『正信偈』十一
阿弥陀の心を聞きひらく
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏 邪見慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏は、広大勝解のひととのたまえり。この人を分陀利華と名づく。
弥陀仏の本願念仏は 邪見慢の悪衆生、
信楽受持すること はなはだもって難し。難のなかの難、これに過ぎたるはなし。
われら凡夫も、み仏の願いにかなう身となれば
知恵あるものとよびたまい 白蓮華よとほめたもう
されど仏の本願は よこしまにしてほこる身に
受け持たんは いとかたし 難きがうえに なお難し
(金子大栄先生訳)
語句
凡夫=凡人、迷っている人、愚かな人。聖者の反対。親鸞聖人はご自身を愚禿と名乗っ
ておられた。
弘誓願=阿弥陀仏の本願。(弘誓・誓願)
勝解者=勝は「すぐれている」。解は「さとる」、了解する。仏の心をたしかに受け取
っている人
「広大勝解者とは、一切智人をいう。仏なり」(相伝義書)
分陀利華=白蓮華、蓮の花。
「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥に蓮華を生ず」
(真宗聖典 本二八八頁十三行 明三〇四頁五行)
邪見=よこしまな考え、ものの見方がゆがんでいること。
慢=自分に執着するあまり、自分がもっともすぐれていると思いこみ、他の人を見下
げる。
「沈酔放逸」酔っぱらって勝手気ままに振る舞っていることと変わらないといわれ
る。
信楽=信心によって開かれる喜び。
「どのような人でも、本願を聞信する人は、仏に等しく、蓮の花のように尊い」
聞信するとは心の底まで聞き取って、信心の道が開かれることです。「相伝義書」に次
のように説かれています。
仏法を聞くということは、耳から聞きとったことが心の底まで到達して、はじめて「聞
く」といいます。
ことばを知り、意味を理解するばかりであれば、浅い心(意識)が働いているだけです。
心の底までとおらなくては、何の意味もありません。
親鸞聖人は、わたしたちが聞きとって、心の底に受けとるためにこそ、多くの書物を書
きあらわされました。しかしながら、耳には聞いていても、ことばや論理に止まっていて
は、せっかくの親鸞聖人の教えが無益になってしまいます。
心に徹底しないというのは、なぜでしょうか。それは「常没の凡夫人」と親鸞聖人があ
らわされた心が思い知られないからです。
「いつも聞いている」「もう知っている」と思っていては、「聞く」こと、「知る」こ
とから遠く離れています。蓮如上人は「知ったと思うは知らぬことなり」といわれました。
今日まで聞いていても、見過ごしてしまって、心の底に聞き取っていなかったなあと、自
分自身の心を改め、はじめて聞く心にならなければ、いつまでも心には入ってきません。
まことに無始已来諸仏の教化にあいて、廃悪修善の道は聞き習いしかども、我身を常没
の凡夫と知らしめくだされた御教えは、今始めて遇い奉るなり。
故に、初めて聞くこと故に、甚だ以て聞信し難く心得難きなり。当流の御教化に逢い、御
流を汲む所詮には、唯この御意を思いしること、返す返すも肝要なり。
他力の法門は、自心を常没と知らざる間は、心には聞こえざるなり。「常没凡夫人」と
は、兼ねて心得の通り、凡夫の迷倒は三世不断にして常住なり。生と死との愛河に沈没し
て出期あることなし。この常没の凡夫人は、仏法の器にあらずとして、三世恒沙の諸仏の
大悲に預かり、十方無量の如来の慈悲に預かりながら、その大慈大悲を離れて、常に没し
常に流転し来たれる凡夫なり。
すでに、三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにして、大菩提心おこせども、自力かなわず
して、流転の凡夫となれるところの我人なれば、今日悪を造るに増さりて、仏法のあだと
なり、かたきとなり来たりし常没の凡夫人なり。然るに、この非機たるものが本願の正機
ぞとなり。
自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき
三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり
(正像末和讃)
仏、弥勒に語りたまわく、如来の興世に値いがたく、見たてまつること難し。諸仏の経
道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識
に会い、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持す
ることは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」
(無量寿経 真宗聖典 本八七頁四行 明七六頁十五行)
二種深信 機の深信 法の深信
深心というは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の
縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受
して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。・・・
また深信するもの、仰ぎ願わくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、
決定して行によりて、仏の捨てしめたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばす
なわち行ず。仏の去らしめたまうところをばすなわち去つ。これを仏教に随順し、仏意に
随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
(善導大師 真宗聖典 本二一五頁十四行 明二三七頁十四行)