正信偈八
五徳現瑞の釈尊
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言
如来、世に興出したまう所以は ただ弥陀の本願海を説かんとなり
五濁悪時の群生海 如来如実の言〈みこと〉を信ずべし
仏のみむね説かんとて 釈迦はこの世に出でましぬ
にごりになやむ同朋よ まことの御言うけまつれ
(金子大栄先生訳)
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
釈尊は、阿弥陀仏の本願の教えを説き開くために、この世界に生まれられた
釈尊が阿弥陀仏の本願を説かれた『無量寿経』は、ある日の釈尊と阿難尊者との出会い
からはじまります。
その時、阿難尊者が部屋に入り釈尊を見ると、釈尊の姿は、いつもとたいへんちがって
見えました。今日の釈尊は、心身ともに安らぎと喜びに満ち、体は清らかさにあふれ、顔
は光かがやいていました。
阿難はおどろいて、釈尊の前にひざまづき合掌して申しあげました。
「今日の釈尊は、心身ともに安らぎと喜びに満ち、体は清らかさにあふれ、顔は光かが
やき、清らかな鏡が透きとおって見えるようなお姿です。このような尊い釈尊には、今ま
で出会ったことがありません。
今日の釈尊は、神通力に満ちておられます。今日の釈尊は、念仏三昧に入られて、もろ
もろの魔を抑えておられます。今日の釈尊は、導師となって、衆生を導いておられます。
今日の釈尊は、仏智をもって、最勝の道を歩んでおられます。今日の釈尊は、如来のまこ
との徳を行じておられます。
過去・現在・未来の仏さまは、たがいに念じ合っておられると聞いておりますが、今、
釈尊も諸仏とたがいに念じ合っておられるにちがいないと思いますが、いかがでしょうか
。そうでなければ、釈尊が今のように威神に光かがやいておられることはないと思います
が、いかがでしょうか」
この問いを聞かれた釈尊は、阿難にたずねられた、「阿難よ、(神々)諸天から教えら
れて、このように問うのか、それとも、自分自身の智恵によってたずねているのか。」
阿難は釈尊に「神々に教えられて尋ねているのではありません。自分自身の感じとった
ところをお聞きしているのです」と答えました。
釈尊はいわれました、「よろしい、阿難よ、そなたの問いはたいへんすばらしい。そな
たの深い智恵と、衆生を哀れむ心から問うたのであろう。
如来は、無上の大悲をもって衆生を哀れんでおられる。なぜ如来が世に生まれられるか
といえば、教えを明かにして、迷える人々を救い、真実の利益を恵みたいと願われるから
である。このような仏は、長い年月を待ち、出会おうとしても出会えるものではない。た
とえば優曇華が、長い年月をかけて、時機が熟して花開くようなものである。
阿難よ、今のそなたの問いは、まことに意義深い問いである。すべての人々を真実に満
ちに導く問いである。
阿難よ、あきらかに聴け、今そなたのために説き開こう」
ここから釈尊は『無量寿経』を説きはじめられ、法蔵菩薩が四十八願を立て、阿弥陀仏
となって建立された浄土のいわれを伝えてくださいました。
親鸞聖人は、この釈尊と阿難の出会いを『浄土和讃』に次のようにうたっておられます
。
尊者阿難 座よりたち
世尊の威光を瞻仰し
生希有心とおどろかし
未曽見とぞあやしみし
如来の光瑞希有にして
阿難はなはだこころよく
如是之義ととえりしに
出世の本意あらわせり
如来興世の本意には
本願真実ひらきてぞ
難値難見とときたまい
猶霊瑞華としめしける
親鸞聖人は「阿弥陀仏の本願をわたしたちに説き明かすためにこそ、釈尊はこの世に生
まれてこられた。釈尊の生涯の課題は、私たちを阿弥陀仏の本願の道に導くことであった
」と確信をいだかれました。