正信偈二十九 源信僧都一
 懈慢界から浄土への道

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立

 源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して一切を勧む。
 専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

 源信、広く教えきわめ ひとえに浄土を勧めけり
 諸善は心 浅しとし まことの国の道ひらく
               (金子大栄先生訳)

 語句
 一代の教=釈尊が一生涯に説かれた教え。すべての経典。大蔵経。
 安養=安養浄土。阿弥陀仏の浄土。
 専雑=専修と雑修。ひたすら念仏することを専修という。念仏だけではなく、それ以外
    の修行も行うことを雑修という。
 執心=浄土を願う心の強さ。専修の人はこの心が深く、雑修の人は浅いと、源信僧都は
    いわれた。
 報化二土=報土と化土。報土は阿弥陀仏の浄土。化土は懈慢界。
    懈慢界とは浄土の辺地にあって、自力の念仏者や雑修の人たちが生まれる世界と
    いわれる。快楽に満ちているが、この世界に生まれた人は怠け者になり、また高
    慢になるといわれる。『無量寿経』には帝釈天の宮殿にある七宝の牢獄に入れら
    れて金の鎖につながれているようだと説かれている。


 源信僧都は釈尊の教えを広く学ばれ、ひたすら阿弥陀仏の安養浄土に帰依された。そし
て仏道を歩むすべての人々に浄土の道を勧められた。
専修念仏者(一心に念仏する者)は深く浄土を願う心を持ち、雑修にはげむ者はその心が
浅いと判定し、専修の者は阿弥陀仏の報土に生まれ、雑修の者は化土(懈慢界)に生まれ
ると説き明かされた。


 源信僧都は西暦九四二年に奈良県当麻郷で誕生され、一〇一七年に七十六歳でなくなら
れました。
 平安時代中期、藤原氏が摂政・関白の位を独占し、貴族文化が花開いた時代でした。

 源信僧都は七歳で父をなくされ、十三歳で出家して比叡山に入りました。たいへん学問
にすぐれた方で、十五歳には宮中でおこなわれる法華八講の講師に任命され、三十二歳に
は法会で天台の教えを問答する広学竪義の役を勤めるなど、天台宗の学僧としての名声を
高めていきました。

 あるとき、源信が天皇から拝領した錦織を故郷のお母さんに贈ったところ、お母さんは
よろこぶどころか、反対にきびしく源信をいさめる手紙とともに贈り物を送りかえしてこ
られました。
 その手紙には「俗塵をさけて多武峰で修行しておられる増賀上人のように、はやく名利
の衣をぬぎすてて、真実の仏道を求め、父母を導くために、きびしい修行を積んでほしい」
と書かれていました。

 この母のことばに、源信僧都は愕然とされたことでしょう。華々しい脚光をあびている
といっても、源信僧都はまじめに学問し求道しているつもりだったでしょう。しかし、い
つの間にか本当の求道から外れてしまっていたことをお母さんからきびしく指摘されたわ
けです。

 それ以来、源信僧都は世俗との交流を避け、比叡山からさらに奥深く横川の恵心院に住
まわれ、深く阿弥陀仏を信仰し学問求道されました。当時「僧都」とは天皇からすぐれた
学僧にさずけられる称号ですが、源信は一条天皇から与えられたとき辞退されました。し
かし人々は源信を敬って源信僧都と呼ぶようになったということです。紫式部の『源氏物
語』は源信僧都が六十五歳のころに書かれていますが、このなかに「その頃横川に、某僧
都とか云いて、いと尊き人住みけり。八十余の母、五十許の妹ありけり」とあります。

 源信僧都は多くの著作をあらわされ、数十部になりますが、代表的なものは、天台教学
に関しては『一乗要決』『大乗対倶舎鈔』『観心略要集』など、浄土教に関しては『往生
要集』『阿弥陀経略記』などがあります。中でも『往生要集』は源信僧都が横川に隠遁さ
れたときに数年をかけてまとめられ、ご自身の浄土教信仰を明らかにされた書です。漢文
で書かれた三巻の大部ですが、当時の人々に広く読まれ、仏教だけではなく、文学から絵
画にまで広く影響を与えました。


 源信僧都と親鸞聖人
 源信僧都がなくなって一一六年後に法然上人がお生まれになり、一五六年後に親鸞聖人
がお生まれになりました。また、源信僧都は比叡山の山深くにこもられ、法然上人や親鸞
聖人は比叡山を捨てて京都の町に下りられました。このように両者は時代背景も異なり、
求道のすがたにも違いはありますが、源信僧都の教えと信心を受けつぎ、いっそう展開さ
れたのが法然上人と親鸞聖人です。

 『往生要集』に次のようなことばがあります。
   極楽に生まれるための教えと念仏の行は、今の濁りきった末の世に生きている人々
   を導く目となり足となるものである。僧も俗人も、身分が高いものも低いものも、
   だれもが帰依すべき道である。
   天台宗や真言宗などではさまざまな教えが説かれ、さまざまな修行がある。すぐれ
   た知恵があり、努力しつづける人にとっては決して困難な道ではないだろう。しか
   し、私のように融通がきかず、智恵が劣ったものにはとても実行できることではな
   い。だから私は念仏の一門に入り、釈尊が説かれた経典や浄土教の先人の論から阿
   弥陀仏の教えの要点を集めてこの書にまとめた。この書を読んで修行すれば、理解
   しやすく、行いやすいであろう。

 源信僧都も法然上人も、ともに学識豊かな学僧ですが、源信は「私のように融通がきか
ず、智恵が劣ったもの」といわれ、法然は「愚痴の法然房」といわれました。このことば
は決して謙遜ではないでしょう。信心の欠けた学問は智恵を育まないことを深い懺悔をも
っていわれたのでしょう。真実の智恵は深い求道心から生まれてくる。ご自身が本当に心
の底からうなずくことができる教えに出会うことができた喜びを伝え、できるかぎり多く
の人々とともに道を求めて行きたいという願をこめて『往生要集』をかかれたのでしょう。

 親鸞聖人は門徒の方がたに「御同朋・御同行」と呼びかけられましたが、学識が豊かで
あるかどうか、能力があるかどうかには関係なく、自分を飾らずに阿弥陀仏の教えを求め
ていこうと呼びかけてくださったのでしょう。

 また『往生要集』に次のようなことばがあります。
   『菩薩処胎経』に次のように説かれている。この娑婆世界から西に十二億那由他行
   くと懈慢界とよばれる国がある。懈慢界は快く楽しさに満ちた世界である。七宝の
   飾りが輝き、花が香りに満ちた国である。
   阿弥陀仏の国に生まれたいと願っていても優柔不断であるものは、懈慢国にまでは
   至り着くことはできても、そこからさらに進んで阿弥陀仏の国まで行きつくものは、
   何億何千万人のなかに一人ぐらいしかいない。
   この『菩薩処胎経』から教えられることは、一心に念仏できずに雑修にたよる人は
   執心が堅固でなく、懈慢国(化の浄土)にとどまる人である。ひたすら念仏する人
   は執心が堅固で、かならず極楽(報の浄土)に生まれるであろう。

 『正信偈』の「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」はこの部分によって書かれています。
 浄土の辺地「懈慢界・化の浄土」は、『無量寿経』に「七宝の牢獄に入れられて金の鎖
につながれているような世界」とありますが、源信僧都にとっては学僧として脚光を浴び
ていた時代が懈慢界であったのではないでしょうか。わたしたちも陥りかねない自己満足
の世界ではないでしょうか。