正信偈十九 曇鸞大師一
 道が開かれる

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦

 本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かいて菩薩と礼したてまつる。
 三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。

 梁の天子に聖よと あがめられたる曇鸞は
 流支の教えにみちびかれ 仙経 焼きて道に入る
              (金子大栄先生訳)

 語句
 梁天子=南朝の梁の武帝
 鸞処=曇鸞のおられる所
 三蔵流支=菩提流支三蔵。菩提流支は三蔵(経・律・論の三種類の仏典)をたずさえて
     インドから来られ、北魏の都・洛陽で翻訳事業と教化活動にはげんでおられた。
 仙経=道教の経典。
 楽邦=楽は極楽、邦は国。阿弥陀仏の浄土


 梁の天子は、つねに曇鸞大師のおられる方向に向かって、曇鸞大師を菩薩と礼拝してお
られた。
 菩提流支三蔵は曇鸞大師に浄土教を授けられた。そのご縁によって曇鸞大師は仙経(道
教の経典)を焼き捨てて、阿弥陀仏の浄土に帰依された。


 曇鸞大師の時代
 七高僧の第三、曇鸞大師(西暦四七六〜五四二年)は中国の南北朝時代の方です。日本
では古墳時代の末期に当たります。日本に仏教が伝来したのは、曇鸞大師が亡くなったこ
ろだと伝えられています。

 中国では、西暦二二〇年に漢が滅び、五八九年に随が中国を統一するまでの三六九年間
は、三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代と、分裂と戦乱がつづき、王朝が次々と変わ
る時代でした。曇鸞大師の時代には、中国の北半分(北朝)は北方の異民族に支配され、
漢民族の王朝は南半分(南朝)に追いやられていました。

 曇鸞大師は北朝の北魏に生まれられました。北魏は約一五〇年つづき、北朝では比較的
安定した時代でしたが、曇鸞大師の晩年には北魏は東魏と西魏に分裂していました。

 国の分裂や戦乱がつづけば、政治や経済が混乱し、社会は荒廃していたにちがいありま
せんが、しかし、歴史を振り返ってみると、混乱した時代であっても、人々は豊かな文化
をはぐくんでいたことが知られます。

 竹林の七賢人といえば、平和な時代に世間から離れて静かな隠遁生活を送って詩や書画
にふけっていたように思われますが、三国時代から五胡十六国時代にかけての動乱期に生
きた人々でした。
 仏教も印度から次々と伝わり、華厳経・法華経・般若経・無量寿経など、重要な経典が
漢文に翻訳されて、中国仏教が充実してきた時代でした。
 中国の仏教美術の代表とされる、敦煌の石仏・雲崗石仏・竜門石仏なども、この時代に
製作されました。
 混乱した時代であったからこそ、人々はより一層、精神的なものを求めていたといえま
しょう。また、どんな悪条件にも負けない人間の強さを感じとることもできるのではない
でしょうか。

 インドや中央アジアから次々と経典がもたらされ、多数の経典がサンスクリット語から
漢語に翻訳されるにしたがって、中国仏教にもさまざまな学派や宗派が生まれ、深く学問
修行されるようになりました。

 『無量寿経』など浄土教経典も早くから中国に伝わり、阿弥陀仏が熱心に信仰されるよ
うになりました。曇鸞大師の誕生より約百年前に、長江のほとりにある名峰の廬山に、慧
遠法師を中心にして白蓮社が結成されました。慧遠法師と白蓮社の阿弥陀仏信仰は、深い
禅定に入って阿弥陀仏に出会う「見仏」「観仏」という修行法をとっていました。わたし
たち浄土真宗の念仏とは違った形を取っていたわけです。

 法然上人は浄土信仰の形態を、@慧遠法師の「見仏」「観仏」、A慈愍三蔵の禅浄一致
、B善導大師の称名念仏の三種類に分類されました。浄土真宗はBの曇鸞大師・道綽禅師
・善導大師・法然上人・親鸞聖人と伝えられてきた念仏の流れを受けています。


