正信偈十六 天親菩薩一
天親菩薩の求道
天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
天親菩薩『論』を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅によって真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向によって、群生を度せんがために一心を彰す。
功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。
蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといえり。
ひじり天親 論を説き 無碍の光に帰したまい
経のまことに応えてぞ 弥陀の誓願をたたえつつ
その願力に賜れる 一心のむね彰わしぬ
名号の功徳に帰しぬれば かならず聖のかずに入る
永遠のみくにに至りなば やがて真如を証りえて
生死の園に遊びては 応化自在の身とならん
(金子大栄先生訳)
語句
『論』=『無量寿経優婆提舎願生偈』、略して『浄土論』という。
優婆提舎=注釈
願生=浄土に生まれることを願う
無碍光如来=尽十方無碍光如来、阿弥陀仏。十方のあらゆる世界に、何物にも妨げられ
ることのない光をそそいでおられる如来。
如来=一如・真実の世界から来られた方
修多羅=スートラ・経典。スートラは「たて糸」の意味。釈尊の教えは、たて糸のよう
に、真実の教えをつらぬいて散失させないことから、スートラと呼ばれた。
群生=生きとしいける者・衆生。命あるものは群をつくり、互いに依存しながら生きて
いることから群生という。
小乗から大乗へのあゆみ
親鸞聖人は天親菩薩の『浄土論』を「一心の華文」とたたえられ、浄土三部経に等しい
書であると大切にされました。
天親菩薩(バスバンドウ Vasubandhu 世親)は、兄の無著菩薩とともに、西暦四世紀
か五世紀の北インド地方で「瑜伽唯識」といわれる、新しい大乗仏教思想を形づくった大
論師です。
インドでは、二世紀に龍樹菩薩が生まれられたころから、大乗仏教が盛んになってきま
したが、インド全体が大乗仏教一色になったのではありません。天親菩薩の時代にも、イ
ンド各地には、大乗仏教教団とともに小乗仏教教団が数多く活動していました。
天親菩薩は、はじめ小乗の仏教教団に入り、小乗仏教を研鑽して、熱心に小乗の教えを
宣布しました。当時の天親菩薩の著作に『倶舎論』があります。小乗仏教の教理を詳しく
書きあらわした書物で、現代でも、小乗仏教の教学を知るため、あるいは大乗仏教の基礎
学として、さかんに研究されている、すぐれた著作です。
兄の無著菩薩は、はやくから大乗仏教をこころざし、瑜伽唯識の教学や修行にはげんで
おられました。しかし、弟の天親が小乗仏教に帰依しているのみならず、大乗仏教は仏説
にあらずとまで主張していると聞いて、心痛のあまり病気になられたようです。
無著菩薩は天親に真実の教えに出会ってほしいと、天親を呼びよせました。天親は、病
いに臥している兄を見ておどろき尋ねると、無著菩薩は、天親が大乗仏教を誹謗している
と聞いたために、心痛のあまり体調を崩してしまったと答え、次いで、天親に大乗仏教の
道理をじゅんじゅんと説ききかせました。
これによって天親は大乗に帰依することになりましたが、今まで大乗を誹謗してきた罪
の大きさを懺悔して、舌を切ろうとしました。それを見た無著菩薩は、それは真実の懺悔
ではない、その舌を以て大乗を説き広めることこそ罪滅ぼしになるとさとされました。
その時から天親菩薩は大乗仏教の研鑽を積まれ、無著菩薩とともに新しい大乗仏教の中
心的人物になられ、多数の論疏を残されました。天親菩薩の代表的な著作は『唯識三十頌』
『摂大乗論疏』『法華経論』『仏性論』『浄土論』などです。
心の探究 唯心思想
仏教は物質より心を大切にしてきましたが、それだけではなく、すべてのものごとは心
から表れ出たものにほかならない、心を離れては一切のものは存在しないという「唯心思
想」が仏教修行の瞑想から生まれてきました。
心とは私たちの意識ということができるでしょう。私たちは心や意識を通してものを見
ています。ものを見るということがなければ、わたしにとって物はないのと同じになるで
