正信偈三十二 法然上人二
 法然上人と親鸞聖人

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

 本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
 真宗の教証を片州に興す。選択本願は悪世に弘む。
 生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。
 すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とすといえり。

 本師源空あらわれて われら凡夫をいとおしみ
 名号のまことをこの国の この世に高く説きましぬ
 流転の闇路離れぬは ただ疑いのあればなり
 無為のみやこに入らんには ただ信のみとのべたもう
               (金子大栄先生訳)


 親鸞聖人が法然上人の門に入られたのは一二〇一年、親鸞聖人は二九歳、法然上人は六
九歳でした。親鸞聖人が法然上人のもとで教えを受けられたのは、一二〇七年に流罪とな
るまでのあいだ、わずか六年間でしたが、法然上人を師として終生すごされました。


 『恵信尼文書』
 『恵信尼文書』は、親鸞聖人の夫人、恵信尼公が娘の覚信尼公に出された手紙です。恵
信尼公は晩年になって故郷の越後に帰られ、覚信尼公は親鸞聖人とともに京都におられま
した。恵信尼公は親鸞聖人から聞かれていたことなどを、娘の覚信尼公に手紙で伝えられ
ました。

   親鸞聖人は比叡山を出て、六角堂に百日こもられ、浄土往生をお祈りになったとこ
   ろ、九十五日目のあかつきに、聖徳太子の文をとなえられたら、救世観音が示現し
   てくださいました。
   そこで、日があけると、六角堂からお出になり、浄土往生のご縁にあいたいものだ
   と、探しもとめて、法然上人にお会いすることができました。
   法然上人のもとにも、六角堂に百日間こもられたように、百日のあいだ、降る日も
   照る日も、どのような大事があっても、通いつづけられました。
   法然上人から、たとえ善人でも悪人でも、平等に苦しみ迷いの生活から救われる浄
   土往生のみちを、ただ一筋にお聞きになりました。ですから、法然上人が進まれる
   道を、たとえほかの人たちからどうのように批判されても、たとえ悪道に落ちると
   いわれても、親鸞聖人ご自身はそれまで迷いつづけてきたからこそ、法然上人とと
   もに歩むよりないと確信していると、人からさまざまなことを言われたときなどに、
   私におっしゃっていました。           (聖典 東六一六頁末五行)


 『口伝抄』
 『口伝抄』は親鸞聖人から孫の如信上人がお聞きしていたことを、覚如上人が如信上人
からお聞きして記録されました。如信上人は親鸞聖人の長男・善鸞のお子さんです。善鸞
は親鸞聖人から義絶されましたが、孫の如信上人は親鸞聖人のもとで成長されたようで、
覚如上人(親鸞聖人のひ孫、覚信尼公の孫)は如信上人から親鸞聖人のことを聞かれてい
ました。

   阿弥陀仏の本願は、凡夫のためにたてられたのであって、聖者のためではない事。
   如信上人(親鸞聖人の孫)は、本願寺の聖人(親鸞)が黒谷の先徳(法然)から受けられ
   た教えとして、つぎのようにいわれた。
   世の中の人びとは、いつもこのように思っている。つまり、悪人でも浄土に往生で
   きるというのであれば、善人だったら当然、往生できるはずだと。これは、阿弥陀
   仏の本願にそむき、釈尊の本意とも違った、たいへんな誤りである。
   なぜならば、阿弥陀仏(法蔵菩薩)が五劫という長い年月をかけて思惟し、あらゆる
   修行に耐え忍ばれたご苦労は、凡夫が迷いを離れ、さとりへの道をひらくためであ
   る。まったく聖者のためではない。凡夫こそ、阿弥陀仏が浄土に往生すよう願われ
   ている人びと(正機)である。凡夫が浄土に往生しがたいのであれば、阿弥陀仏の本
   願はむなしい教えであり、阿弥陀仏の力は無駄になってしまう。阿弥陀仏の願と力
   がひとつになって、十方世界の凡夫のために大きくゆたかな利益を成就された。こ
   うして阿弥陀仏がさとりを開かれてから長久の時間がすぎて十劫となり、無数の諸
   仏は証明して、阿弥陀仏を称讃しておられる。この諸仏の証明にうそいつわりはな
   い。
   ここから善導大師は「一切善悪の凡夫は阿弥陀仏の浄土に生まれることができる」
   といわれた。これも悪人凡夫を本意とされ、善人凡夫はわきにはずされたのである。
   だからこそ、傍らにされた善人凡夫でさえも往生するのであれば、阿弥陀仏が第一
   に救おうと願っておられる悪人凡夫は、どうして往生できないといえるだろうか。
   そこで「善人でさえ往生する、まして悪人が」といわなくてはならないと、法然上
   人はおっしゃった。        (聖典 東六七二頁行 明五八四頁末一行)


 親鸞聖人と法然上人とは、念仏の心・教えにおいて、たいへん深く通いあっておられた
ことを、これらの記録から知ることができます。
 阿弥陀仏への信心を大切にすること。信心は阿弥陀仏からいただいた心であるから、信
心において、だれもが平等であること。阿弥陀仏は悪人を救うことを第一の願いとしてお
られること。これらは親鸞聖人の教えとして重視されるところですが、それらは法然上人
から受けられた教えです。というより、親鸞聖人が法然上人とともに開かれた信心の世界
ということができるでしょう。