正信偈十八 天親菩薩 三
 一心が開かれる

広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化

 広く本願力の回向によって、群生を度せんがために一心を彰す。
 功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。
 蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
 煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといえり。

 その願力に賜れる 一心のむね彰わしぬ
 名号の功徳に帰しぬれば かならず聖のかずに入る
 永遠のみくにに至りなば やがて真如を証りえて
 生死の園に遊びては 応化自在の身とならん
               (金子大栄先生訳)

 語句
 本願力回向=阿弥陀仏が自らの本願を明らかにして、人々に願いかけ、人々に働きかけ
    て救うこと。
    たとえば、親鸞聖人にとって、法然上人に出会って教えを受けたことが、阿弥陀
    仏の本願力回向であった。また、法然上人に出会うことができたことから振り返
    ってみると、それまでの苦しみ悩んでいた生活も大きな意義があった。本願力が
    働いていたからこそ、苦しみの中で道を求め、ついに法然上人に出会うことがで
    きたと、親鸞聖人は感じ取られた。
 群生=生きとし生けるもの・衆生
 蓮華蔵世界=阿弥陀仏の浄土
 真如法性身=阿弥陀仏の根本となっている悟り
    『文類正信偈』には「寂滅平等身」。阿弥陀仏の、煩悩から解放された静かな悟
    り、あらゆるものを分け隔てすることのない悟り。
 煩悩の林=人間の世界。煩悩に満ちあふれた人間の生活
 生死の園=あらゆるものが生まれては死に、一時として止まることなく移り変わってい
     く世界。
 応化=人々を救い助けるために、仏菩薩がいろいろな姿になって表れてくださること。
    『大乗起信論』に「仏は人々を救い教えるために、様々な姿を取って現れる。た
    とえば仏そのままの姿を現されたり、あるいは師となり、友となり、また仇敵と
    なって現れることもある」と書かれている。


 一心 心が転換される感動
 『正信偈』の天親菩薩の段は十二句から成っていますが、その前半の六句を解釈すると
次のようになります。

 天親菩薩は『浄土論』を造られて、どんな所までも障りなき光を照らしてくださる阿弥
陀如来に全身全霊をもって帰命されました。そして『無量寿経』によって阿弥陀仏の真実
の教えを顕して、凡夫が凡夫のままで救われる本願を明らかにし、広く本願力の回向によ
って、あらゆる人々をすくうために一心を彰わされました。

 この中で「あらゆる人々をすくうために一心を彰わされました(為度群生彰一心)」と
いわれる「一心」とはどのようなことでしょうか。

 天親菩薩は『浄土論』のはじめに「釈迦牟尼世尊よ、わたしは一心に尽十方無碍光如来
に帰命し、阿弥陀仏の浄土である安楽国に生まれたいと願います」(聖典 東一三五頁
明一二九頁末一行)と述べられました。
 天親菩薩の「一心」ということばは「ひたすらに、一生懸命に」という意味でしょう。
「わたしは、ただひたすらに、一生懸命、阿弥陀仏に帰命します」と、天親菩薩ご自身の
心境を表白されたと読むことができます。

 ところが、絶対他力に立たれる親鸞聖人は、天親菩薩の「一心」が、けっして個人的な
心境を表すだけのことばではないことを感得されました。阿弥陀仏の本願力が天親菩薩の
ところに開いた「一心」であって、「あらゆる人をすくうための一心」という深く大きな
意義に満ちていることを発見されたのでした。

 それでは、天親菩薩の「一心」とはどのような心なのでしょうか。天親菩薩が、兄の無
著菩薩の心からのいさめによって、小乗仏教から大乗仏教へと転入されたことをふり返っ
てみたいと思います。

