『正信偈』十
曇り空の下でも道は見える
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
摂取の心光は常に照護したまう
すでによく無明の闇を破すといえども
貪愛瞋憎の雲霧
常に真実信心の天に覆えり
たとえば、日光の雲霧を覆れども
雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし
信を獲れば見て敬い大いに慶喜せん
すなわち横ざまに五悪趣を超截す
金子大栄先生の意訳
大御光に照らされて 疑いの闇晴れたれど
愛と憎みの雲霧は 常に信心の空をおおう
よし雲霧はへだつとも 闇のあらずぞ 尊けれ
その信心獲しよろこびに 迷いの夢はさめぬべし
語句
無明=疑い・愚痴
貪愛=むさぼりと執着
瞋憎=怒りと憎しみ
五悪趣=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天
人がとらわれている世界
空は曇っていても
「信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたもうゆえに、無明の闇はれ、
生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし」
(親鸞聖人『尊号真像銘文』 聖典 本願寺五三二頁 明治書院四八四頁)
長くつづいた闇夜がおわり、あかつきをむかえて、ものが見えはじめてきた。ところが
、空を見上げると、どんよりとした雲におおわれている。これではすっきりとした朝には
なりそうもない。しかし、見てみなさい。もう暗闇ではないでしょう。ものははっきり見
えているでしょう。道は十分に見えているではないですか。
親鸞聖人や蓮如上人のことばを読みますと、信心から、光に出会ったところからはじま
っているように思います。どうしたら光に出会うことができるのでしょうか。信心を得る
とは、どのようなことでしょうか。
光の輪にはいる
もう十数年前になりますが、報恩講に何年かつづけて、福井から三上一英先生をお招き
して、法話をお聞きしたことがあります。どんな法話だったか、全然おぼえていませんが、
ただ、三上先生の底のないようなほがらかさが、強く記憶にのこっています。
三上先生のお寺は、福井の大空襲や福井地震で二度も焼け、二度も建てなおされたと、
父から聞いたことがあります。また、専任の教誨師(宗教者として、受刑者を教えさとす
役職)を長く勤めておられました。
たいへんな苦労を乗りこえてこられた方だから、こんなにほがらかになられたのかとも
思いましたが、苦労話はされません。先生の人格は、苦労だけからではなく、苦労をこえ
たものから生まれたにちがいないと思いますが、それは何でしょうか。
最近、三上先生が書かれた本を見ました。その本から、いろいろな先生や先輩、友だち
の輪の中におられたことがうかがわれます。
三上先生の本に、次のようなことばがありました。
エエナ 世界虚空 ミナホトケ ワレモソノ中 南無阿弥陀仏
光追う人に光はなかりけり 光なき人、光を仰ぐ(藤原鉄乗先生のことば)
光の輪から生まれた先生のほがらかさだったのではないでしょうか。