『正信偈』二十三 道綽禅師 二
末法に生まれる心
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
道綽、聖道 難しとて ひとえに浄土の門ひらき
自力の諸善おとしめて ただ念仏をすすめつつ
(金子大栄先生訳)
語句
聖道=聖道門。難行道。あらゆる苦行をかさね、仏・菩薩をめざして修行する教え。
通入=浄土の門をくぐり入ること。
万善の自力=あらゆる善行や修行を積む自力の仏道。
円満の徳号=徳号は名号、南無阿弥陀仏。阿弥陀仏の功徳が満ちている念仏。
専称=もっぱら南無阿弥陀仏をとなえること。
道綽禅師は、聖道門の教えによってさとりを開くことはあまりにも困難であることを明
らかにし、浄土門だけが通入できる道であることを明かにされた。
自力の修行を捨てて、ただひたすらに功徳に満ちた名号を称えることを勧められた。
聖道門と浄土門
釈尊は八万四千の法門を説かれたといわれるように、仏教にはさまざまな教えがありま
す。日本に伝わった仏教は大乗仏教ですが、浄土宗・天台宗・真言宗・日蓮宗など多くの
宗派に分かれています。道綽禅師の時代の中国でも多くの宗派に分かれ、いろいろな教え
が説かれ、いろいろな修行がされていました。
道綽禅師は大乗仏教の教えを聖道門と浄土門の二つに分類され、そのうち浄土門を選び
取られました。浄土門は阿弥陀仏の教え、念仏の他力易行の道をさし、聖道門は浄土門以
外の教え、自力難行の道です。
道綽禅師は『安楽集』に次のようにいわれています。
大乗仏教には二種の勝れた法がある。この二つの教えによって、火宅のようなこの世界
に苦しむ人びとを救うことができる。二種の勝れた法とは聖道と往生浄土である。
しかしながら、聖道によってさとりを開くことは、今の時代には困難である。なぜなら
ば、第一に釈尊の時代からはるかに離れているから、第二に聖道は深遠な教えであるため
にわずかしか理解できないからである。
『大集月蔵経』には「末法の時代には、いかに多くの人びとが修行に励み求道しても、
一人としてさとりを得る者はないであろう」と説かれている。
今はまさに末法であり、五濁悪世である。この時代には浄土の一門だけが入ることがで
きる道である。
『無量寿経』には「衆生ありて、たとい一生悪を造れども、命終わる時に臨みて、十念
相続して我が名を称えて、もし浄土に生ぜずば正覚を取らじ」と誓われている。
今の時代に生きる人びとは、仏法はあっても顧みない。大乗仏教には深遠な教えが説か
れているが、この教えを心にかける人はいない。小乗仏教であれば煩悩を滅して阿羅漢の
位にすすむ道が説かれているが、僧俗ともに道を修めているといえるほどの人はいない。
仏法ではなくても五戒・十善を修めたら人天の果報を得ることができるが、戒律を守り善
行を行う人もまれにしかいない。
今の時代に生きている人びとが悪をなし罪を作っている姿は、まるで暴風や豪雨のよう
である。だからこそ諸仏は慈悲の心から人びとに浄土の教えを勧めておられるのである。
今の時代の衆生の姿から考えると、釋尊が亡くなってから第四の五百年、末法の時代に
当たる。まさしく懺悔し念仏するより道がない時代である。『観無量寿経』には「もし一
念南無阿弥陀仏を称すれば、八十億劫もの長い年月に積み重ねてきた罪が除かれる」と説
かれている。一念する人でも多くの罪が除かれるのであれば、常に念仏する人にはより多
くの功徳があるであろう。常に念仏する人は、常に懺悔する人である。
懺悔から開かれる念仏道
道綽禅師は『観無量寿経』の下品下生の「もし一念南無阿弥陀仏を称すれば、八十億劫
もの長い年月に積み重ねてきた罪が除かれる」という文章を引いて、念仏の功徳が大きい
と説いておられます。
『観無量寿経』には、人の能力や資質を上品上生から下品下生までの九段階に分けて、
それぞれの修道が説かれています。上品上生には慈悲に満ち戒律を守る聖人の進む道が説
かれ、下品下生には救いようのない重罪人が南無阿弥陀仏と称えて救われる道が説かれて
います。
自分は下品下生ほど悪人ではない、中品中生程度だと考えているのが普通の人でしょう。
また、中品中生であるよりも、できれば上品上生になりたいと願っているのではないでし
ょうか。仏教徒の歴史を見ても同じです。貪りと怒りと愚痴の心がなく、慈悲に満ちた人
になるように努力して、すばらしいさとりの世界に入りたいと願ってきました。
若いときの道綽禅師もまた、最上のさとりを開きたいと願ってきびしい修行を積んでこ
られましたが、時代はますます悪くなり、気がつけば末法の時代になってしまったと絶望
されたのではないでしょうか。しかし、下品下生に開かれる阿弥陀仏の念仏との出会いは
絶望からの解放になりました。
親鸞聖人『歎異抄』第一章
阿弥陀仏の誓願に不思議と助けられて往生を遂げることができると信じて念仏しようと
思い立つ心が起こる時、そのとき摂取不捨の利益にあずかる。
阿弥陀仏の本願は、老少・善悪の人を選ばない、ただ信心が要となるのである。なぜな
らば、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けるための願いだからである。
だから、本願を信ずるためには、他の善は必要ではない。念仏より勝る善はないからで
ある。悪をも恐れることはない。弥陀の本願をさまたげるほどの悪はないからである。
玄中寺の曇鸞大師碑文(柏原祐義編 真宗聖典627頁)
法師は常に浄土を修す。
また毎に世俗の君主あり、来たりて法師を呵して曰く「十方仏国みな浄土なり、法師何
ぞ乃ち独り意を西に注ぐや。あに偏見の生にあらずや」。
法師こたえて曰く「吾すでに凡夫、智慧浅短なり、いまだ地位に入らず。念力均しくす
べけんや。草を置きて牛を引くに、恒に心を槽櫪に繋ぐべきが如し。あに縦放にして全く
帰する所なきを得んやと」。
また難者紛紜たりといえども、しかも法師独り決す。ここを以て一切道俗を問うことな
く、ただ法師と一面あい遇う者は、もし未だ正信を生ぜざれば勧めて信を生ぜしめ、もし
既に正信を生ずる者は、皆勧めて浄国に帰せしむ。この故に法師命終の時に臨んで、寺の
傍らの左右の道俗、みな幡華の院に映ずるを見、ことごとく異香音楽迎接して往生を遂ぐ
るを聞くなり。
法師=曇鸞大師
呵す=とがめる・責める
槽櫪=牛小屋・馬小屋。槽はかいばおけ、櫪は厩の踏み板。
難者=非難する人。
紛紜たり=盛ん、多い、乱れる。
幡華=旗と花
異香=この世にはないようなすばらしい香り