 天親は熱心に小乗仏教の教えを広める学者でした。小乗仏教は釈尊の高弟の流れをくむ
仏教で、たいへん高度な教学研究の伝統がありました。それに対して大乗仏教は、庶民の
仏教信仰運動からはじまっています。小乗仏教に属する人々は、自分たちこそ釈尊の伝統
を守り、学んできたという自負心があったにちがいありません。たしかに釈尊ご生存の時
代に近いころは釈尊の精神が満ちあふれていたことでしょう。しかし、年月がたつにつれ、
論理的学問的な緻密さを求めがちになって、あらゆる人々が平等に信仰を求め広げていこ
うという精神が薄くなってきていたようです。

 大乗仏教を批判する天親の言動に心を痛めていた兄の無著は、天親を呼びよせて、大乗
仏教の教えをこんこんと説き教えました。無著の真意によって大乗仏教の真髄にふれた天
親は、深い懺悔とともに大乗仏教に転入されました。信仰の転換を「回心」といいますが、
天親が小乗から大乗に回心されたときに開かれた心が「一心」です。

 天親を回心させたのは、無著の真情に満ちた姿とことばでしょうが、無著を背景からさ
さえ、無著のことばになって出てきたのは大乗仏教の真実です。私たち真宗門徒からいえ
ば阿弥陀仏の本願力です。また、無著の真情によって回心した天親の心の底にはたらいて
いるのは仏心、法蔵魂です。

 天親と無著の出会いは、阿弥陀仏の本願力につつまれた出会いであり、本願力によって
天親は回心することができたのです。この感動を、天親菩薩は「一心」と表現されたので
しょう。親鸞聖人は、天親菩薩の一心は、阿弥陀仏からいただいた真実の信心であるとい
われます。

  しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したも
  うところにあらざることあることなし。
          『教行信証』信の巻(聖典 東二二三頁二行 明二四四頁一〇行)

  まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆえに、これを信楽と名づく。信楽すなわちこれ一
  心なり、一心すなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主(天親菩薩)はじめに「一
  心」といえるなりと、知るべし。
         『教行信証』信の巻(聖典 東二二四頁一〇行 明二四六頁末二行)

  「一心」というは教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなわちこ
  れまことの信心なり。『尊号真像銘文』(聖典 東五一八頁二行 明四七五頁末四行)


 五念門(五功徳門)
  一、礼拝門(近門)    「帰入功徳大宝海」
  二、讃歎門(大会衆門)  「必獲入大会衆数」
  三、作願門(宅門)    「得至蓮華蔵世界」
  四、観察門(屋門)    「即証真如法性身」
  五、廻向門(園林遊戯地門)「遊煩悩林現神通 入生死薗示応化」


 五功徳門
 一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり。
 初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す。

 入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝し、彼の国に生ぜんとなすを以ての故に、安楽世界に生
ずることを得る。これを入第一門と名づく。

 入第二門とは、阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相に
よりて修行するを以ての故に、大会衆の数に入ることを得る。これを入第二門と名づく。

 入第三門とは、一心専念に彼に生ぜんと作願し、奢摩他寂静三昧の行を修するを以ての
故に、蓮華蔵世界に入ることを得る。これを入第三門と名づく。

 入第四門とは、専念に彼の(浄土の)妙荘厳を観察し、毘婆舎那を修するを以ての故に
彼の所に到りて種種の法味楽を受用することを得る。これを入第四門と名づく。

 出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、
煩悩の林の中に廻入して遊戯し、神通をもって教化地に至る。本願力の廻向をもっての故
なり。これを出第五門と名づく。

 菩薩は入の四種の門をもって自利の行成就す、知るべし。
 菩薩は出の第五門の廻向をもって利益他の行成就す、知るべし。
 菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成
就することを得る故なり。
       『浄土論』(聖典 東一四四頁七行 明三一一頁末六行〜一三五頁末二行)


 菩薩は五種の門に入出して、自利利他の行成就したまえり。
 不可思議兆載劫に、漸次に五種の門を成就したまえり。
 『入出二門偈』(聖典 東四六一頁末二行 明四六〇頁四行)