正信偈三十 源信僧都二
念仏にまさる善なし
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
極重の悪人はただ仏を称すべし。我また彼の摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、ものうきことなくして常に我を照
らしたもう。
ただ名号をよべ、もろ人よ 悩みに光みえずとも
大悲ものうきことなくて 常にわが身をてらすなり
(金子大栄先生訳)
罪深い悪人はただ念仏するよりない。私もまた、阿弥陀仏の光明につつまれていながら、
煩悩にさえぎられて心の目を閉ざしていたために仏に出会うことができなかった。しかし、
阿弥陀仏は大慈悲をもって、いつまでも諦めずに、常に私を照らしつづけてくださった。
源信僧都は『那先比丘問仏経』と『十疑論』を引いて、念仏の功徳を次のように説いて
おられます。
生まれてから悪行を重ねるばかりの者でも、念仏によって浄土に生まれることがで
きるといわれる。どうして念仏だけで救われるのか?
たとえば、小さな石でも、そのまま水に入れたら沈んでしまう。しかし、大きな石
でも船に載せたら沈むことはない。
小さな石が沈むとは、悪人が教えに出会えずに地獄に落ちることを喩えている。大
きな石が船に載せられて浮いているとは、たとえ大きな悪をなす者であっても、念
仏によって天上に生まれることを喩えている。
また、念仏している心と悪を働いている心には三つの点で違いがある。一つは心、
二つは縁、三つは決定である。
第一の心の相違とは、悪心は空虚な心であるが、念仏の心は真実の心である。罪悪
は自分自身の転倒した心から生まれてくる。念仏の心は善知識に導かれて阿弥陀仏
の教えを聞く心から生まれてくる。たとえば、何万年も日が差すことがなかった暗
黒の部屋に、しばらくであっても日の光が差し込めば暗闇が消え去ってしまうよう
に、虚妄顛倒の闇は念仏の光によって消え去るのである。
第二の縁の相違とは、偽物に引かれる心と、まことに出会う心である。罪を作って
いるときには、心は暗く愚かになっているから、偽りの物事に心を引かれている。
念仏しているときには、仏の清浄真実の功徳にみちた名号を聞いて、仏の智慧が心
のよりどころになっている。
第三の決定の相違とは、雑念があるか、ないかである。罪を作っているときには、
心はゆれ動いて定まらない。念仏している心は雑念がなく定まっていて強い。山の
ように積みかさねた乾草に豆粒ほどの火をつけると、またまくまに燃えつくしてし
まうように、一生積みかさねた悪業でさえ、念仏によって消えてしまうのである。
『正信偈』の「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」は「煩悩、眼を障えて見たてまつら
ずといえども、大悲、ものうきことなくして常に我を照らしたもう」と読みますが、この
ことばは「どこかに阿弥陀さんがおられて、阿弥陀さんはいつも人々を見守り、慈悲をか
けてくださっているのですよ」と、よそ事のように読んでは、このことばの心はわからな
いでしょう。
今まで感じていなかったけれども、阿弥陀仏は常に慈悲の光を注いでくださっていたと、
自分自身のことであったと気づいたときにこそ「大悲無倦常照我」と言えるのではないで
しょうか。
二階堂行邦師の法話から紹介します。
具体的に仏さまがどこか遠い所にいるとか、(内陣を指して)あそこに立っておられる
方が仏さまだとは限らないと思いますね。
仏さまというのは微塵世界に満ち満ちているものです。自分の母親という形をとる場合
もあるだろうし、自分の子どもという形をとる場合もあるし、自分の大事な友達や先生、
そういう形をとるかもしれません。しかしその人たちは「私は仏さまなのだから、あなた
にいろいろやってやる」とそんな根性ではないのですね。思わず知らず行動している。そ
の中で受ける法は純粋な仏さまが私に願っていることであるのです。
(「いのちのふれあいゼミナール」より)