しょう。見るということは、わたしの目でものを見て、それがどのようなものかを感じ取
り、ものについて考えるということでしょう。わたしに心や意識や感覚がなければ、わた
しにとって物はないのと同じでしょう。
しかし現代の人びとは、物質は確かにあるではないか、どうして心がなければ物がない
などということができるのか、心に関係なく物はあるではないかと考えるに違いありませ
ん。
たしかにその通りだと思います。しかし、わたしが見て、感じ、考えている物は、はた
してわたしが感じているとおり、そのままの姿であるのでしょうか。
たとえば、何人もの人々が、あるひとつの出来事を目撃した場合に、あとから何を見た
のか聞かれたところ、一人一人の話がくい違って、どれが本当なのかわからなくなること
があります。一人一人は自分の見たことこそ事実だと思っているでしょう。しかし、一人
一人が興味を持ち、注目していることには違いがあります。人は一人一人、姿形が違うよ
うに、心もそれぞれ違います。それぞれ関心を持つ物が違いますから、残っている記憶に
差がでてくるのでしょう。
それだけではなく、心が生き生きしていれば、生き生きした世界が開かれ、心が暗く閉
じていたら、闇のような狭い世界しか見えないでしょう。
『阿含経』に「心が悩むが故に衆生は悩み、心が浄きが故に衆生は浄し」ということば
があります。また、『維摩経』は「もし菩薩が浄らかな世界を得たいと願うのであれば、
菩薩は自分自身の心を浄らかにしなければならい。自分の心が浄らかになれば、その心に
したがって、国土も浄らかになる」と語りかけています。
阿頼耶識(アーラヤ 心の根源)の発見
このような「唯心思想」の伝統の中から、天親菩薩や無著菩薩の「瑜伽唯識」の思想が
生まれてきました。
「瑜伽唯識」の「瑜伽(ヨーガ)」とは、禅定を主体とする瞑想の行です。どのように
して人間の迷いが生みだされ、またどのようにして求道する心が生まれてくるのだろうか、
人の心の構造はどのようになっているのだろうかと、瞑想の中で思惟され、明らかにされ
たのが「唯識」です。
「識」とは、ものごとを感覚・知覚・思考する心のはたらきを意味することばです。唯
識思想によると、「識」には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・マナ識・アーラヤ
識の八識があります。このうち、眼識から意識の六識は小乗仏教でも見出されていました。
眼識は視覚、耳識は聴覚、鼻識は臭覚、舌識は味覚、身識は触覚の五感です。意識はいろ
いろな感覚を受けとって、知覚し、考える、働きかける心です。私は私だと感じ取ってい
る自意識は、この六番目の識「意識」です。
大乗仏教の「瑜伽唯識」は、私たちの意識の奥底にひそんでいる無意識の世界に、マナ
識とアーラヤ識を発見しました。マナ識は私たちの意識の底にある自我執着心です。煩悩
のかたまりともいえる心です。アーラヤ識は、私たちの意識では気づかないような、心の
もっとも深いところにあって、私たちを支えている心です。アーラヤ識は蔵識ともいわれ
ます。蔵のように、遠い過去から今にいたるまでの良いことも悪いことも蓄えている心で
す。私たちの経験や思いがアーラヤ識に記憶され、また、アーラヤ識にたくわえられたこ
とが、私たちの心や行動に現れ出てくるのです。
アーラヤ識には浄らかなことも汚れたものも、真実も虚妄も納められていることから、
真妄和合識ともいわれます。アーラヤ識があることによって、私たちの迷いや煩悩が現れ、
また逆に、私たちは真実を求めて求道する心が現れ出てくるのです。一面では誠実さを見
せるかと思えば、他方ではどうしようもない虚偽に満ちているような、人間の人格の根源
です。
「瑜伽唯識」の目的は、瑜伽行を積んで、アーラヤ識を汚れがある状態から浄らかな状
態に転じていくこと、識を転じて智慧を得ることです。
煩悩いっぱいの凡夫とさとりを開いた仏の違いは、汚れた識があるかないかの違いです。
アーラヤ識は凡夫の迷いの根源になっていますが、アーラヤ識の清浄な一面は、たとえ凡
夫のものであっても、さとりを開かれた仏と少しも違いがありません。
煩悩いっぱいのアーラヤ識は、法蔵菩薩がはたらいておられる場所、法蔵魂に満ちてい
るところではないでしょうか。