『正信偈』二十一 曇鸞大師 三
 信心をよろこぶ

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

 惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなわち涅槃なりと証知せしむ。
 かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといえり。

 その信あらば仮の世に はなれぬ永遠の光みて
 かならず浄土にうまれては もの皆すくう身とならん。
                 (金子大栄先生訳)

 語句
 惑=迷い
 染=染汚心、執着心
   惑染とは、常に煩悩に覆われて、智恵の眼が開いていないこと
 生死=苦悩・迷い。日常生活のすがた。
    生まれ死んでいくこと。生死はもっとも大きな苦悩の根源であるから、人のあら
    ゆる苦しみ迷いを含めて生死という。
    生まれ変わり、死に変わって、変転きわまりなく迷いつづける世界
    罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁ある
    ことなし
 涅槃=涅槃寂静といわれるように、静かで穏やかな悟りを涅槃という。
 光明土=光に満ちた阿弥陀仏の浄土
 諸有の衆生=あらゆる、生きとし生けるもの
 化す=救い導く。
    仏教の教えを伝え広めることを教化という。
    人々を救い導くために、この世に現れてくださる仏を化仏という。


 迷いと苦悩に埋没して生活している人の心に、阿弥陀仏への信心が生まれたら、日常生
活がそのまま仏の悟りに通じる道であると感じ取らせていただける。
 阿弥陀仏の光に満ちた浄土に生まれた人は、菩薩になって、あらゆる人々を平等に救い
導いてくださる。


 如来と等しい   親鸞聖人『浄土和讃』
 「如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり 凡地(凡夫)にしてはさとられず
 安養(浄土)にいたりて証すべし」
 「信心よろこぶその人を 如来と等しと説きたもう 大信心は仏性なり 仏性すなわち
如来なり」          (聖典 東四八七頁上七・八 明一五五頁九三・九四)


 悪人正機(悪人正客) 『歎異抄』第三章
 善人でさえ、阿弥陀の浄土に生まれることができる。まして、悪人はいうまでもないこ
とである。
 それなのに、世間の人たちは、つねにこのようにいっている。「悪人でさえも浄土に生
まれることができる。まして善人はいうまでもないことである」と。
 このことは一応もっともな道理があるように思われるけれども、実は、阿弥陀仏の本願
・他力の心に反することである。
 というのは、自分の力をたのんで善行をはげみ、それによってさとりをひらこうとする
人は、ひとえに本願のはたらき(他力)を信ずる心がかけているから、阿弥陀の本願の行
者ではない。
 とはいえ、そのような人も、自分の力をたのみとする心をひるがえして、本願力を信ず
るならば、阿弥陀仏の真実の世界に生まれることができる。
 わずらい悩みをあますことなくそなえているわたしたちは、念仏以外のどのような修行
によっても、この迷いの人生から解放されることはない。それを深く悲しまれて、本願を
おこされた阿弥陀仏の真意は、このような悪人が必ず仏になることであるから、本願を信
ずる悪人こそが、とくにすぐれて往生の正因である。
 それゆえに、善人ですら阿弥陀の浄土に往生することができる。まして悪人はなおさら
のことであると、親鸞聖人はおっしゃった。(聖典 東六二七頁十二行 明五四六頁十行)


 善悪をえらばず   『歎異抄』第一章
 阿弥陀の、すべての人々を救いとげずにはおかないという誓願の大いなる力にたすけら
れて、かならず浄土に生まれると信じ、念仏を称えようと思いたつ心が起こるとき、即座
におさめとって捨てない阿弥陀の願力に生かされる身となるのである。
 阿弥陀の本願には、老人であるとか若者であるとか、善人だとか悪人だとかというよう
な、分けへだてはされない。ただ信心ひとつが肝要であると知らなければならない。
 というのは、罪深く悪の重い身であり、わずらい悩む心が激しい、このような私たちを
こそ救うためにたてられた阿弥陀の本願だからである。
 それゆえに、阿弥陀の本願を信ずるうえには、他のどんな善も必要ではない。念仏にま
さる善はないからである。また、どんな悪をもおそれることはない。阿弥陀の本願をさま
たげるほどの悪はないからであると、親鸞聖人はおっしゃった。
                    (聖典 東六二六頁五行 明五四五頁五行)


 氷多きに水多し   親鸞聖人『高僧和讃 曇鸞大師』
 無碍光の利益より 威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこほりとけ すなわち菩提のみずとなる
 罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて
  こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし
 名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり
(聖典 東四九三頁上二十〜二十一 明一六〇頁一五七〜一五九)


 煩悩に心をとどめず
   ただ仏願をたのめ   『曽我量深講義集』
 水の中におっても、人間というものは水の上に浮ぶようにできておる。ほんとうは水よ
りも人間のからだのほうが軽いものだからちゃんと浮ぶようにできておる。
 カワズなどはちゃんと水に浮んでおる。カワズは何も水泳を覚えたわけではあるまい。
カワズは水におぼれないが、人間だけは、水におぼれる、これは何であるかというてみる
と、人間というものはなかなかカワズのように無邪気になっておれない、人間というもの
は、まことに複雑なもので、えたいの知れないものだ。
 何もかも、いいところのありったけを知っていなさるが、また同時に悪いことのありっ
たけも知っていなさる仏さまが阿弥陀如来。だから、善人も助けるし、悪人も助ける。善
人も悪人も平等に助ける、そういうのであろう。だから、阿弥陀如来の本願を超世の本願
という。『歎異抄』などを見ると、あの御開山さまこそは阿弥陀如来さまの御化身という
べきお方、だからいいことのありったけも知っていなさるであろうけれども、それよりも
悪いことのありったけをみな知っていなさる。


 月をさししめす指   曇鸞大師『浄土論註』
 南無阿弥陀仏は仏法の指である。たとえば指で月をゆびさしているようなものである。
もしわたしたちが心の底から仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えることができるようになれ
ば、阿弥陀仏の願いがわたしたちの心まで届き、本願が満たされるのだ。月をさし示して
いる指が、暗闇を破り明るい世界を開いているといえるのではないか。