『正信偈』二十六 善導大師 二
 ともに凡夫

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪

 善導独り仏の正意を明かせり。定散と逆悪とを矜哀して、

 善導、仏意をあらわして、善しも悪しきもあわれみつ、
                (金子大栄先生訳)

 語句
 矜哀=おおいにあわれむ。慈悲。
 定散=定善・散善。自力の修行や善行。
 逆悪=五逆・十悪。
   十悪=殺生・偸盗・邪婬(身三)、妄語・綺語・悪口・両舌(口四)、
      貪欲・瞋恚・愚痴


 定善と散善
 『観無量寿経(観経)』に「日想観」から「雑想観」までの「十三観」と、「上品上生」
から「下品下生」までの「九品」がとかれています。
 善導大師は、「十三観」を「定善」、「九品」を「散善」と名づけられ、「定善は慮(
おもんぱかり)を息(や)めて心を凝(こ)らす、散善は悪を廃して善を修す」といわれ
ました。
 「定善」は我執を捨て、自分の都合や思いこみから出てくるはからいをやめて瞑想する
ことです。「散善」は戒律を守り、道徳的な生活をすることです。「定善」「散善」は瞑
想や戒律・道徳をまもり、善行をする功徳によって浄土に生まれることができると説かれ
ています。


 定善 第十二観「普観想」
 「心をふるい起こして、つぎのように観想しなさい。自分が西方の極楽世界に生まれ、
蓮華のなかで両足を組んで静坐して、蓮華の花が閉じつつあるすがたを思い浮かべ、つぎ
に蓮華の花が開きつつあるすがたを思い浮かべなさい。
 蓮華が開いたときには、五百の色の光があって、それが集まってきてわが身を照らすと
思いなさい。また、それによって仏を見る眼が開けたと思いなさい。そして、仏や菩薩が
空中に満ち、水の流れる音や、小鳥のさえずり、樹林のざわめき、それに諸仏の声が、す
べてみなすぐれた教えを説いているすがたを思い浮かべなさい。瞑想の境地から出たとき
も、このありさまを記憶して保持し、忘れることがないようにしなさい。これらのことす
べて観想することを、無量寿仏の極楽世界を見るとよぶ。またこれを、あまねく極楽世界
を見る観想とよび、第十二観と名づける。
 無量寿仏は、さまざまの姿となってあらわれ、観世音や大勢至とともに、いつもこの修
行者を訪れるであろう。」『観経』(聖典 東一一〇頁末四行 明九七頁末一行)


 散善 第六「中品下生」
 「善男子や善女人が、父母に孝行して大切にし、世間の道徳である仁慈を行なうならば、
この人は、その命が終わろうとするとき、善知識にめぐりあい、自分のために阿弥陀仏の
浄土での楽しさを聞くでしょう。また法蔵菩薩の四十八願の教えも聞くであろう。
 この教えを聞いたあと、まもなく命を終えたならば、あたかも元気あふれる若者が肱を
曲げ伸ばしするほどのすばやさで、たちまち西方の極楽世界に生まれるであろう。生まれ
てから七日を経たのち、観世音と大勢至に会い、おしえを開いて歓喜し、そののち一小劫
を経て、阿羅漢となる。これを中品下生と名づける。」
               『観経』(聖典 東一一七頁末五行 明一〇四頁一行)


◎善導大師は定善・散善を捨てて、称名念仏を選びとられました。
 「もし念仏する者は、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩
・大勢至菩薩、その勝友となりたまう。
 汝、好くこの語をたもて。この語をたもてというは、すなわちこれ無量寿仏の名をたも
てとなり。」『観経』流通分(聖典 東一一二頁九行 明一〇八頁五行)

 一には、もっぱら阿弥陀仏の名を念ずることを明かす。
 二には念仏する人をほめたたえることを明かす。
 三にはもし念仏しつづける者は、この人、はなはだ希有なりとなす。・・・念仏する者
は、人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の
最勝人なり。
 四にはもっぱら阿弥陀仏の名を念ずる者は、観音・勢至、常に随い影護したまうこと、
親友知識のごとくなることを明かす。
 五には今生にこの益を蒙れば、諸仏の家に入ることを明かす。すなわち浄土これなり。
 上来、定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、衆生をして一向にもっぱ
ら阿弥陀仏の名を称せしむるにあり。              善導大師『観経疏』


 「行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。
 もし礼拝するときには、一心に阿弥陀仏を礼拝し、もし口にとなえるときには、一心に
南無阿弥陀仏を称し、もし讃歎供養するときには、一心に阿弥陀仏を讃歎供養する、これ
を正行と名づける。
 また正行の中に二種あり。一には一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に時節の久近
を問わず念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく、阿弥陀仏の願に順ずるが故なり。
 もし礼誦等に依るを、名づけて助業となす。この正助二行を除いて以外の諸善を、こと
ごとく雑行と名づく。」                    善導大師『観経疏』


◎定善・散善は浄土を願いながらも自力・疑心が残っている信心であると、親鸞聖人はい
 われました。
 「定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号(南無阿弥陀仏)
をおのれが善根として、みずから浄土に回向して果遂の誓いをたのむ。不可思議の名号
(南無阿弥陀仏)を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑う。その罪ふ
かくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあいだ自在なることあた
わず、三宝をみたてまつらず、つかえたてまつることなしと、如来は説きたまえり。しか
れども如来の尊号(南無阿弥陀仏)を称念するゆえに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆ
えに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと
知るべきなり。」                  親鸞聖人『浄土三経往生文類』


◎『観経』に「定善」と「散善」が説かれる理由は、自力・疑心の人をつつみ、他力念仏
 道に導くためです。
 「釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕というは、す
なわち定散諸善を顕す。しかるに定散の二善は報土の真因にあらず。自利各別にして、利
他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すな
わちこれ顕の義なり。「彰」というは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。」
                         親鸞聖人『教行信証』「化土巻」


◎定善・散善は善人、逆悪は悪人。ともに凡夫です。
 「定善・散善は善人。定善・散善では救われない者を逆悪というのであります。つまり、
善人と悪人。善人と悪人と申しますけれども、すべてこれは凡夫である。善人と悪人は、
その本性において善人と悪人とがあるのでない。ただ、これは環境に従って、ある者は善
人となり、ある者は悪人といわれるわけであります。だから、凡夫の中に定散と逆悪とが
あるということを、善導大師は明らかにしておいでになる。」
                         曽我量深先生『正信念仏偈聴記』


 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」        『歎異抄』第三条

 「南無阿弥陀仏をとなうれば この世の利益きわもなし 流転輪廻のつみきえて 定業
中夭のぞこりぬ」                      親鸞聖人『浄土和讃』

 「罪はふかく、障りはおもくとも、願力の不思議によりて往生定り、無量寿の法命を得
た徳なれば、身のうえ色相には、定業も七難もあれども、心に至りてはなきなり。」
                           『相伝義書 浄土和讃分科』