 浄土教との出会い
 『正信偈』に「本師曇鸞梁天子 常向鸞所菩薩礼」とありますように、梁の武帝は曇鸞
大師を尊崇しておられたので、いつも曇鸞大師を菩薩として礼拝しておられたと伝えられ
ています。梁の武帝は南朝の皇帝、曇鸞大師は北朝の北魏の人でしたから、二人は直接出
会ったことはありませんでした。武帝は書物や人づてに曇鸞大師の教えを聞いておられた
でしょうが、一度でも直接会いたいという強い願いから菩薩礼をつづけておられたに違い
ありません。

 大師は「わが身は智慧あさくして 念力ひとしくおよばれず」(高僧和讃 聖典 東四
九一頁下段四番 明一五九頁一四二番)といわれたように、謙虚で、自分自身を深く省み
られる方でした。この大師の姿勢は菩提流支三蔵との出会いによって生まれたようです。


 曽我量深先生は曇鸞大師と菩提流支三蔵との出会いを次のように語っておられます。
 曇鸞大師は、「四論」という大乗仏教の深遠な教えの研究を完成しようと願っておられ
た。しかし曇鸞は生来虚弱な方で、しばしば病気にかかって、たいへん悲観しておいでに
なった。たまたま陶弘景という仙術の大家があって、長生不死の法を教えてくださるとい
うので、その人のもとを訪ねて、三年間にわたって長生不死の法を学んだ。その書物を写
して持って帰られた時に、菩提流支三蔵に会われた。
 久しぶりに会ったので菩提流支は「今日あなたはたいへん血色もよいようだが、今まで
どこにおられたのですか」と聞いたところ、「あなたのいう通り血色がよくなったのは長
生不死の法を研究し、体得したからです」という。
 ところが菩提流支はそれを聞いて、しばらくあきれ顔をして曇鸞の顔をながめていたが
「なんということだ。あなたは今日の仏教界をせおっている地位にある人ではないか。
涅槃をもとめることが仏教の教えであることを知っているのに、自分のからだの健康を回
復し維持するのに、長生不死などという仙術に迷うとは、何のために今まで仏教を学んだ
のか」となじった。
 そして「あなたはこの経を知っているか」といって『観無量寿経』を授けたという。曇
鸞は初めて長い間の夢から覚めて、たちまち菩提流支三蔵の目の前で仙経をみな焼いてし
まった。そして菩提の道に立ちかえり、「四論」の研究をさしおいて、本願の教えに帰依
された。


 出会いと他力
 若い曇鸞大師は、仏教のために努力しているつもりが、仏教からはずれた方向に向かっ
て進んでいたわけです。仏教に対する強い意欲が、逆に仏教からはずれて脇道に導いたと
もいえるでしょう。菩提流支三蔵に出会わなかったらどうなっていたかと、曇鸞大師は愕
然となられたに違いありません。

 私たち真宗門徒は「他力」ということばをよく聞き、よく使います。「他力」は浄土真
宗の精神を表してといえるでしょう。「他力」は、中国では話し言葉としてよく使われて
いたそうですが、仏教の中では曇鸞大師が初めて使われたといわれます。曇鸞大師の『浄
土論註』に次のようなことばがあります。

 自力・他力とはどのようなことであろうか。例を引いて話そう。
 人は地獄・餓鬼・畜生の三途に落ちることを恐れているから、戒律を守ろうとする。戒
律を守るから禅定などの修行に励む。修行に励むから神通力が備わってくる。神通力が備
われば四天下に遊ぶことができる。これを自力という。
 また、何の力もない普通の人が、自由に世界を巡りたいとロバに乗って出発しても、思
うように進むことはできない。しかし、転輪王の行列についていけば、大空を駆けめぐり、
四天下に遊ぶことができる。他力とはこのようなことをいう。
 仏道を歩む人々よ、たのむべき他力があることを聞き取って、信心を発しなさい。けっ
して自分の世界をせまいところに限ってはならない。
                   (聖典 東一九六頁一行 明二二〇頁末七行)

 曇鸞大師は自ら求めて菩提流支と出会ったのではありません。しかし、自ら求めていな
かった出会いによって、自身の生涯をつくす課題となった阿弥陀仏の教えに出会うことが
できたのです。他力によってこそ救われたと実感されたに違いありません。