親鸞聖人正明伝 第2巻    常楽台 釈存覚述


親鸞聖人正明伝 巻二上
 建仁辛酉三月十四日、既に空師の門下に入たまえども、六角精舎へ百日の参籠いまだ満ざれば、怠なく毎日まいりたまう。殊に建久九年の春、功徳天女の告ありしも、いまだ不審はれざるを以てなり。果して、今年四月五日甲申の夜五更に及んで、霊夢を蒙りたまいき。
 彼夢想の記文を拝するに、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の貌を現じたまい、白衲の袈裟を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命して宣わく、
 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
 救世菩薩、この文を請じて宣わく、是我誓願なり。善信、この文の意を一切群生に説聞しむべしと云云。是時、善信告命の如に、数千万の有情に、これを説聞しむると覚て夢さめおわりぬと云云。
 此告命ありといえども、深かくして口外あることなし。夢想記文とは、親鸞聖人真筆『夢想記』一巻これあり。
 斯に同年十月上旬、月輪殿下兼実公、吉水禅坊に入御ありて、いつよりもこまやかに御法譚ましましけるに、殿下仰られていわく、御弟子あまたの中に、余はみな浄行智徳の僧侶にして、兼実ばかり在家にてはべり。聖の念仏と、我在家の念仏と、功徳につきて替目やさぶろうやらんと。上人答て宣わく、出家在家ひとしくして、功徳に就て尠も勝劣あること侍ずと。
 殿下宣わく、此條もとも不審にさぶろう。其故は、女人にも近ず、不浄をも食せず、清僧の身にて申さん念仏は、定で功徳も尊かるべし。朝夕女境にむつれ、酒肉を食しながら申さんは、争か功徳おとらざらん。
 上人答て宣わく、其義は聖道自力門に申ことなり。浄土門の趣は、弥陀は十方衆生とちかわせたまいて、持戒無戒の撰もなく、在家出家の隔なし。善導は、「一切善悪凡夫得生者莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也」と判決したまえり。努努御疑あるべからずと云云。
 其時、殿下また言わく、仰のごとく差別あるまじくさぶらわば、御弟子の中に一生不犯の僧を一人賜て、末代在家の輩、男女往生の亀鏡に備わべらんと。
 上人聊も痛たまわず、子細そうろうまじ。綽空、今日より殿下の仰に従申るべしと。
 綽空は涙にくれ、低頭して御返事をも申たまわず。稍ありて申たまわく、我父母簪纓のふところを出て、慈円の室に入しより釈門の員となりぬ。又天台の門室を遁て一向の桑門となること、師もこれを知めせり。数百人の御弟子の中に、綽空ひとり選ばれて今の仰を蒙らんこと、仏天も我を舎させたまうにや、面目なくこそそうらえとて、墨染の袖を絞ばかりに見えたまう。
 良ありて、大師上人のたまわく、其いわれ子細さぶらわず。吾御房は、よな去夏の初に、救世菩薩の瑞夢を被たまわずやありけん、足下の恨は観音にこそあらめ、今はかくすこと勿れ。硯やあるとて召寄、御身を側め、一筆あそばし、押巻て彼救世霊夢の文は源空さきだちて存知てあり、諍たまうことなかれ。事のついでに侍れば、綽空の世を遁し由来きかまほし、残ず語らるべしと所望あり。一座の人人も、序よし。いかにいかにと強申しけり。其中にも、殿下の御意には憖〈なまじい〉なることを申出しいかならん事をも聞やせんと、発意もましまさず、綽空は面前の師命辞するに拠なく、衣の袖をかきおさめ申出されたり。
