『正信偈』二十 曇鸞大師 二
如来回向の発見
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心
天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。
ひじり天親の御言うけ 浄土は誓願によると説き
往くも還るも願力に たまわる信とのべたもう
(金子大栄先生訳)
天親菩薩の『浄土論』を註釈して、浄土(報土)の因・果ともに阿弥陀仏の本願による
ことを明らかにされた。
往相回向も還相回向も阿弥陀仏の本願力(他力)による。確かにわたしたちは浄土に生
まれると定まるのは、たしかな信心をいただくからである。
念仏易行道
曇鸞大師には『浄土論註』『讃阿弥陀仏偈』『略論安楽浄土義』など、浄土教の著作が
あります。その中心となるのは『浄土論註』です。天親菩薩の『浄土論』を註釈された書
物で、ふつう『論註』と呼びますが、親鸞聖人は『註論』と呼ばれて大切にされました。
『浄土論註』(行巻−東聖典167)は次のように始まります。
つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を拝見すると、「菩薩が不退転を求めようと
するとき、ふたつの道がある。ひとつは難行道、ふたつは易行道である」とおっし
ゃっている。
「難行道」とは、劫濁(時代のにごり)見濁(思想のにごり)煩悩濁(煩悩のにご
り)衆生濁(人間のにごり)命濁(命のにごり)の五濁にみちた世で、しかも釈尊
はすでに亡くなって久しい年月が過ぎ去ってしまったこの時代生きている者が、不
退転を極めようとしても「難」としかいいようがない。
仏道を歩むことを困難にする原因は数多くあげることができるが、いまは五つあげ
てみよう。ひとつには仏道からはずれた者の独りよがりの善行は、かえって菩薩の
道を乱す。二つには小乗は自利だけで利己的になりやすく、菩薩の利他の大慈悲を
さまたげる。三つには自分自身のことを省みない悪人は、ほかの人々の徳を破る。
四つには人間界や天上界の善に執着して、浄らかなものを求めて歩む仏道を破壊す
る。五つには難行道は自力の道であって、私たちが他力によって支えられているこ
とに気づかない。
ここにあげた五つのことがらは、わたしたちの目によく触れることである。たとえ
ば難行道は陸路を歩いて行くように苦しいものである。
「易行道」とは、阿弥陀仏を信じて浄土に生まれるたいと願いをもてば、阿弥陀仏
の本願力に乗じて、かの清浄の国土に住生することができる。仏力が支えてくださ
って、大乗正定の聚(ともがら)に入ることができる。正定とは不退転である。た
とえば易行道は水路を船に乗っていけば楽しいようなものである。
天親菩薩の『浄土論』は、易行道の最上の教えであり、帆に順風を受けて不退転に
向かっていく船のようである。
曇鸞大師が天親菩薩の『浄土論』の註論をはじめるにあたり、最初に竜樹菩薩の「難行
道・易行道」の文を置かれたことには、たいへん大きな意味があります。
天親菩薩の『浄土論』は『願生偈』とも呼ばれますように、阿弥陀仏の浄土に生まれた
いという大きな願いをもって書きあらわされました。
曇鸞大師は、五濁の時代に生まれた痛みのなかで、天親菩薩の『浄土論』を手引きとし
て浄土を求めて行かれたのですが、そのとき竜樹菩薩の「易行道」が基本的な立場になっ
たのです。
凡夫が道を求めるためには念仏易行道が開かれなくてはならないと、竜樹菩薩は明らか
にされました。難行道はあらゆる欲望を捨てて、自分自身のことよりさきに十方衆生のた
めに修行するきびしい道です。心の底から仏教に救いを求めていても、どうしても難行道
のきびしさには耐えられない人が悲鳴をあげました。このまことの心からの叫び声を聞い
て、竜樹菩薩は易行道が大乗仏教の真実の道になることに気づかれたようです。
曇鸞大師は「わが身は智慧あさくして いまだ地位に入らざれば 念力ひとしくおよば
れず」(高僧和讃 曇鸞章)といわれました。竜樹菩薩に向かって「難行道のきびしさに
は耐えられない」と叫び声をあげた人の姿に、自分自身の姿を重ねて見ておられたのでは
ないでしょうか。念仏易行道は自分のためにあると感じ取られたに違いありません。
易行道は、だれでも容易に進むことができる道というだけではありません。この道に入
れば逆戻りすることはない。大乗の仲間に入ることができる。このように曇鸞大師は確信
されたのです。
