに、西塔にはこころえがたしと人人申けり。範宴ききたまいて、無動寺には蔵経不足なし。西塔を見れば、度度の兵乱の後、経本も大半散失し、蔵もまた傾敗せり。見るに忽びがたければとのたまいき。殊に、去年夏のころ、範宴聖光院に拝任あり。此時にあたりて、西塔をば聖光院より荷担すべき縁あればなり。 範宴は、去年夏のころ、小僧都を申たまいしが、其後あるいは山王神社に七日参籠学問の御祈誓あり、或時は南都北嶺の高徳達を請して大小権実の教門を聞きたまう。日夜の習学、かつてひまなかりき。二十七歳の冬のころは、摂州天王寺にゆき、聖徳太子真筆の『法華』『勝鬘経』等を拝見あり。彼等の大徳に蓬い、その奥意を聞きたまえり。厥僧は、良秀僧都とやらん云いしとかや。時に才智の誉ある人にてあり。 又或時、慈円和尚範宴の学問のほどをこころみんがために、御前に召て三大部の大意を述しめらる中にも、『摩訶止観』の奥義重重に御問答あり。範宴これをのべあきらめたまうこと、懸河の波浪をそそぐが如し。又『華厳』を講ぜしむるに、四法界の談に至て、古今未聞の弁を吐きたまえり、聞者天に向うがごとく、天晴これ良弁僧正の再来なるかとあやしめり。 |
二十八歳十月三七日のあいだ、根本中堂と山王七社とに毎日毎夜参詣し、丹誠の御祈あり。これ末代有縁の法と、真知識とを求むるとの御祈誓なり。同冬、叡南無動寺大乗院に閉籠りて、密行を修せらる。是も三七日なりしが、結願の前夜四更に及で、室中に異香薫じ、如意輪観自在薩*(タ 土+垂)現来したまいて、汝所願まさに満足せんとす、我願も亦満足すとある告を得て、歓喜の涙にむせびたまう。是により、明年正月より六角精舎へ一百日の日参をおもいたちたまえり。 |
二十九歳、建仁元年辛酉正月十日辛酉、叡南の大乗院にかくれ、大誓願を発し、京都六角精舎如意輪観音に一百日の参籠あり。さしもけわしき赤山越を毎日ゆきかえり、いかなる風雨にも怠なく、雪霜をもいとわせたまわず、誠にありがたき御懇情なり。是精誠しるしありて、計らざるに安居院聖覚法印に逢いて、源空上人の高徳を聞き、わたりに船を得たるこころして、遂に吉水禅坊に尋ね参りたまいけり。是もはら六角堂の観世音の利生方便のいたすところなり。 |
建仁辛酉、範宴二十九歳、三月十四日、吉水に尋ね参りたまう。 折ふし禅坊には墨染衣きたる禅僧十四五人許ありて、出離要路を尋ねたてまつる有様、如此てこそ実の道には入なむめれ、賢くもここに参りけりと。坐に道心ぞ進みたまう。彼十四五人の人人は、当時南北に名を得たる学生達にぞおわしける。 さて、源空上人に謁見し、是は慈円僧正の弟子、少納言範宴にてはべり。師の高徳をしたい、生死出離の要津を問いたてまつらんために尋ね参りぬと申さる。上人きこしめし、僧正の弟子にさる人ありとは、我も聞く所なり。さらば、心底をのこさず宣べたまえとあり。 範宴そうけたまわりぬとて、百界千如の深意、六大無碍の密蔵、もとより会得の上なれば、舎那止観の奥*(サク 臣+責)を揮いて、問答重重に及べり。 蕨後、空師仰られて曰く。今までのたまえるは、皆是聖道白力門の意なり。浄土他力の道を聞せたてまつらん。範宴のここに尋ね入り給うこと、発心の強盛なるも有難く、亦宿縁の深厚も想像〈おもいやられ〉たりとて、他力易行のみち、手を採りて之をさずけ、安心起行のむね、耳を提て宣べ誨えらる。 又道綽禅師は、『大集月蔵経』に「我末法時中億億衆生、起行修道未有一人得者」と説ける文に依りて、「当今末法是五濁悪世、唯有浄土一門可通入路」と悟りて、聖道自力の修行を捨て、浄土他力の真門を立てたまえり。 また、善導大師は「余比日自見聞諸方道俗、解行不同、専雑有異、但使専意作者十即十生、修雑不至心者、千中無一」と見定め、正雑二行を立て、かの雑行を捨て、十即十生の正行に帰し、順彼仏願故と決定して、本願他力の弘誓に身を託したまう。 まのあたり、我朝の先徳、恵心、永観も生涯の間ならいうかべたる智慧をも修行をも捨て、念仏の一行を以て、出離生死の直道としたまえり。されば、法照禅師の『五会法事讃』には「万行之中為急要、迅速無過浄土門」と勧めたまえり。 是等は、みな既に出離得脱の先達なり。実に生死の煩籠を出でんと思う輩、誰かこの引接に背きて、自ら三界の火宅に身を留むることをせんと、最ねんごろに演説ありければ、範宴は御教化の間は、偏に孩児の母に逢うが如く、涙に伏し沈みて、人目もはずかしき許に泣き給う。 さてなん、日来の畜懐ここに満足して、立地に他力摂生の深旨を受得し、飽まで凡夫直入の真心を決定し、多年習い浮べたる自力難行の小路を捨て、偏に他力易行の大道に入り、一向専修の行者となり給えり。 範宴、上人に申たまわく、世を遁るものは、名をも遁ると申すことの有げにさぶろう。今日より御弟子の員に入りはべれば、師名を賜うべしと請達あり。空師、きこしめし、実にさることぞとて、其名を綽空と授らる。上人宣まわく、予が門人おおき中に、さわかに自力の執情を捨て、無手と他力になり、遂にまた浄土真門を開くべき意操、しかも西河禅師の余風あれば、綽空と申ぞと仰られき。空はもとより現師の御名なり。 今年源空上人は六十九歳、綽空は二十九歳になんおわしける。建仁元年三月十四日のことなり。 |