 さても、綽空いまだ青蓮院の弟子にて侍しとき、過にし正治二年の秋九月にてありしが、内の仰とて、恋の題を下され、人人に歌を読されけり。師の僧正も読て上らる歌に、
  我恋は松を時雨のそめかねて  真葛が原に風さわぐなり
 かく詠じて天賢に備たまうに、是にまされる歌なし。一時の秀逸なれば、そねむ人人評し申く。如此ばかりの名歌は、恋をする身ならでは読べきに非ず。一生不犯の座主として、恋の淵瀬を知たまえることいたずらなりとぞ申けり。内にも、さぞ思召けん。公卿僉議あて、既に無実の横難に逢たまう。僧正これを聞て、夫草木は口なけれども、飛華落葉にものを言せ、禽獣は鳴に涙なしといえども、これを詠ずるは歌道の習ぞかし。意に恋はしらずとも、人を恨る風歌ならば、などか此歌を読ざらんと奏ぜられける。さらば、僧侶の仮にも知まじき事をこそ読せるべしとて、重て鷹羽雪と云題を下さる。すなわち読てたてまつる歌、
  雪ふれば身に引そうる箸鷹の たださきの羽や自う成らん
 此時主上臣下もろともに、掌を拍て誠に明才の知ざる事はなしとて、大難を晴かえて倭歌の美名を取たまえり。此ときの使は僧正一生の浮沈なればとて、範宴こそ参べしとあり、某もまた厳師生涯の安否なれば、進て参ける。上より斯歌の使は誰と御尋あり。大進有範が子、範宴少納言と奏す。さては、猶父三位も歌知〈うたしり〉なり、師の僧正もさすがの達者なれば、範宴もさぞあらん、歌つかまつれとて、同く鷹羽雪といえる題を賜る。但し師の僧正たださきを詠じたれば、範宴はみよりの羽を読べしと仰あり。
  箸鷹のみよりの羽風ふき立て  おのれとはらう袖の白雪
 と申たりければ、上一人より堂上公卿に至まで、さすが三位が猶子、僧正の弟子かなと褒美せらる。主上御感の余にや、檜皮色の小袖を賜わる。肩にかけ、大床を下り、置石の辺をまかんでし間、つくづく思けるは、このたびの歌もし仕損じなば、師範猶父の名をも下べし。自害をせんも、僧徒の道にあらず。我天台の門跡ならんにこそ、此後も幾度か大内に召れで、浮世の塵に交なん。
 師の僧正も雲上のまじわり故に、かかる患難にも蓬たまえり。好也、これぞ遁世の因縁ならめと、無下にあさましく覚しかば、六角精舎へ百日の歩を運しに、感応にやありけん、計ずも厳師の高徳を聞、すみやかに名利の衣をぬぎ、心も身も真実の墨に染そうらえと、最こまかに語たまうに、空師をはじめ百有余人の御弟子、月輪殿下に至まで、みな感激の涙を止かねたまえり。
 上人宣けるは、今ひとつ残ところの侍なり、彼救世菩薩の告命は、いつのために残されけん、綽空此一事をば許たまうべしと、上人打咲たまい、然ば源空が書し一紙は、偽にこそなれめ、はやはやと責たまえば、今は申べしとて、過ぬる四月の霊告四句の文を、残さず語申させたまう。上人いつより御機嫌うちとけて、初に書たまう、巻紙をおしひらき、殿下を始めたてまつり、人人是を御覧そうらえ、いつかは申誤さぶらいきとて、指出したまう。誠に上人の兼て記されたる文言霊夢の四句の文に、一字も違ざりけるぞ不思議なる。三百余人の御弟子達、あわれ、綽空はいかなる仏菩薩の化迹にやと、ささやかぬ人もなかりし。
 綽空は、胸うちさわぎ、仕成たる世中やと、片腹いたく思召ども、現師の指授なればちから及たまわず、信空、聖覚等の智徳もいさめすすめ申さるほどに、月輪殿も喜に堪かね、やがて同車して還御し、綽空を五條西洞院の御所に移し、御娘玉日姫に配家したまう。玉日は今年十八歳なり。哀哉、月輪殿下は凡夫往生の正信を伝通せんと欲して、誠紅閨鍾愛の賢娘をやつし、いたわしくも貧道黒衣の卑婦人となしたまう。痛哉、大師上人は弥陀一教の利物を顕彰せんが為に、相承神足の高弟をおとして、在家修行の先達にそなえたまえり。竊にこれを案に、一人は勢至の応現なり、一人何ぞ直〈ただ〉也人ならん。仰でこの善巧方便を信ずべし。綽空二十九歳の御時なり。

