正信偈十五 龍樹菩薩三
 念仏に出会う

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

 弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。
 ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。

 弥陀の願いを念じなば おのずからなる道あらん
 慈悲憶いて常にただ 名号称えよと述べましぬ
              (金子大栄先生訳)

 語句
 憶念=心にたもって忘れない。阿弥陀仏の願いが心の底から現れて働いている。
 必定=不退転・正定聚・必ず浄土に生まれると定まる
 如来の号=南無阿弥陀仏、名号
 弘誓=阿弥陀仏の本願
 称名=南無阿弥陀仏をとなえること


 易行道が生まれ出た背景
 龍樹菩薩の『易行品』に次のようなことばがあります。

  阿弥陀仏の本願の要点をいえばこのようになる。「もし人が、阿弥陀仏を念じ、南無
  阿弥陀仏を称えて、帰命すれば、すなわち必定・不退転に入り、仏の智慧を得ること
  ができる」。だからこそ常に憶念しつづけなければならない。

 龍樹菩薩が開かれた易行道は念仏・憶念の道です。南無阿弥陀仏を称え、本願を憶念し
つづけることによって仏の智慧に至ることができると説き明かされています。

 曽我量深先生は、龍樹菩薩が明らかにされた念仏の道には、龍樹菩薩に至るまでの背景
があるといわれます。
  龍樹菩薩は「称名・憶念」の大文字を感得された。そして、おおいに称名憶念の大道
  を鼓吹された。この大道こそは、はるかにインド民族の血の中に流れてきた大思想で
  あった。真実の思想は、あまねく凡人の胸を通し、血を通して流伝してくる。思想家
  はこの凡人の胸に流れるものを直感する。この点において、龍樹は実の思想家である。

 たしかに、龍樹菩薩は難行道に耐えられなかった人のさけび声を聞いて易行・念仏の道
を説きはじめられました。それまで聖人や賢人でなければ歩めない難行道にしか目が向い
ていませんでしたが、そのさけび声を聞いて、凡夫・凡人であっても真剣に道を求めてい
る人がいることに気づき、その人を通して、凡夫・大衆の心の底に、形なきままに流れ伝
えられてきていた念仏の大道が見えてきたのでしょう。凡夫のさけび声は、じつに、龍樹
菩薩の目の前に広い道が開かれていると気づかせる阿弥陀仏の声であったといってもいい
でしょう。


 南無阿弥陀仏の声を聞く
 念仏とは何でしょうか。南無阿弥陀仏と称えることが念仏だといわれますが、ただ私が
一生懸命に念仏すれば阿弥陀さんが助けてくださるということではありません。南無阿弥
陀仏の声を聞くことが念仏です。
 南無阿弥陀仏の声を聞くとはどういうことでしょうか。

  たとい、わたしが仏になろうとしても、十方世界の無量の諸仏が、ことごとく讃嘆し
  て、わたしの名を称しなかったら、正覚を取るまい
             『無量寿経』第十七願 聖典 東十八頁一行 明十六頁一行

  わたし仏道を成就するに至れば、名声は十方に超えるであろう。もし聞えないところ
  があれば、誓って正覚を成就しない。大衆のために法蔵を開いて、広く功徳の宝を施
  そう。つねに大衆のなかにいて、獅子吼説法しよう
    『無量寿経』三誓偈 聖典 東二五頁六行、末一行 明二二頁八行、二三頁二行

 阿弥陀仏をたたえる声を聞くこと、阿弥陀仏が語りかけておられる声を聞くことが念仏
です。凡夫の叫び声を素直に聞かれた龍樹菩薩の前に念仏の大道が開かれたのですから、
龍樹菩薩にとって、「どうかやさしい道を教えてください」という凡夫の声は阿弥陀仏か
らの声、念仏の声ではなかったでしょうか。

 「相伝義書」に次のようなことばがあります。
  念仏とは、口にただ南無阿弥陀仏と称えることばかりをいうのではない
  心が一つになることが念仏の心である。「無明・法性ことなれど 心はすなわちひと
  つなり この心すなわち涅槃なり この心すなわち如来なり」という親鸞聖人の和讃
  がある。