『正信偈』二十五 善導大師 一
 念仏を選び取る

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

 善導独り仏の正意を明かせり。定散と逆悪とを矜哀して、
 光明・名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、
 行者、まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応してのち、
 韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむといえり。

 善導、仏意をあらわして 善しも悪しきもあわれみつ
 光と名号を本願の 知恵に導く縁と説く
 われら金剛の信をえて 一念みむねにかないなば
 韋提と等しき喜びに 永遠の楽しみさとるべし
               (金子大栄先生訳)

 語句
 定散=定善・散善。自力の修行や善行。
 逆悪=五逆・十悪。
    十悪=殺生・偸盗・邪婬(身三)、妄語・綺語・悪口・両舌(口四)、
       貪欲・瞋恚・愚痴
 矜哀=おおいにあわれむ。慈悲。
 行者=念仏行者。
 韋提=韋提希夫人。
 三忍=信忍・喜忍・悟忍。信心の智恵によって、喜びに満ちて、迷いから脱却した境地。
 法性=真理・本質。仏陀のさとりの目によって見えるあらゆるものの本質・真理。


 中国仏教が花開いた時代
 善導大師は西暦六一三年に誕生、六八一年に六十九歳で亡くなられました。善導大師の
時代は唐(六一八〜九〇七)の初期にあたります。
 随末に始まった中国全土にわたる戦乱をおさめて唐が中国を統一しましたが、国土は荒
れ果て、人口も減り、経済的にもどん底の状態であったようです。唐の皇帝、太宗は「貞
観の治」とよばれる道徳的政治によって、拙速に陥ることのない、着実な国家復興を進め
ようとました。当時の社会は「民、道に落ちたるを拾わず、外戸閉じず」というようすで
あったと伝えられています。太宗が目指した精神的な豊かさに満ちた社会が目に浮かぶよ
うです。

 この唐時代の初期は中国仏教にあたらしい流れが生まれました。
 玄奘三蔵がインドの最新の仏教を伝えて法相宗を立て、禅宗の第六祖とよばれる慧能は
、現代の禅宗にまでつづいている中国的な禅を確立し、華厳宗第三祖の賢首大師は、新旧
の仏教を総合した精緻な仏教哲学を展開しました。
 この時代は中国仏教の黄金時代といわれるほどに、仏教の伝統が花開いた時代でした。



 善導大師の浄土への歩み
 善導大師は、はじめ法華経を学んでおられましたが、ある時、西方浄土の図像を見て、
阿弥陀浄土に往生したいと念願されるようになりました。そこで、古くからの阿弥陀仏信
仰の中心地であった廬山に入り、観想念仏の行を積まれました。
 念仏といえば、わたしたちにとって「南無阿弥陀仏」ととなえる称名念仏が一般的です
が、当時の中国では異なっていました。念仏には二つあり、ひとつは「南無阿弥陀仏」と
となえる称名念仏、もうひとつは観想念仏といわれるものです。観想念仏は『観無量寿経』
に説かれている定善十三観にしたがって、阿弥陀仏と浄土を目の当たりに見る境地にいた
るための修行です。当時の中国では称名念仏より観想念仏が重視され、ひろく行われてい
ました。

 『観経』の定善第一観に次のように説かれています。
   釈尊は韋提希にいわれた。浄土に生まれたいと願うならば、心を西方の浄土に向け、
   それ以外に心をふり向けないようにしなさい。
   そのために、まず日没を見なさい。正座して西を向き、一心に西に沈む日を見つめ
   なさい。ただただ日をみつめて、心を日没の姿で満たし、それ以外のことに心が動
   かないようにしなさい。日は今まさに沈もうとするとき、鼓を掛けたような形にな
   ります。日が沈むまで、静かに見つめおわったら、目を閉じ目を開きなさい。その
   ようにして物事のすがたが明らかに見えるようにしなさい。これが日想観であり、
   最初の観想です。(聖典東九五頁末一行 明八四頁末一行)

