正信偈十七 天親菩薩二
阿弥陀仏に出会う
天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
天親菩薩『論』(浄土論)を造りて説かく、
無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向によりて、
群生を度せんがために一心を彰す。
ひじり天親 論を説き 無碍の光に帰したまい
経のまことに応えてぞ 弥陀の誓願をたたえつつ
その願力に賜れる 一心のむね彰しぬ
(金子大栄先生訳)
語句
帰命無碍光如来=南無阿弥陀仏
天親菩薩の『浄土論』の原文では「帰命尽十方無碍光如来」
「いつどんな所にいても障りなき光を照らしてくださる阿弥陀如来に全身全霊をも
って帰命いたします」という天親菩薩の信心の告白
修多羅=経典、『無量寿経』
横超=「横ざまに超える」という意味。絶対他力
聖道門仏教では、凡夫は煩悩を断ち切って悟りを開いて仏になるためには、世俗
を捨てて、厳しい菩薩の修行を永劫ともいえる長い期間おさめなければならない
とされる。
それに対して、浄土門仏教では、人々は、日常生活をつづけ、煩悩をもったまま
でも、阿弥陀仏の本願力によって浄土に生まれることができる。これを親鸞聖人
は「横超」と名づけられた。
大誓願=阿弥陀仏の本願
光闡=本願の教えを明らかにして、広く人々に伝え教えること。
回向=阿弥陀仏の働きかけ。
回向とは、自力門の仏教では、仏道を歩む者が善
行供養などを仏や人々に施すことをいう。
しかし、親鸞聖人は、阿弥陀仏が求道者に働きか
けてくださることが回向であると明らかにされた。
天親菩薩の懺悔
天親菩薩の唯識思想は、仏教のながい歴史のなかで、もっとも深く自己の内面を見つめ、
ふかく懺悔された罪悪自我観であったと、曽我量深先生はいわれました。
唯識思想は、深い瞑想の実践の中から、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・マナ識
・アーラヤ識の八識による、人の心の構造と働きを明らかにしましたが、このなかで、ア
ーラヤ識は、人の心の奥ふかくひそんで人を支えている心、まったくの無意識の奧底にあ
る主体ともいうべき心です。
このアーラヤ識の一皮外側にこびりついているのが、煩悩の固まりのマナ識だといわれ
ます。マナ識はアーラヤ識が示していることを誤解し、その誤解が執着となって、私たち
の意識や目・耳などの五感を迷わせるといわれます。わたしたちの煩悩がいかに深く、頑
固なものかを示しているようです。
また、アーラヤ識は蔵識ともいわれます。蔵のように、遠い過去から今にいたるまで、
善も悪も、浄らかな心も汚れた心も、あらゆることを蓄えている心です。私たちの日日の
経験や思いがアーラヤ識に記憶され、また、アーラヤ識にたくわえられていることが、私
たちの心や行動に現れ出てきます。新たな行動や、それから生まれる結果が、またアーラ
ヤ識に記憶されます。
このように刻々変化して止まないアーラヤ識は暴流、つまり、大雨で川にあふれる濁流
のようだといわれるのです。
仏教学者で座禅をされる玉城康四郎先生にお会いしたとき、「座禅するほど自分の心の
みにくさが見えてくるのですよ」とお聞きしておどろいたことがあります。座禅の深い瞑
想の中では清らかな心が表れるとおっしゃるのではないかと思っていたのですが、いかに
人の煩悩が深いかと教えていただきました。
唯識思想から浄土教へ
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる
(聖典 東五〇八頁下段一・三)
親鸞聖人が八十五歳のときにつくられた「悲歎述懐和讃」の第一・第三首です。
虚仮(こけ)=うそいつわり。心の中とうわべとが一致しないこと。思慮の浅いこと。
蛇蝎(じゃかつ)=ヘビやサソリ
修善(しゅぜん)=善行を修めること。修行すること。
雑毒(ぞうどく)=毒が混ざる
瑜伽行の瞑想の中で、濁流のようなアーラヤ識、執着の固まりのようなマナ識を見つめ
られた天親菩薩と、「悲歎述懐和讃」をつくられた親鸞聖人には通いあう心を感じます。
二人とも、自分自身の煩悩の深さ、執着の強さに気づかれ、愕然とされたのではないか
と思います。しかし絶望したり、あきらめることなく、そこから阿弥陀仏の世界を発見さ
れたことが天親菩薩と親鸞聖人の共通点ではないでしょうか。
天親菩薩はどん底で出会われた『無量寿経』の教えを『浄土論』にあらわされました。
『浄土論』のはじめに掲げられている「願生偈」は「世尊、我一心に尽十方無碍光如来
に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」ではじまり「あまねく、もろもろの衆生
と共に、安楽国に往生せん」ということばで結ばれています。
(聖典 東一三五〜一三八頁 明一二九〜一三二頁)
天親菩薩の目の前に光あふれる世界が広がった感動が、わたしにも伝わってくるように
感じます。
暗闇に日の光が射しこむように、阿弥陀仏の本願がとどいた感動を釈尊に告白し、浄土
に生まれたいと願われました。そこから、ただ自分一人ではなく、あらゆる人々といっし
ょに浄土に生まれたいという願いに広がっていったことが「願生偈」にうたわれています。
アーラヤ識と法蔵菩薩
アーラヤ識は、人の苦しみと迷いを生み出す根源になっていますが、他方では、求道の
意欲と感動が生まれる源泉でもあります。
『観無量寿経』に「如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたもう」と説
かれています。 (聖典 東一〇三頁四行 明九一頁八行)
曽我量深先生は「アーラヤ識は法蔵菩薩である」といわれました。
法蔵菩薩は仏様の代表者であるか、我々衆生の代表者であるか。
死ぬも生きるも衆生と共にし、楽しみも苦しみも衆生と共にする、迷うも悟るも衆生
と共にする。衆生が苦しめば我も苦しむ、衆生が楽しめば我も楽しむ。衆生の楽しみ
を我が楽しみとし、衆生の苦しみを我が苦しみとする。
衆生を救わんと大誓願を発したという、本願を発したところの法蔵菩薩の精神と同じ
ものがアーラヤ識なのである。
これはやはり大乗精神である。一切衆生と共に安危を共同する、こういう精神である。
自分一人悟ろう、自分一人悟を開こう、そういう利己主義ではない。
迷うも衆生と共に、悟るも衆生と共に、これがアーラヤ識の精神である。それが即ち
法蔵菩薩の精神である。それが即ち仏の精神である。それが即ち法蔵魂である。