『正信偈』二
無量寿・無量光の阿弥陀仏
帰命無量寿如来 南無不可思議光
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
金子大栄先生の意訳
寿命と光はかりなき 仏に帰命したてまつる。
無量寿・不可思議光 阿弥陀仏の徳
『正信偈』は阿弥陀仏の教えと、私たちまで伝えられてきた阿弥陀仏の働きの歴史を讃えられた讃歌です。
親鸞聖人は、『正信偈』の最初に「帰命無量寿如来 南無不可思議光(無量寿如来に帰命し、不可思議光<如来>に南無したてまつる)」と、阿弥陀仏の根本的なふたつの徳号である、無量寿と不可思議光をあげて、阿弥陀仏への帰敬・信順の意を述べておられます。
阿弥陀仏は、インドのサンスクリット経典では、アミターバ(Amitabha 無量光)とアミターユス(Anitayus 無量寿)のふたつの名前で呼ばれています。
釈尊は『阿弥陀経』の中で「かの阿弥陀仏の光明は無量であり、十方の国々を照らしているが、その光は何ものにも障げられることはない。だから阿弥陀と名づける。また阿弥陀仏の寿命も、その浄土の人々の寿命も、測ることができない。だからこそ阿弥陀と名づける」といわれています。
阿弥陀仏は四十八の本願をたてられましたが、その第十二願(光明無量の願)に「もしわたしが仏になるとき、光明に限りがあって、無数の国々を照らすことができないようならば、わたしは決してさとりを開きません」と誓われ、第十三願(寿命無量の願)に「もしわたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、その長さを測り知ることができるようならば、わたしは決してさとりを開きません」と誓われました。
親鸞聖人は、「光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまえり」と和讃しておられます。
無量寿・無量光とは、いつの時代でも、どのような世界でも、阿弥陀仏の光明は照らし包んでいてくださるということです。七高僧や親鸞聖人のことばは、阿弥陀仏との出会いの感動を、わたしたちに伝えてくださいます。
私たちにとっては、いつ、どこでも、どのような場合でも、ほんとうに求めているときには、阿弥陀仏の光に照らされ、阿弥陀仏の智恵をいただくことができるということでしょう。
南無・帰命の心
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の「帰命」と「南無」は同じことばです。
南無はインドのサンスクリット語のナモ(namo)の音をそのまま漢字に置きかえたことばで、帰命は南無(ナモ namo)の意味を漢字に置きかえたことばです。
中国の宗密禅師は「帰命とは源に還るという意味である」「帰とは、依る、なげうつ、おもむく、向かうという意味である。命は心身のかなめである。帰命とは、命をかけて無上尊にたてまつる誠の心である」と説いています。
蓮如上人は「南無の二字は帰命のこころなり。帰命というは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまえと一向にたのみたてまつるこころなるべし」といわれました。
また、親鸞聖人は「帰命は本願招喚の勅命なり」といわれました。