『正信偈』九
 浄土から届いた心

 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

 よく一念、喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
 凡聖逆謗、斉しく廻入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし。

   一たび信をおこしなば さわりのままに徳となる
   もろびと名号に帰しぬれば めぐみの海にとけ合わん
                  (金子大栄先生訳)

 語句
 一念=信の一念というが、親鸞聖人は「一念とは、信心に二心がないから一念という。
    これを一心と名づける」といわれる。また、心が転回して阿弥陀仏の世界に入
    り、歓喜に満ちた一瞬を一念ともいわれる。
 煩悩=貪欲(むさぼり)瞋恚(いかり)愚痴(おろかしさ)の三毒をはじめ、心や身
    体を悩ませ、迷わせる根源となる心の働き。
 凡・聖・逆・謗=凡夫・聖人・仏に逆らい傷つける人・仏教をそしる人
 廻入=心を自力から回(めぐ)らし、阿弥陀仏の本願に帰入すること
 衆水=煩悩や迷いに満ちた心を、海にそそぎこむ川の水にたとえている。


 煩悩を断ぜずして涅槃を得る
 ふつう、仏教を代表する禅宗や天台宗など自力聖道門では、きびしい修行を積んで煩悩
を断絶してこそ涅槃を得ることができると説かれているのではないでしょうか。
 ところが、親鸞聖人をはじめ他力浄土門では、煩悩を断絶することなく涅槃を得るとい
われます。
 煩悩とは、貪欲(むさぼり)瞋恚(いかり)愚痴(おろかしさ)の三毒をはじめ、心や
身体を悩ませ、迷わせる根源となる心の働きです。
 涅槃とは、仏像に刻まれた阿弥陀仏のすがたにあらわれているように、あらゆる人々を
つつみこむような穏やかと、なにものをも見逃さないきびしさのある、さとりの世界です。
 煩悩と涅槃とは正反対と言えるのではないでしょうか。どうして親鸞聖人は煩悩を断絶
することなく涅槃を得ることができるといわれるのでしょうか。


 『大乗起信論』は人間のすがたを水と波のたとえで表しています。
 暴風に波立つ海をみると、ひとときとして静まることなく荒れくるっています。しかし
海深くもぐると、水面がどれほど波立っていても、波の影響を受けることはありません。
また、荒れくるう波も、深海の静かな水も、水であることに違いはありません。

 親鸞聖人は和讃に次のようにうたっておられます。
   名号不思議の海水は   逆謗の屍骸もとどまらず
   衆悪の万川帰しぬれば  功徳のうしおに一味なり
   尽十方無碍光の     大悲大願の海水に
   煩悩の衆流帰しぬれば  智慧のうしおに一味なり


 また、蓮如上人は次のように話されました。
 「信力にて往生定まるときは、罪はさわりともならず。命の娑婆にあらんかぎりは、罪
は尽きざるなり。
 罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもい
くたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀
の御はからいなり、我としてはからうべからず、ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ
候うなり。」
 意訳(たしかな信心をいただき、阿弥陀仏の本願に生きる道が定まったときには、どれ
ほど罪深い者であっても、その罪はさわり(障害)にはなりません。この娑婆に生きてい
るかぎり、次から次へと罪を犯さずには生きていけません。罪をあるかどうかと考えるよ
り、いつも、たしかな信心があるかどうかと考えるほうがよいでしょう。罪が消えさって
から救われるとしても、罪がありながら救われるとしても、それは阿弥陀仏のお計らいで
す。自分が計らうことではありません。ただ信心がたいせつです」と、くれぐれと仰せに
なりました。)


 自分自身を小さい存在だと思っても、自分の根底には大きなものがあります。私の心は
深いところで浄土につながっています。小さい心は煩悩、大きい心は涅槃・浄土に通じて
いる心です。すぐ腹が立ったり、他人の悪いところばかりが目に付くというのは小さい心
でしょう。
 深く大きい心があるからこそ、すばらしいものに出会ったり見たりしたとき、
すばらしいと感動します。それは浄土が私のところに働いているからです。感応道交とい
います。

 あるものを見て、これは本物のだと感じ、あるいは、これはにせものだ、底が浅いとわ
かることは、確かに感じとっているものがあるからです。その感じは浄土から来た感覚で
す。浄土が私の中で働いているからです。確かに浄土が私に働きかけている、確かに本物
とにせものの区別がつくと自覚し確信できることを不退転といいます。

 阿弥陀仏の教えを聞き、その通りだとうなづくことができること、いろいろな人に出会
ったとき、ああ、ここに阿弥陀仏が働いておられると感じることができること、これが信
心ではないでしょうか。
 すばらしい人に出会って、その人のすばらしさを人に伝えること、すばらしい人ととも
に働くことは、浄土のはたらきをこの世界にあらわすことでしょう。阿弥陀仏の働きに参
画することではないでしょうか。

 水と波のたとえでいえば、どれほど波が立っていても、水は水の性質を失っていないと
いうことです。波は煩悩、水は浄土・本願です。煩悩多い私であっても、浄土が私に働き
私を通じて浄土が働いているのです。