 親鸞聖人正明伝 巻二下
 斯て玉日と幸ありて、五条西洞院に住たまう。明建仁二壬戌年十月、男子誕生あり、名を範意と申す。後に印信と改名せり。聖人左遷の時、範意六歳也。
 三十歳、四日五日、綽空六角堂へまいり、御通夜あり。夜明まで念誦礼拝して、紅涙に沈たまう。是は、去年告令の曠大の恩を報じたてまつらるるものなり。
 元久二年乙丑の春、綽空吉水へ参たまうに御前に人なし。上人竊に『選択集』を授て宣わく、足下には他力の法門に於ては、爽の法器なり。是は我撰集の秘書なり、穴賢。はやく写取て他見すべからずと、
 すなわち『化身土文類』六曰、元久乙丑歳、恩恕を蒙て『選択集』を書しき。同年初夏中旬第四日、選択本願念仏集の内題の字、并に南無阿弥陀仏往生之業念仏為本と、釈の綽空と、空真筆を以て、これを書しむ。同日、空之真影申預図書し奉る。同二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆を以て令書たまう。又夢告によて、綽空の字を改、同日御筆をもて、名之字を書しめ畢ぬ。乃至。製作を書写し、真影を図画す、これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よて、悲喜の涙をおさえて、由来の緑をしるすと云云。
 しかあれば、我祖善信は大師上人随自意の神足なり。因て随他方便の行相を勧〈すすめ〉ず、偏に一向専念の正信を弘通したまえり。はたまた、其本地をたずぬれば、曇鸞和尚の後身なり。大凡大士の悲門は、或ときは師となり。或ときは弟子となり。唯其化度を専にし、三国に流伝を欲するにあり。
 或時、善信源空上人に申たまわく、数多の御弟子達は、ともに一師の誨を受て、悉く往生不退を期するものなり。然ども、報土得生の信一味なりや、将異なるやらん、明に知がたし。面面の信必のほどを試て、全一に決定せしめたまはば、且は当来同生のよろこび、且は生前朋友のむつび、これに過べからずと。
 上人宣わく、誠に能く申されたり。すなわち明日人人集会のみぎり申出べしと。
 翌日門人集会のところに、執筆善信房申たまわく、今日の集会は、信不退行不退の両座を分て、人人の解会を試らるるなり、何の座につきたまうべしと示さるべしと。ここに、三百有余の門人、みな心得ざる気あり。
 時に大僧都法印聖覚、法蓮房信空、法力房蓮生等、信不退の座にまいるべしとて、其座につかれたり。此時数百人の輩、左右を顧て、口を噤めり。人人無音のあいだ、善信も信座に参べしとて、自名を書載たまう。暫ありて、空上人仰られていわく、源空も信の座に列べしと。
 其時、数百の門人、或は恥る人もあり、或は後悔の色を含めるもありき。
 又或時、善信房吉水に参たまうに、聖信房湛空、勢観房源智、念仏房自余の人人、始よりまいられたり。
 物語のついでに、念仏房申さく、自他同く心身ともに、往生に染たる人人なり。然ども、凡夫の信心は誠すくなく、虚仮も疑心も打変れり。いつか、上人の如なる信を得て、慮なく往生を遂ぬべきと。聞つる人人も云云と同意に申されき。
 爾中に善信ひとり肯たまわず。否とよ、自身にはさは思はべらず。上人の御信心も、また我善信が信心も、聊も替ところあるべからずと思なりと。
