『正信偈』二十七 善導大師 三


 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 定散と逆悪とを矜哀して、光明・名号、因縁を顕す。

 善しも悪しきもあわれみつ、
 光と名号を本願の知恵に導く縁と説く
         (金子大栄先生訳)

 語句
 矜哀=おおいにあわれむ。慈悲。
 定散=定善・散善。自力の修行や善行。
 逆悪=五逆・十悪。
 光明=阿弥陀仏の慈悲と智慧のはたらき。
 名号=南無阿弥陀仏。
 因縁=因は原因・根源。縁は条件・状況。
    光明は縁。名号は因。


 善導大師は自力に迷う者や仏の教えに逆らう者、悪行をなす者をあわれんで、阿弥陀仏
の光明に出会い、南無阿弥陀仏の名号を聞く道への因縁を明らかにしてくださった。


 阿弥陀仏のひかり
 『無量寿経』 第十二願 光明無量の願
 たとい我、仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照ら
さざるに至らば、正覚を取らじ。(聖典 東十七頁三行 明十五頁五行)

 親鸞聖人『浄土和讃』
 一一のはなのなかよりは
  三十六百千億の
  光明てらしてほがらかに
  いたらぬところはさらになし
 一一のはなのなかよりは
  三十六百千億の
  仏身もひかりもひとしくて
  相好、金山のごとくなり
 相好ごとに百千の
  ひかりを十方にはなちてぞ
  つねに妙法ときひろめ
  衆生を仏道にいらしむる
  (聖典 東四八二頁中段五行 明一五〇頁末五行)

 『観無量寿経』
 無量寿仏に八万四千の相まします。一一の相に、おのおの八万四千の随形好あり。一一
の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取し
て捨てたまわず。             (聖典 東一〇五頁末七行 明九三頁八行)
  相好=大舌相・白毫相など、仏・菩薩の徳があらわれている身体的な特徴。
     相は目につきやすい特徴。好は目につきにくい微妙な特徴。


 南無阿弥陀仏のいわれ
 『無量寿経』 第十七願 諸仏称名の願
 たとい我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せ
 ずんば、正覚を取らじ。(聖典 東十八頁一行 明十六頁一行)
   咨嗟=ほめたたえること。

 第十八願 念仏往生の願・至心信楽の願
  たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃
 至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんをば除く。
                      (聖典 東十八頁三行 明十六頁三行)

 蓮如上人『御文』三帖五通
 この「南無」という二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけ
たまえとおもいて、余念なきこころを「帰命」とはいうなり。
 つぎに「阿弥陀仏」という四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすく
いたまうこころなり。このこころをすなわち摂取不捨とはもうすなり。摂取不捨というは
、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにおさめとりて捨てたまわずといえるこころなり。

 されば、この南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまえる支証のために、
御名を、この南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまえるなりときこえたり。かくのごとくこ
ころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。
                    (聖典 東八〇二頁二行 明六八一頁五行)


 ご縁に出会う
 親鸞聖人『教行信証 行巻』
 まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因欠けなん。
 光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん。
 能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。
 真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の
 因縁和合して報土の真身を得証す。(聖典 東一九〇頁末六行 明二一五頁末二行)
   徳号=名号。南無阿弥陀仏。

 蓮如上人『正信偈大意』
 「光明名号顕因縁」というは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、わが光きわ
なからんと誓いたまえり、これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。
 かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって十方微塵世界をてらしたまいて
衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。
 さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたねきざ
すとき、まさしく報土に生まるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
 しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりて
なり、このゆえに光明の縁にきざされて、名号の因はあらわるるというこころなり。
                       (聖典 東七五六頁末四行 明頁行)
  昏闇=暗いこと
  宿善=信心。
     長いあいだ求めていた信心が、いろいろなご縁、いろいろな助けによって、よ
     うやく成就したという感動をこめて宿善開発という。
  名号執持=ひたすら念仏すること。

 『蓮如上人御一代記聞書』
 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなし
く流転しけるなり」とそうろうを、え存ぜずそうろうよし申しあげそうろうところに、仰
せに「聞きわけてえ信ぜぬもののことなり」と仰せられそうらいき。
   「救わずにはおかないという阿弥陀仏の本願を身に受け、ひさしく念仏もうしてい
   ながら、自分の力をたよりとする執着心から抜けきれず、迷いの道を流されつづけ
   ている」と親鸞聖人はいわれましたが、私にはもう一つわかりませんと、申しあげ
   たところ、蓮如上人は「教えを聞いても頭で理解しようとして、心から信じること
   ができない者のことだ」と答えてくださった。
                   (聖典 東八五六頁一行 明七二〇頁末七行)

 『深解別伝』
 穢土の人は、法性を因とし、無明を縁とす。
 浄土の人は、浄法を縁とし、法性弥陀の因に和合す。

 『略本聴書』
 「光明名号示因縁」とは、定散自力のもの、五逆十悪のものを哀れんで光明名号の因縁
を顕示したまえり。もし光明名号の因縁に遇わずんば、出離の期はあるべからずとなり。
 「因縁」とは、報土の因は凡心にては成らず。ゆえに仏心を与えて衆生の心となしたも
う。これ即ち「南無」の二字なり。
 この心の発起する事は光明の縁に照らされ恵まれたる故なれば、これを因縁と云う。

 『歎異抄』後序
 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
 されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本
願のかたじけなさよ。          (聖典 東六四〇頁七行 明五五七頁五行)