 善導大師は、廬山で観想の修行を積まれ、三昧発得の人といわれるほど深い観想念仏の
境地を開かれるようになりました。しかし、それほどの成果をあげながら、善導大師は満
足されなかったようです。道綽禅師が浄土教をひろめておられると聞くと、遠く中国の北
部まで出かけ、玄中寺で道綽禅師から教えを受けられました。そのとき、道綽禅師は八十
歳、善導大師は二十九歳でした。

 道綽禅師は善導大師に『無量寿経』を授け、『無量寿経』によって『観経』を学ぶ道を
示されました。『無量寿経』には阿弥陀仏の本願が説かれています。善導大師は道綽禅師
に導かれて、浄土教の根本である本願に出会われ、南無阿弥陀仏の称名念仏道を開かれま
した。

 善導大師の『観経疏』には、次のようなことばがあります。
   『観経』には観想念仏と善行を積む利益を説いてあるが、阿弥陀仏の本願から見れ
   ば、この経の流通分(結びの部分)にあるように、一切衆生に南無阿弥陀仏と念仏
   させることが『観経』の本意である。
   念仏する者は、人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希
   有人なり、人中の最勝人なり。

 道綽禅師から教えを受けられた後、善導大師は唐の都長安に行かれました。全国から人
が集まっている長安で、多くの人々に称名念仏の教えを伝えたいと意気込んでおられたよ
うに感じられます。

 『観経疏』『観念法門』『往生礼讃』『法事讃』『般舟讃』などを著されるとともに、
『阿弥陀経』や浄土の図を書いては人々に与えて教化されました。その数は数万にもなっ
たそうです。蓮如上人が『御文』や「南無阿弥陀仏」の名号を書いて門徒の人々に与えら
れたことと共通性が見られます。


 仏の正意を明らかにする
 「正信偈」の善導大師の最初に「善導独明仏正意」とあります。その意味は「善導だけ
が、仏が本当に伝えようとされた教えを明らかにされた」ということです。親鸞聖人は善
導大師の業績を重視しておられることが、この一節に表れています。法然上人もまた「偏
依善導(ひとえに善導に依る)」と、善導大師の教えに帰依しておられました。それは善
導大師が、あらゆる人々を救う浄土教の真実の意義を明らかにしてくださったからです。

 古来から阿弥陀仏は広く信仰されてきました。しかし深く学ぶ人は少なくて、専門的に
教学を探求する仏教者はごく少数でした。とくに称名念仏は庶民の浅い信仰心を満足させ
ることはできても、ほんとうに仏道を歩もうとする人の進むべき教えではないと考えられ
ていました。
 善導大師が称名念仏を称えられたことに対して、聖道門仏教からさまざまな批判があっ
たようです。

 浄土教の修行は観想念仏であって「南無阿弥陀仏」と称えることは真実の修行とはいえ
ないと批判されました。仏道は願と行(修行)との二つが相応してこそは成立するのであ
るが、称名念仏する人には、浄土に生まれたいという願いはあっても、称名では行にはな
らないから、称名念仏は真実の求道ではないとも批判されました。

 また阿弥陀仏と浄土についてもいろいろな見解がありました。阿弥陀仏は応化身の仏で、
凡夫を仏道に導くための方便の仏であるから、完全な功徳をそなえた仏ではないという説
があり、一方では、阿弥陀仏は完全な功徳をそなえた報身仏であるから、凡夫では浄土に
往生することはできないという説もありました。

 善導大師はこのような批判や誤解に対して、真実の念仏の意義、真実の阿弥陀仏を明ら
かにして行かれました。

 蓮如上人の『御文』に、善導大師のことばを次のように説き明かしておられます。
   善導のいわく「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀というはす
   なわちその行」といえり。
   「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいなく一心一向
   に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
   さて「阿弥陀仏」という四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、よう
   もなくたすけたまえるいわれが、すなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。
   されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいう
   なり。これすなわち他力の信心をよくこころえたる、念仏の行者とはもうすなり。
       (『御文』第五帖十一通目 聖典 東八三八頁九行 明七一一頁末六行)