『正信偈』二十八 善導大師 四
王舎城の悲劇
開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
本願の大智海に開入すれば、行者、まさしく金剛心を受けしめ、
慶喜の一念相応してのち、韋提と等しく三忍を獲、
すなわち法性の常楽を証せしむといえり。
われら金剛の信をえて 一念みむねにかないなば
韋提と等しき喜びに 永遠の楽しみさとるべし
(金子大栄先生訳)
語句
行者=念仏行者、念仏者。
金剛心=金剛の信心。金剛はダイヤモンド。
真実の信心。
韋提=韋提希夫人。頻婆娑羅王の王妃。阿闍世の母。
三忍=信忍・喜忍・悟忍。信心の智恵によって、喜びに満ちて、迷いから脱却した境地。
法性=真理・本質。仏陀のさとりの目によって見えるあらゆるものの本質・真理。
阿弥陀仏の本願によって開かれる、海のように広大で、あらゆるものをおさめとる智慧
の世界に入ることができれば、念仏者は堅牢なダイヤモンドのように、揺るぐことのない
信心を受けることができる。その喜びに満ちたとき、韋提希夫人と同じく、信心の智恵に
よって、喜びに満ち、迷いから脱却した境地である、信忍・喜忍・悟忍の三忍を得ること
ができ、仏の覚りに入ることができるのである。
凡夫・韋提希
釈尊は韋提希に阿弥陀仏の浄土を見せたあと「汝は愚かな凡夫で、心想が劣り、まだ天
眼を得ていない」と語りかけられました。
この釈尊のことばについて、善導大師は次のように述べておられます。
韋提希夫人は凡夫であって聖人ではない。聖人ではないからこそ、釈尊は不可思議
の威神力によって韋提希に浄土を見せてくださった。また、韋提希は菩薩が仮に凡
夫の姿になっていると考えている学者がある。しかし、韋提希が菩薩であったら、
凡夫は力量がないから韋提希と同じ道を歩むことはできないと怖じ気を感じるであ
ろう。だからこそ釈尊は韋提希にむかって〈汝は凡夫である〉といわれたのである。
なぜ善導大師は韋提希は凡夫であると強調されるのでしょうか。当時、聖道門には韋提
希は仮に凡夫の姿になっている菩薩(権化)であるという説が強かったということがある
でしょうが、ほんとうに念仏の道を開くことができるのは凡夫であると実感しておられた
からでしょう。
曽我量深先生は次のようにいわれています。
『観経』の韋提希は宿業の大地から生れたか、浄土から天下りしたかについて意見
は異なる。天台大師や慧遠大師は韋提希を普通の人と違うといえば、善導は実業の
凡夫という。
これは歴史観の違いである。一方は聖者が人間を救うため出ているという一つの歴
史の眼。一方は歴史は事実である、みな宿業に悩んでいる人が歴史に救われる人で
あるという眼。救う歴史と救われる歴史と二つある。二つの歴史観が分れる。天台
大師などは救う歴史。善導は反対で仏に救われる人間が主人公。一方は救う仏の場
所を歴史とし、一方は救われる我々衆生の場所を歴史とする。
凡夫の大きな働き
親鸞聖人は韋提希夫人だけではなく、提婆達多や阿闍世まで「権化の仁」「大聖」と呼
んでおられます。なぜでしょうか。もちろん、善導大師以前の聖道門の立場にもどられた
のではありません。
『浄土和讃 観経意』に次のような和讃があります。
弥陀・釈迦方便して
阿難・目連・富楼那・韋提
達多・闍王・頻婆娑羅
耆婆・月光・行雨等
阿弥陀仏と釈尊は、阿難・目連・富楼那・韋提希・提婆達多・阿闍世・頻婆娑羅
・耆婆・月光・行雨などに、浄土の教えを開くための機縁を作らされた。
大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみびとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり
阿難・韋提希・阿闍世などの大聖は、ともに、愚かで下劣な罪人である私たちを
善人悪人に関わらず、すべて救済してくださる本願に導き入れてくださった。
釈迦・韋提方便して
浄土の機縁熟すれば
雨行大臣証として
闍王逆悪興ぜしむ
釈尊は、韋提希夫人に阿弥陀仏の浄土を選び取らせ、念仏往生の教えを説き開く
機縁が熟したので、雨行大臣に阿闍世の出生の秘密を語らせて、阿闍世に謀反を
起こさせられた。 (聖典 東四八五頁下六〜八 明一五三頁七八〜八〇)
阿難・目連・富楼那=仏弟子
韋提=韋提希夫人(頻婆娑羅王の王妃)
達多=提婆達多
闍王=阿闍世王(頻婆娑羅王と韋提希夫人との子。善見太子)
頻婆娑羅=王舎城の国王
耆婆・月光・行雨=大臣
行雨と雨行は同じ
韋提希にとって王舎城の悲劇はこれ以上ない不幸ですが、この不幸が機縁となって念仏
往生の教えに会い、悲劇を乗りこえることができました。韋提希が阿弥陀仏の浄土を選び
とったことによって、韋提希だけではなく阿闍世も救われる道が開けました。この道が善
導・法然・親鸞から私たちへとつづく念仏の大道となったのです。
親鸞聖人は韋提希が権化の仁であるといわれますが、これは凡夫が権化のはたらきをし
ているということでしょう。
韋提希がもだえるような悲しみと苦しみの中で釈尊に救いを求めたことによって、釈尊
はほんとうの救いとなる阿弥陀仏の浄土を韋提希に指し示されたのですが、釈尊の側から
見れば、韋提希の苦しみを見て、初めて凡夫の救いとなる阿弥陀仏の願いの深さや大切さ
に気づかれたのではないでしょうか。韋提希によって釈尊は新たな世界を開かれたのです。
釈尊をも突き動かすようなはたらき、これは阿弥陀仏の本願、法蔵菩薩のはたらきです。
韋提希の救いを求める声は、阿弥陀仏の本願から出た呼びかけであったといえるでしょう。