『正信偈』七
本願の世界に生きる 三
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
金子大栄先生の意訳
誓いの名号を身にうけて 大悲のこころいただけば
知恵の眼をひらきえて 涅槃のさとりに至るなり
必ず滅度に至る
親鸞聖人は阿弥陀仏の第十一願(必至滅度の願)から開かれる世界を、「成等覚証大涅
槃 必至滅度願成就」(等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願の成就なり)と
表現されました。阿弥陀仏が「必至滅度の願」を成就してくださったおかげで、わたした
ちは、ついには大涅槃の世界に生まれることができると、親鸞聖人は喜び讃えられていま
す。
滅度と涅槃は同じことばです。サンスクリット語のニルバーナの音をとって「涅槃」と
漢訳し、意味を取って「滅度」といいます。ニルバーナは火を吹き消すことだといわれま
す。涅槃は、あらゆる迷い、あらゆる煩悩を滅しつくして、静かで深く、何ものも包みこ
む安らぎに満ちた、仏の最高のさとりです。あらゆる生きとし生けるものが、このさとり
の世界に、必ず生まれることができるようにと願われているのが第十一願です。
『無量寿経』には、次のように説かれています。
第十一願(必至滅度の願) たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅
度に至らずんば、正覚を取らじ
第十一願成就の文 それ衆生ありて、かの国に生ずれば、みなことごとく正定聚に住す
。所以はいかん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり
あらゆる煩悩がなくなり、安らぎに満ちた世界とは、理想的な世界であるといっても、
私たちの現状からは、とても実現するとは考えられない世界ではないでしょうか。あるい
は、煩悩に満ちた私たちには、涅槃はあまりにもたいくつな世界に見えるという人もある
でしょう。
そうだとしても、わたしたちの目の前には、いろいろな苦労や苦しみがあります。この
苦労や苦しみから逃れることができたら、もっとすばらしい生活が始まるのではないだろ
うかと考えていることも、わたしたちの実情ではないでしょうか。
しかし、涅槃は何もない平穏無事の世界ではなく、現実から逃れることでもありません。
また、仏道の終点でもありません。阿弥陀仏をはじめ諸仏にとって、涅槃は出発点です。
涅槃から生まれる智恵が働きはじめます。涅槃はきわめて活動的な世界です。
親鸞聖人は二十九歳の時、法然上人に出会われました。親鸞聖人は九歳のとき比叡山に
登られて、仏教を学び、修行をつづけておられましたが、どうしてもさとることができま
せん。迷いが出てきて修行に集中できないことも多かったのではないでしょうか。また、
悩みに的確に答えてくださる師も見つからなかったのでしょう。とうとう二十九歳になら
れた親鸞聖人は、もんもんとした心を抱きながら京都の町にある六角堂に百日間こもろう
と決断されました。九十五日目の夜明けに受けた聖徳太子の教えと、先輩の聖覚の導きに
よって、親鸞聖人は法然上人に出会うことができました。
親鸞聖人は法然上人との出会いの感激を「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本
願に帰す」と『教行信証』の後序に書き記しておられます。「法然上人は勢至菩薩の化身」
ともいっておられます。勢至菩薩は阿弥陀仏の知恵がはたらく姿です。
正定聚に住す
法然上人に出会い、教えをうけて、これこそ確かだという道にはいられたわけですが、
この道に入ることを『無量寿経』には「正定聚に住す」といわれ、『正信偈』には「成等
覚(等覚を成る)」といわれています。
「 正定聚に住す」とは、正しく定まった(正定)仲間(聚)の一人になるという意味で
す。「等覚を成る」とは、阿弥陀仏に等しいような智恵・さとりを得るということです。
阿弥陀仏の知恵が働きつづけている一筋の道を、仲間といっしょに歩みつづけることがで
きるようになったということではないでしょうか。ほんとうの出発点が見つかったのです。
出発点に立たれた親鸞聖人は、今までのことを次のようにふりかえっておられたのでは
ないかと思います。
「 法然上人に出会うまで、あれこれ迷い、いろいろな苦労があった。こんな苦しみは早
く捨て去ってしまいたいと思っていたが、この苦労のおかげで法然上人に出会うことがで
き、法然上人の教えに心の底からうなづくことができる。今までの生活はけっして無駄で
はなかった。」
親鸞聖人は道が定まることを「回心」といっておられます。「回心」とは心の方向転換
といってもいいでしょう。方向転換といっても、たとえば、「こっちは間違っているから
あちらに変えよう」とか、「こっちの方がよさそうだから、こちらに行こう」あるいは
「どっちがいいのかわからないけれども、まあ、こっちにしておこうか」というような方
向転換ではありません。そんないい加減なことはしていないと考えている人が多いでしょ
うが、はたしてどうでしょうか。
しかし、人の一生には、たいへん重要な方向転換が一度はあるようにおもいます。その
方向転換が、なにに導かれて、どちらに向いているかがたいせつなのではないでしょうか。
『歎異抄 第十六章』
信心の行者、自然にはらをも立て、あしざまなることをも犯し、同朋・同侶にも会いて
口論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。
一向専修の人においては、回心ということ、ただひとたびあるべし。・・・
信心定まりなば、往生は弥陀にはからわれまいらせてすることなれば、我がはからいな
るべからず。悪からんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまいらせば、自然のことわりにて
柔和・忍辱のこころも出でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこき思い
を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねは思い出しまいらすべし。
しかれば念仏も申され候う。これ自然なり。我が計らわざるを、自然と申すなり。これす
なわち他力にてまします。