『正信偈』五
本願の世界に生きる
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
金子大栄先生の意訳
誓いの名号を身にうけて 大悲のこころいただけば
知恵の眼をひらきえて 涅槃のさとりに至るなり
成就の世界
今回学ぶ『正信偈』の一段は四句二行の短い部分ですが、親鸞聖人の教えの中心ともい
える重要な段落です。
『無量寿経』に次のようなことばがあります。
「釈尊は阿難に語られた、阿弥陀仏の浄土に生まれる者は、みなすべて正定聚に住して
いる。それはなぜなのか、阿弥陀仏の国には邪定聚と不定聚がいないからである。十方に
恒沙(ガンジス河の砂)ほどにたくさんおられる諸仏如来は、皆ともに阿弥陀仏の功徳を
讃歎し、阿弥陀仏の名号を称えておられる。その名号を聞くことができた衆生はことごと
く、信心の歓喜があふれるほどに満ちている。阿弥陀仏は至心(真実心)をもって回向し、
はたらきかけてくださっているから、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うものは、すなわ
ち往生を得て不退転に住することができる。ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者は除かれ
る。」
正定聚=信心が定まった人、不退転
邪定聚=断惑修善・雑行雑修の人、本願を疑い自力にはげむ人
不定聚=信心が定まらない人、疑いが残っている人
『無量寿経』のこの段落は「第十一必至滅度の願・第十七諸仏称名の願・第十八至心信
楽の願の成就の文」と呼ばれ、本願が成就・完成された姿があらわされています。
親鸞聖人は「成就の文」を重視されました。
『無量寿経』には四十八願が説かれています。法蔵菩薩は、このような仏になって、こ
のような世界を実現したいと、四十八の願いを表明されました。そして、『無量寿経』の
成就文には四十八願が成就し実現した姿があらわされています。
願いをいだき、希望を持つことは大切なことです。願いには意欲があります。しかし、
願いは実現してこそ意義があります。実現した願いこそ、ほんとうの願いです。
だからこそ、親鸞聖人は『無量寿経』の成就の文を大切にされ、阿弥陀仏の成就が現実
化した先輩として、法然上人をはじめ、七高僧に学ばれました。七高僧は阿弥陀仏の願い
に生きた人々です。親鸞聖人にとって法然上人は、阿弥陀仏の願いが現実に働いているす
がたでした。
わたしたちはどのような願いを持っているのでしょうか。それは深く確かな願いでしょ
うか。親鸞聖人に学び、深い願いに生きている師・先輩に出会うことによって、確かさを
見きわめる目が、わたしたちに育ってくるのではないでしょうか。
本願名号正定業
念仏こそが正しい行である
「 一心に阿弥陀仏の名号を専念すること、これを正定の業と名づける。なぜならば、阿
弥陀仏の願にかなうからである。」(善導大師)
「 阿弥陀仏の名を称すれば、衆生の一切の無明を破し、衆生の一切の志願を満たしてく
ださる。」(親鸞聖人 教行信証 行の巻)
また、親鸞聖人は、念仏は大行であるといわれます。わたしの念仏は、わたし一人がと
なえる念仏ではありません。
「 大行とは無碍光如来の名を称すること。この念仏の行には、もろもろの善法を摂め入
れ、もろもろの功徳が具わっている。念仏は真実の功徳の宝海である。だからこそ念仏は
大行と名づけられる。
しかるにこの念仏の行は大悲の願(第十七願)よってあきらかにされた行である。第十
七願は諸仏称揚の願、また諸仏称名の願と名づけられている。」
(親鸞聖人 教行信証 行の巻)
第十七願「たといわたしが仏となったとしても、十方の世界に無量におられる諸仏が、
皆ことごとく、わたしを讃嘆して、わたしの名を称して南無阿弥陀仏ととなえることがな
かったら、わたしは正しいさとりを取ることはないでしょう。」
第十七願成就の文「諸仏如来は、皆ともに阿弥陀仏の功徳を讃歎し、阿弥陀仏の名号を
称えておられる。その名号を聞くことができた衆生はことごとく、信心の歓喜があふれる
ほどに満ちている。」
正親含英先生は「念仏は、わたしが仏を呼ぶ声でなくて、仏がわたしを呼びたもう声」
といわれました。