『正信偈』十二
浄土真宗の歴史との出会い
印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機
印度西天の論家、中夏・日域の高僧、
大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
印度・中華・日本と 世世に聖の出でまして
教えのまことをうけ伝え 弥陀の誓いを明かしけれ
(金子大栄先生訳)
語句
如来の本誓=阿弥陀仏の本願
大聖興世の正意=釈尊がこの世界に生まれてこられた本当の意義
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
機=縁に会えば発動する可能性を持つ者
仏の教法をうけ、その教化を被る者の素質能力
教えの対象となる者
今回から『正信偈』の後半に入ります。前回までの『正信偈』の前半は『無量寿経』の
教えでしたが、今回からは七高僧の教えにはいります。
親鸞聖人は『教行信証』の序文に「大無量寿経 真実の教え 浄土真宗」(真宗聖典
本一五〇頁 明一八一頁)と書いておられます。仏教の経典(お経・お釈迦さまの教え)の
数は八万四千といわれるように、たいへん膨大な数量になりますが、その中から『無量寿
経』を選び取られました。
浄土真宗というと、真宗大谷派(東本願寺)とか浄土真宗本願寺派(西本願寺)といいます
から、宗派の名前だと思いがちですが、親鸞聖人ご自身は、浄土真宗を宗派の名前とは考
えておられませんでした。『無量寿経』が浄土真宗であるとおっしゃいました。『無量寿
経』こそ、浄土(阿弥陀仏)の真実の宗(むね・おしえ)であるという意味で「浄土真宗」と
いわれたのです。
親鸞聖人は法然上人をとおして『無量寿経』の教え(浄土真宗)に出会われました。この
出会いは、親鸞聖人にとって、法然上人と『無量寿経』に出会ったというだけではありま
せん。釈尊から親鸞聖人まで、『無量寿経』が人から人へと伝えられてきた、千七百年間
の浄土真宗の歴史との出会いでもありました。
七高僧は、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・源空(法
然)上人の七人の高僧をさします。
龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
西暦一・二世紀ごろ、インド南部
大乗仏教の教学を確立。
称名憶念・易行道
天親菩薩(てんじんぼさつ)
西暦四・五世紀ごろ、インド北部
唯識教学(仏教の深層心理学)を大成。
願生浄土
曇鸞大師(どんらんだいし)
西暦五〜六世紀、中国 南北朝時代
本願力回向・他力
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)
西暦六〜七世紀 中国 南北朝〜唐
末法時代の求道
善導大師(ぜんどうだいし)
七世紀 中国 唐時代
念仏成仏これ真宗
源信僧都(げんしんそうづ)
十〜十一世紀 日本 平安時代
濁世と浄土
源空(法然)上人(げんくうしょうにん)(ほうねんしょうにん)
十二〜十三世紀 日本 平安〜鎌倉時代
本願念仏・ただひとえに善導に依る
親鸞聖人が出会われた浄土真宗の歴史とはどのような歴史でしょうか。
仏教の歴史を見ますと、『無量寿経』の教えはほかの教えとくらべると一種独特な特徴
があります。『無量寿経』以外のお経、たとえば『法華経』は天台宗、『大日経』は真言
宗、『解深密経』は法相宗など、インド・中国で、お経ごとに宗派(グループ)が形作ら
れました。しかし『無量寿経』は宗派というグループをつくることなく、庶民に広く信仰
されてきたということと、天台宗や法相宗などの高僧もまた『無量寿経』を信仰し、学ん
できました。
『無量寿経』の教えは、仏教の歴史の中で、たいへん広く深い流れを形作ってきたわけ
です。この広い歴史の流れの中から、それぞれの時代を代表して出てこられたのが、龍樹
菩薩から法然上人までの七高僧です。
曽我量深先生は「南無阿弥陀仏が、すでに我々の血となり肉となって、我々に与えられ
てある」といわれました。
私たちが、今は気づいていなくても、私たちの体の中には、すでに阿弥陀仏の本願が働
いていることを教えてくださるのが、七高僧の教えではないでしょうか。
親鸞聖人は、三回、法名をかえておられます。
綽空=道綽・源空 法然上人に出会われたとき
善信=善導・源信 『選択集』書写をゆるされたとき
親鸞=天親・曇鸞 北陸に流罪されたとき
この名前を見ますと、親鸞聖人は、生涯の節目節目に七高僧の教えに出会われ、ご自身
の信心や教学を深めていかれて、浄土真宗の歴史を歩まれていたのだと感じられるのです。