『正信偈』二十二 道綽禅師 一
 今に応える教え

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
 万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
 三不三信の誨、慇懃にして、像・末・法滅、同じく悲引す。
 一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。

 道綽、聖道 難しとて ひとえに浄土の門ひらき
 自力の諸善おとしめて ただ念仏をすすめつつ
 信疑の教えねんごろに 末の世に泣く罪人も
 弥陀の誓いに値いぬれば 彼岸にいたるとさとしけり
                (金子大栄先生訳)

 語句
 聖道=聖道門。難行道。あらゆる苦行をかさね、仏・菩薩をめざして修行する教え。
 万善の自力=あらゆる善行や修行を積む自力の仏道。
 円満の徳号=号は名号、南無阿弥陀仏。阿弥陀仏の功徳が満ちている念仏。
 専称=もっぱら南無阿弥陀仏をとなえること。
 像末法滅=像法・末法・法滅の時代。釈尊が亡くなってから五百年は「正法」。その
      後、五百年(千年)の「像法」、一万年の「末法」と、仏法を伝え、実践
      する人が少なくなり、ついには仏法が消滅する「法滅」の時代になる。
 弘誓=阿弥陀仏の本願。
 安養界=阿弥陀仏の浄土。
 妙果を証す=さとりを開くこと。


 道綽禅師は、聖道門の教えによってさとりを開くことはあまりにも困難であることを明
らかにし、浄土門だけが通入できる道であることを明かにされた。
 万善の諸行は自力であるから勤め修めることを捨て、ただひたすらに功徳に満ちた名号
を称えることを勧められた。
 ねんごろに疑心と信心を教え、像法・末法・法滅の時代に生きる人々を平等に導いてく
ださった。
 たとえ一生の間、悪を造りつづける者でも、阿弥陀仏の弘誓に値うことができれば、安
養界に至って妙なる証を開けるであろうといわれた。


 武帝の廃仏
 道綽禅師は七高僧の第四祖です。西暦五六二年、北斉(中国北朝)の并州水に生まれ
られました。生家は庶民の家庭で、生活は苦しかったようです。

 当時、中国は南朝と北朝に分かれ、道綽禅師がおられた北朝は北斉と北周の二国に分裂
して、たがいに覇権を求めて戦乱がつづく時代でした。やがて中国は隋・唐によって三六
九年ぶりに統一されますが、道綽禅師の青年期は、中国の歴史的な転換期にあたり、謀略
と戦乱によって混乱の極みにある時代でした。

 道綽禅師は十四歳で出家されました。中国社会の混乱の中で、静かな深い教えをもとめ
て仏教に帰依されたことが出家の動機であったでしょうが、生活苦も理由の一つであった
といわれます。

 ところが、道綽禅師が十六歳になられた五七七年、北周の武帝は北斉を滅ぼして中国北
朝を統一し、仏教と道教の禁止令を発布しました。一部の僧は南朝に逃れたり、山深い地
に隠れたりしましたが、ほとんどの僧は還俗させられました。道綽禅師も還俗させられた
一人でした。

 北朝統一前の北周では、富国強兵策をすすめるために仏教と道教を禁止し、寺院やその
田畑を没収し、仏像などの金属品を鋳溶かして工具や兵器にし、僧侶は還俗させて徴兵し
て軍備を増強しました。仏教側から道安などが皇帝の前で廃仏の非を切々と説きましたが
受け入れられず、仏教を捨てることができない人々は身を隠し、衣食住に苦しみながらも
細々と教えを護っていました。

 北朝を統一した北周の武帝は、北斉の地にも仏教と道教の禁止令を発布して中国統一を
目指して富国強兵策をすすめましたが、翌年、武帝は亡くなり、あとを継いだ宣帝は仏教
復興の詔を発布して、四年間つづいた仏教と道教の禁止令は廃止され、その三年後に出家
が許されるようになりました。

 仏教禁止は四年間でしかありませんでしたが、中国の仏教徒が受けた衝撃は大きく、と
うとう末法の時代になったと絶望感に打ちひしがれたことでしょう。

 しかし、廃仏の衝撃は中国仏教に新たな道を開きました。人々は、末法の時代であって
も、動乱の時代であっても救いの道を開く浄土教、阿弥陀仏の教えに目覚めることができ
たのです。
 道綽禅師は仏教復興した後、二十一歳でふたたび出家されましたが、阿弥陀仏に出会わ
れるにはまだ年月が必要でした。

 再出家された道綽禅師は『涅槃経』を学ばれました。『涅槃経』は、どのような人にも
心の底には仏性がそなわっていて、その仏性に導かれてさとりを開くことができると説い
ています。動乱の中で苦しみ打ちひしがれている人であっても、仏性があるから救われる
はずだと確信されたのでしょう。『涅槃経』は四十巻もある大きな経典ですが、道綽禅師
は二十四回もくり返して学ばれたといわれます。