しかも、易行道は自分の力で切り開く道ではありません。自分自身が歩んでいる道は本
願によって支えられている道です。本願力が働いているから自分の力を越えた力が生まれ
てくるのです。自力ではできなかったものが生まれ出てくるのです。本願力は思いもしな
かったところから働きかけてきます。私を取りまいている人々から、ふっと出会ったでき
ごとから教えられ助けられるのです。
蓮如上人は次のように言われました。
何ともして 人に直されそうろうように 心中を持つべし。わが心中を 同行の中へ 打
ちいだしておくべし。下としたる人のいうことをば 用いずして かならず腹立するな
り、あさましきことなり。ただ 人に直さるるように 心中を持つべき義にそうろう。
難しいことですが、人の忠告を聞いて、行いや考えを改めることができるように、
素直な心にならなくてはなりません。同行(念仏の仲間)の中では、自分の心の
ありのままを、飾らず、隠さずに表しましょう。
ところが、自分より目下だと思っている人から意見などを言われると、そのこと
ばを聞かずに、逆に腹を立てるものです。なさけないことです。人に直してもら
えるように、やわらかな心でなくてはならないということです。(蓮如聞書108)
如来の本願力が至り来る
「往還回向」とは往相回向と還相廻向です。
曇鸞大師は本願力回向に往相回向と還相回向の二つの働きがあることを明らかにされま
した。本願力廻向は天親菩薩の『浄土論』にあることばです。五念門の中に次のようにあ
ります。
出第五門とは、大慈悲をもって、一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生
死の園、煩悩の林の中に回入して遊戯し、神通をもって教化地に至る。
本願力回向をもっての故なり。これを出第五門と名づく。
(聖典 東二三四頁行 明頁行)(信巻−東聖典234)
曇鸞大師、この本願力廻向の教えから、次のように展開されました。
天親菩薩の『浄土論』には「回向とは、一切の悩んでいる人々を捨てることなく、
恵み施すことを第一に願って、大悲心を成就してくださった」と書かれている。
如来が回らしたもう施しに二種類ある。一つには往相。二つには還相。
往相とは、徳を一切の人々にめぐらし施し、人々を阿弥陀仏の浄土に生まれしめた
もうこと。
還相とは、浄土に生まれ、心を専一にして智のはたらきを明らかにして、人々を救
う力と方法を得て、生死の林に還りきて、一切の人々を仏道に導いてくださること
である。
往相も還相も一切の人々が生死の海を渡るために施したまうものである。だから天
親菩薩は「常に恵み施すことのみを願って、大悲心を成就された」といわれたので
ある。(聖典 東233頁8行 明頁行)
「往相はお浄土へ参ることであり、還相はお浄土から還って来ることである」といわれ
ます。
本願力回向とは、阿弥陀仏の本願がこの世界にいる私たちに働きかけ、人々を教え導い
てくださることです。
曇鸞大師は、浄土を願って仏道を歩むことも(往相)、浄土に生まれ再びこの世界に帰
って慈悲を施すことも(還相)、すべて阿弥陀仏の本願力が働きかけてくださるからこそ
であると感得されたのです。
親鸞聖人は次のように述懐されました。
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり。いずれもいずれ
も、この順次生に仏に成りて助けそうろうべきなり。
わが力にてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して父母をも助けそうらわ
め。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりを開きなば、六道・四生のあいだ、いずれ
の業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり。(歎異鈔五)
四生=胎生・卵生・湿生・化生 (聖典 東六二八頁八行 明頁行)
往相回向・還相廻向は、それにとどまりません。「人間が仏になることが往相であり、
仏が人間に来って衆生利益することが還相である」といわれます。
還相廻向とは、私が浄土に生まれたら、この世界に帰ってきて人々のために働くという
だけではなく、浄土からの働きかけは、すでに私に届いているということです。
親鸞聖人にとっては法然上人は還相廻向の菩薩であったことでしょうし、蓮如上人は、
幼いときに別れられたお母さんが還相の菩薩であったと感じておられたのではないでしょ
うか。