正信偈三十一 法然上人一
 愚痴の法然房

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

 本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
 真宗の教証を片州に興す。選択本願は悪世に弘む。
 生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。
 すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とすといえり。

 本師源空あらわれて われら凡夫をいとおしみ
 名号のまことをこの国の この世に高く説きましぬ
 流転の闇路離れぬは ただ疑いのあればなり
 無為のみやこに入らんには ただ信のみとのべたもう
               (金子大栄先生訳)


 念仏門に入る
 法然上人は西暦一一三二年、美作国久米南条の稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)にお生
まれになりました。平安時代末期、鳥羽上皇の院政時代でした。
 法然上人のお父さんは漆間時国、お母さんは秦氏の出身の方でした。お父さんは地方の
豪族で、久米郡の押領使を勤めておられました。押領使とは警察や軍の地方長官といった
役職です。

 当時、荘園制が極端にまで進んで、農地をはじめ公有地の多くが天皇家や有力貴族の私
的な領有地になっていました。そのために、地方では土地争いがしばしば起こり、地方豪
族は武士団となって、武力紛争をくり返していました。有力な武士団の代表が平氏や源氏
です。

 法然上人の生地でも豪族間の争いは絶えず、お父さんの漆間時国は、敵対する明石定明
との争いに敗れて亡くなりました。法然上人が九歳のときでした。
 お父さんは九歳の少年であった法然上人に「自分はとても助からない。この傷によって
死んでゆくが、しかし、けっして敵を恨んでくれるな。もしお前が復讐を思うなら、争い
はいつまでも絶えないであろう」と説ききかせて亡くなりました。

 上人はお母さんの弟・観覚師が院主を勤めている菩提寺に入られ、仏道を歩まれること
になりました。
 法然上人は向学心が強く、幼少から非凡な才能があったので、叔父の観覚師は上人が十
三歳のとき、京都の比叡山に送り出されました。
 十八歳のとき上人は、念仏者が集まっている比叡山西塔黒谷の叡空の道場に入られ、法
然房源空と名乗られました。

 上人は念仏の道には入られましたが、なかなか満足できる答がえられず、教えを求めて
経蔵に入り、一切経を何度も読み返されました。あるとき、源信僧都の『往生要集』を読
まれ「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、
これを正定業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」という善導大師のことばに出会われま
した。それ以来、上人は善導大師の教えを学び、他力念仏の道を開かれたのです。法然上
人は四十三歳、一一七五年でした。

 その後、比叡山を出て、京都吉水の庵室で念仏の教えを説かれる法然上人のもとには、
貴族の最高位である関白から、社会の最底辺に住む盗賊まで、階級の差別を越えて、念仏
の道を求める人々が数多く集まりました。

 親鸞聖人が法然上人に出会われたのは一二〇一年、親鸞聖人は二十九歳、法然上人は六
九歳のときでした。


 浄土宗の独立
 法然上人は「偏依善導(ひとえに善導に依る)」と、善導大師の教えによって、他の修
行にたよることなく、念仏だけによる道(専修念仏)を徹底されました。
 比叡山には常行三昧堂があり、そこでは常に天台念仏がおこなわれ、また、ほかの宗派
でも念仏はありましたが、専修念仏ではなく、いろいろな修行のひとつとして、傍らにさ
れる念仏でした。
 法然上人は、そのような念仏は本願にそむいていると、ただひたすらに念仏に専念する
道をとられたのです。

 法然上人が門徒の人々に書き残された『一枚起請文』に、次のように述べておられます。

   唐土(もろこし)、我が朝に、もろもろの智者達の沙汰しもうさるる観念の念にも
   あらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ、往生極楽の
   ためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には、
   別の子細そうわわず。ただ、三心四修ともうす事のそうろうは、みな、決定して南
   無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内にこもりりそうろうなり。この外に奥深きこと
   を存せば、二尊(釈尊と阿弥陀仏)のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし。
   念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身にな
   して、尼入道の無知のともがらに同して、智者のふるまいをせずして、ただ一向に
   念仏すべし。               (聖典 東九六二頁 明七八八頁)
     観念=瞑想の行。『観経』の十三観。
     三心=至誠心・深心・廻向発願心。
     四修=恭敬修・無間修・無余修・長時修。
     一代の法=一切経の教え。釈尊が生涯に説かれたさまざまな教え。


 念仏弾圧
 竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかる
に諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を
弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦・承元丁
の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
 これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわ
しく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。し
かればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならび
に弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
 皇帝諱守成聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、
空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申
寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。
           (『教行信証』後序聖典 東三九八頁七行 明二二二頁末一行)


 親鸞聖人と法然上人
 親鸞聖人は一二〇一年に法然上人と出会い、念仏門に入られたことを「しかるに愚禿釈
の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と記されています。
          (『教行信証』後序 聖典 東三九九頁七行 明二二三頁末三行)

 また「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと
(法然上人)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。……たとい、法然聖
人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」
と、お弟子たちに語っておられます。
              (『歎異鈔』 聖典 東六二七頁一行 明五四六頁一行)