 聖信房以下の人等、これをとがめて云く、善信房の申るることいわれなし、争か上人の御信心に及べきと。
 善信いわく、御智慧学問にひとしからんと申さばこそ恐ある僻事ならめ、他力の信心に於ては、一たび其ことわりをうけたまわりしより全わたくしの心なし。上人の御信心も仏より給わらせたまう信心なり。善信が信心も仏より給わりぬ。いかでか、替ことのあるべきと諍て、互に止ず。
 上人きこしめして宜わく、自力の信にこそ、智慧に随て浅深のかわりあるぞかし。他力の信は、仏の方より賜わらせたまう信なれば、我も人もみなひとつにして、いささかも替る事なし。人人よくよく此義をこころえらるべし。信心の替あいておわしまさん人人は、我まいらん浄土へはよもまいらせたまわじと宣えり。
 是は建永元年丙寅秋のころにてありけるとぞ。
 聿〈ここ〉に善信聖人三十五歳の春、北国へ左遷せられたまう。
 厥由来は、源空上人専修念仏興行によりて、都部の教化風のごとくつたえ、君臣の帰依草のごとくなびけり。是時、南都興福寺、北岳延暦寺の僧侶鬱憤をさしはさみ、専修念仏を停廃し、源空上人并に上足の輩、殊には権大納言公継卿を重科に処せらるべき由上疏を捧こと再三に及べり。魔障ひまを伺い、怨讐たよりを求るおりふしなるに、上人の御弟子住蓮安楽等あやまる事あり。
 之に因て、土御門院御字、承元元年丁卯仲春上旬、公卿僉議あて、同月下旬源空上人并に上足の弟子等左遷の宣旨を下されけり。善信房も死罪流罪の中に、議定いまだ決せずありしに、六角中納言、おりふし八座に列てありしが、累に申宥られしかば遠溌すべきに定られき。
 三月十六日の午時、源空上人華洛を出て配所に赴たまう。罪名藤井元彦、謫所南海道四国、法算七旬五、追捕検非違使宗府生尚経、送使左衛門府生武次なり。
 同十六日卯初刻、善信聖人出京なり。これ空上人いまだ都にまします内に、片時も先立て洛を出んとて、兼て迭使の許へたのみたまえばなり。罪名藤井善信、謫所北陸道越後国頚城郡国府、法齢三十五歳、投非違使府生行連、送使府生秋兼とぞ聞えし。
 湖東の駅路にかかり、鏡宿に御泊ありけり。黄昏の後に、簪纓の老翁来入す。人人これを制して其名を問。翁の云く、我は三上岳の辺より来れり。聖人に申ことありとて、御障子の内に入れり。左右驚怪す。
 彼翁低頭して申さく、聖人のここを過たまうこと老が大幸なり。希は授法を垂れ、血脈を賜べしと。聖人これ神人なることを知めし、授法の御望まことにありがたきことなり。但し式あることに侍えば、御名を申させたまえとあり。翁の云く、天余手と申すと。聖人、他力仏乗の法門慇懃にさずけ、血脈を暁覚と書てあたえたまう。
 其時、老翁聖人の耳に口をあてて、御布施を献らん。配所に赴たまはば、意をゆるく待たまえ。吾今日より、影の如にまもるべし。五年の後は、めでたき事のはべらん、穴賢。人にかたらせたまうなと、ささやきて、遂に出去ぬ。
 聖人は行程十三日を経て、三月下旬第八の日、郡郡司小輔年景が館に下著あり、謫居五箇年の間は髪をも剃せたてまつらず、有髪にてましませば、愚禿となのりたまえり。
 五年の後、順徳院御宇建暦年元辛未十一月十七日、流罪赦免勅使は岡崎中納言範光卿なり。是卿は聖人の猶父三位範綱の嫡子なり、河東岡崎村に別業を立て、かよい住れけるほどに、岡崎黄門と号せり。
 十二月上旬、中納言越後に下著して綸言をつたえらる。然ども、聖人日来の心痛しきりにましませば、唯御礼の請文ばかりありて、其歳は猶越後に止まりたまえり。
 彼請文に愚禿と書て上られければ、誠にこころききたる奏状なりとて、君臣ともに大に称美ありき。