 そのあいだに時代は移り、中国は統一されて隋王朝が開かれ、やがて絢爛たる唐文化が
花開く時代に入っていきます。仏教においても天台宗や華厳宗・法相宗など、中国を代表
する教えが展開し、もっとも充実した時代であったといわれます。しかし、道綽禅師の心
は晴れないようでした。生活に苦しむ庶民の家庭に生まれ、動乱の時代の仏教禁止令に出
会われた道綽禅師は、過去を忘れたかのような隋唐の仏教には納得できなかったのではな
いでしょうか。


 曇鸞大師の教えに出会う
 道綽禅師は四十八歳になられたとき、曇鸞大師が晩年を過ごされた玄中寺に参詣されま
した。すでに曇鸞大師は亡くなって二十一年すぎていましたが、曇鸞大師の生涯が記され
た碑文を読まれ、この碑文によって道綽禅師は阿弥陀仏に深く帰依されました。それ以来
八十四歳でなくなるまで玄中寺に住し、しばしば碑文を読んで曇鸞大師の教えに学び、曇
鸞大師を師として生涯を過ごされました。

 玄中寺の碑文にどのような文が書かれていたのかわかりませんが、仙経を焼き捨てて、
凡夫の自覚のもとに他力念仏の道を開かれた曇鸞大師の行跡は、廃仏令に苦しみ、また『
涅槃経』の悉有仏性(どのような人にも仏性がある)の教えにも救われなかった道綽禅師
に、心から信じることができる道を指し示してくださったのでしょう。


 末法の時代
 道綽禅師は『安楽集』『行図』『観経玄義』などを著述されましたが、今に伝わるのは
『安楽集』だけです。

 道綽禅師は、自分は末法の時代に生まれたという自覚を強く持っておられます。末法と
は、釈尊の時代から遠くへだたり、釈尊の教えは残っていても、教えを修行し実践する人
もなく、ましてさとりを開く人もいなくなった時代です。
 どのような時代であっても、その時代と、その時代に生きている人びとにふさわしい教
えでなければならない、末法の時代にふさわしいのは念仏の教えであり、念仏でなければ
人びとは救われないと確信しておられました。『安楽集』の第一章は次のようなことばで
はじまります。

 時(時代)を考慮して機(人)に浄土教に帰依させたい。なぜならば、教えが時代と人
に合致すれば修行しやすく悟りやすいが、教えと時代と人とが合致していないと修行しに
くく入り難いからである。
 『正法念経』にいわれている「行者が一心に道を求めているならば、常に時と方法を考
えなければならない。もし時を得ず、ふさわしい方法がなければ、利益はなく、失うこと
が多い。なぜならば、まだ湿っている木を切って火をつけようとしても火はつかない。時
を誤っているからである。もし乾いた薪を折って水を採ろうとしても、水があるはずがな
い。このようなことをするのは智慧がないからである」。

 『大集月蔵経』には次のようにいわれている。「釈尊が亡くなって後の第一の五百年に
は、仏弟子たちは智恵を学んで堅固になることができる。第二の五百年には、定(三昧・
瞑想)を学んで堅固になることができる。第三の五百年には、多聞(聞法をかさねること
)や読誦(経典を読むこと)を学んで堅固になることができる。第四の五百年には、寺院
や仏塔を造立したり、福徳をおさめたり、懺悔することが堅固であることができる。第五
の五百年には、仏法は世の中から消えて争いが多くなる。ただ、わずかに善法は堅固にな
ることをができる」。

 また、次のようにいわれている。「仏は四種の法によって衆生を導き救いたもう。第一
にはいろいろな教えを説かれる。法施によって衆生を導かれるのである。・・・第四には
名号によって衆生を導き救われる。衆生が心から称え念ずれば、惑障が除かれ利益を得て、
仏の前に生れることができる」。

 今の時代の衆生を観察すると、釈尊が世を去られた後の第四の五百年に当る。懺悔し、
仏の名号を称えるべき時代である。もし一念阿弥陀仏を称えると八十億劫の生死の罪を除
くといわれる。一念にこれほどの功徳があるならば、常に念仏する人はどうであろうか。
この人は常に懺悔する人である。

 もし釈尊に近い時代であれば、瞑想し智恵を学ぶことは正しいことであるが、釈尊から
遠くはなれた時代には念仏こそが正しい道である。なぜならば、今は釈尊から遠ざかるこ
とはるかな時代であり、人びとの智恵は浅く鈍になっているからである。だからこそ『観
無量寿経』に説かれているように、韋提希夫人は身をもって末世の五濁の衆生のために教
えを乞い、釈尊は極楽を教えられたのである。

 もし今、仏道に入りたいと願うのならば、浄土の一門だけである。すなおな心でこの門
にはいっていくべきである。
 経典や論著を見ると、いたるところに念仏を勧めることばが出ている。その真実を伝え
ることばを集め、人びとを浄土に導きたい。なぜならば、前に生まれた者は後を導き、後
にしたがう者は前をたずねて、教えを絶えることなく伝えたいからである。人びとを苦痛
に満ちた生死海から救いたいからである」。