 信行両座  『御伝抄』上巻 第六段
 法然上人の吉水の草庵には、身分の高いものも低いものも、牛車のながえがとりかこむ
ように、門前、市をなすようなありさまであった。法然上人に常に随い、近くに侍る僧侶
は多く、全部で三百八十余人もあったという。しかし、直々に導きを受けながら、心から
教えを守る人は、はなはだ少数であり、わずか五・六名にもならなかったであろう。

 あるとき、善信(親鸞)聖人は法然上人に申し上げた。
 「わたしは自力難行の聖道門を出て、他力易行の念仏門に入って以来、法然上人の教え
を受けられなかったなら、けっして迷いの世界から悟りへと導かれる道に出会うことはで
きなかったでありましょう。まことに喜びの中の喜び、これに比べられるものはありませ
ん。
 しかしながら、ともに法然上人の吉水の草庵に通うよしみを結んで、いっしょに法然上
人一師の教えを学ぶ法友はたくさんありますが、ほんとうに阿弥陀仏の浄土に生まれる信
心を得ているかどうか、おたがいにはっきりとわかりません。ですから、将来も浄土への
道を同じくする親友を確認したいと思いますし、あるいはそこまで深い交友はなくても一
生の思い出になるように、お弟子たちが集まったときに提言して、みなさんのお考えを聞
いてみたいと思っています」と願いをのべられました。

 すると法然上人は「それはもっともな考えです。それでは明日人々が顔を見せたときに
話してみなさい」とおっしゃいました。

 そこで翌日、法然上人のお弟子たちが集まったところで、親鸞聖人は「今日は信不退と
行不退とに、座を二つに分けてみたいと思います。それぞれの信念にしたがって分かれて
座ってください」と語りかけられました。そのとき集まっていた三百人あまりの法然上人
のお弟子たちは、親鸞聖人がいわれたことがよくわからないようでした。

 その時、聖覚法印と法蓮上人は「信不退の座に着きましょう」といわれた。そこへ遅れ
て参上した熊谷直実入道は「善信の御房(親鸞聖人)、いったい何を記録しておられるの
ですか」と問いかけられました。親鸞聖人は「みなさんに信不退と行不退の座に分かれて
いただいて、それを記録しているのです」と答えました。すると熊谷直実入道は「それな
らば私も漏れないように、信不退の座にまいります」といわれたので、この方の名も書き
記されました。

 この場には数百人の法然上人のお弟子が集まっていたにもかかわらず、一言として声を
出す人はいませんでした。このようなことになったのは、人びとが自力の迷いにとらわれ
て、金剛ような真実の信心に出会っていないからでしょう。人びとが何も言わないうちに
、筆を執っておられた親鸞聖人はご自身の名を記録されました。

 しばらくして、法然上人は「源空(法然)も信不退の座に連なりましょう」といわれた
。この時、集まっていたお弟子たちの中で、あるものは敬服の意をあらわし、あるものは
後悔した顔つきをしていました。     (聖典 東七二八頁五行 明七六八頁五行)


 信心同一 『御伝抄』上巻 第七段
 あるとき、親鸞聖人が次のようにおっしゃったことがありました。

 むかし、法然上人の御前に、聖信房・勢観房・念仏房など、お弟子たちが大勢集まって
いたとき、思いがけなく論争したことがありました。
 それはどうしたことかというと、わたしが人びとに「法然上人の得られた信心と、わた
し善信(親鸞)の信心とは、いささかも変わるところがあるはずがない。ただ一つである
」と申しますと、聞いた人々が私をとがめて「善信房が、法然上人の御信心と自分自身の
信心と等しいといわれるが、そんな道理があるはずはない。どうして同じなんということ
がありえようか」といいました。

 わたしは「どうして同じでないといえましょうか。なぜならば、わたしの知識や知恵が
、法然上人の深く広い智恵と同じなどといえば、まことに恐れ多いことであるでしょうが
、阿弥陀仏を信じて往生をねがう信心ということでは、ひとたび法然上人から他力信心の
教えをうけて以来、私の信心はまったく個人的なものではありません。ですから、法然上
人の御信心も、阿弥陀仏の他力から頂かれた信心であり、わたしの信心も他力によってい
ただいた信心です。それゆえに、法然上人とわたしの信心とは等しく変わるところはない
」と申しました。

 そのとき、法然上人が前にすわっていた私たちに語りかけられました。
 「信心が違うというのは、自力の教えによる信心の場合である。なぜならば、自力の教
えでは、一人一人が自分の能力にしたがって智恵を積むことが修行になっているから、信
心も一人一人変わってくることになる。しかし、他力の信心は、たとえ善人であっても悪
人であっても、凡夫が阿弥陀仏からいただく信心であるから、わたし法然の信心も、善信
房(親鸞)の信心も、少しも変わるはずがない。ただひとつである。私が賢いから信ずる
のではない。もしたがいに信心が異なっておられるような人々は、私がまいる阿弥陀仏の
浄土へは、よもや参られることはないでしょう。よくよくこころえられるべき事です」と
仰せになりました。
 これを聞いて、お弟子たちは、舌を巻き、口を閉じてしまいました。
                    (聖典 東七二九頁六行 明七六九頁四行)