『正信偈』六
本願の世界に生きる 二
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
誓いの名号を身にうけて 大悲のこころいただけば
知恵の眼をひらきえて 涅槃のさとりに至るなり。
(金子大栄先生訳)
至心信楽願為因
「南無阿弥陀仏」は、第十八願(至心信楽の願)から生まれてきたということが「至心
信楽願為因」(至心信楽の願〈第十八願〉を因とする)の意味です。
阿弥陀仏は四十八の願をたてられましたが、この中で根本の願となるのが第十八願です
。親鸞聖人は第十八願に「至心信楽の願」と名(願名)をつけられました。
第十八願はどのような願でしょうか。
「たとい、我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し(至心)、信楽して、わが国に
生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法
とをば除く」
(もし、わたしが仏になるとき、あらゆる世界の人々が、まごころから、信じ喜び、わ
たしの国〈阿弥陀仏の浄土〉に生まれたいとねがって、念仏して、もし〈その人が〉浄土
に生まれることができなかったら、わたしはさとりを開きません。ただし、五逆の罪をお
かしたり、正しい教えをそしったりする者は除外します)
阿弥陀仏は、あらゆる人々が、南無阿弥陀仏を、まごころから(至心)、信じ喜び(信
楽)、浄土に生まれたいとねがう(欲生我国)ことを根本課題とされたことが、十八願に
あらわされています。
親鸞聖人は、十八願の至心(まごころ)・信楽(信心の喜び)・欲生我国(浄土に生ま
れるねがい)を本願の三心と名づけられ、本願の三心こそ真実の信心であるといわれまし
た。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。親鸞聖人は、本願の三心は阿
弥陀仏の心・阿弥陀仏からいただく心であって、凡夫の心・私たちが自分の力で築き上げ
る心ではないと言うことです。
阿弥陀仏が十八願に願われたのは、わたしたちが、わたしたちのまごころをつくして、
信心の喜びをもとめ、浄土に生まれるように努力することではないということです。
親鸞聖人は、本願の三心について、次のようにいわれています。
一には至心、この心は如来の至徳の心、真実の心である。阿弥陀如来は生きとし生ける
者に、真実の功徳をめぐらし施してくださった。
しかしながら、あらゆる人々は悪に汚れ染まって清浄の心はなく、偽りが毒のように満
ちて真実の心がない。
このすがたを悲しまれた阿弥陀仏は、欠けることのない清浄真実の心をもって菩薩の行
をおさめられ、清浄の真実心を、あらゆる衆生に廻向してくださった。
この心は如来の清浄広大の至心であり、真実心である。至心は阿弥陀仏の大悲心からい
ただいた心であるから、疑いに曇ることはない。
二には信楽(信心の喜び)、この心は、阿弥陀仏の真実心から生まれた心である。
しかしながら、煩悩に縛られ、迷いに濁っている凡夫には、清浄の信心はなく、真実の
信心はない。だから、真実の功徳に出会いがたく、清浄の信楽は得がたい。
善導大師は、このような凡夫の姿を次のようにおっしゃっている。執着する心が常に起
きて善い心を汚し、怒り心が仏法の法財を焼いている。それは、頭上に燃えさかっている
炎を手で払い消そうとして、昼夜たえることなく、身心を励まし苦労しても消しきれない
ようである。なぜなら、凡夫の善は毒をふくみ、凡夫の行いはいつわりが抜けないからで
ある。とても真実とはいえない。この毒をふくんだ善によって浄土に生まれたいと願って
も、到底不可能である。
だからこそ、阿弥陀仏は、凡夫にかわって、真実の心をもって行を修め、真実の信心を
衆生に廻向してくださった。この信心は如来の大悲心であるから、喜びに満ちあふれた心
である。
三には欲生(浄土に生まれたいと願う心)、この心は、阿弥陀仏の清浄真実の信心から
生まれた心である。
しかしながら、流転輪廻をかさねている凡夫には、清浄の廻向心はない。また真実の廻
向心もない。
だからこそ、如来が菩薩の行を行じたまいし時、廻向を第一の眼目として大悲心を成就
された。だから、如来の清浄真実の欲生心を、あらゆる衆生に廻向してくださった。
本願成就の文『経』に言く。「至心に廻向したまえり、彼の国に生と願ずれば、すなわ
ち往生を得て、不退転に住せん」
この欲生心は、如来が大悲から、あらゆるの衆生を招き呼ばれる声である。
これら三心は、みな阿弥陀仏の大悲廻向心であるからこそ、清浄真実であり、疑いに曇
ることのない心である。また、この三心は一心、ひとつの信心である。
(歎異鈔 第一章)
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと
思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり。
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと云々。