正信偈三十三 法然上人三
何を選び取っているのか
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入
本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証を片州に興す。選択本願は悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とすといえり。
本師源空あらわれて われら凡夫をいとおしみ
名号のまことをこの国の この世に高く説きましぬ
流転の闇路離れぬは ただ疑いのあればなり
無為のみやこに入らんには ただ信のみとのべたもう
金子大栄先生の意訳
語句
憐愍=あわれむこと。慈悲。
真宗教証=浄土真宗の教えと、信心によって開かれる境地。証は阿弥陀仏のさとり。
片州=日本を指す。インド・中国から見ると、日本は東の端に位置した小国であること
から片州という。
選択本願=阿弥陀仏の本願。
還来=帰ること。
生死輪転の家=私たちが生きている世界。あらゆるものが生まれては死に、一時として
止まることなく移り変わっていく世界。煩悩・迷いの世界。娑婆。穢土。
疑情=疑う心
所止=よりどころ
寂静無為のみやこ=阿弥陀仏の浄土。
寂静=悟りの境地。心の静まった状態。執着を離れ、憂いなく、安らかなこと。
無為=あるがまま。作為的でない自然のまま。
能入=浄土に入るためのよりどころ・手だて。深い心の通いあい。
本師・源空(法然)上人は、仏教を広く学び、深く受けとっておられた。そして、善人
も悪人も、あらゆる凡夫を救う道を、慈悲の心をもって明らかにされた。
源空上人が浄土真宗の教えと、念仏の安らかな信心の世界を、インド・中国から遠く離
れた日本の地に開かれたので、阿弥陀仏の本願の教えは、この迷いと苦悩に満ちた悪世に
生きている人びとに広まることになったのである。
私たちがこの世界に生まれ帰ってきたことは、すなわち、あらゆるものが生まれては死
んで行き、一時として止まることなく移り変わっていく世界に帰ってきたのは、根本的な
疑いの心が晴れないからである。
すみやかに阿弥陀仏の浄土に生まれるためには、かならず信心・深く通いあう心がなく
てはならない。
選択本願
阿弥陀仏の四十八願のなかで、とくに第十八願(念仏往生の願)を本願とよびますが、
法然上人はさらに第十八願を選択本願と名づけられました。本願に選択ということばを加
えて、選択本願とよばれたところに、法然上人が阿弥陀仏一仏・念仏一道を選び取るとい
う大きな決断が表現されています。
法然上人は浄土宗独立の祖といわれます。つまり、二千五百年もの長い仏教の歴史のな
かで、阿弥陀仏の教えを唯一のよりどころとした宗派を立てられたのは、法然上人が最初
であったということです。それまで天台宗・華厳宗・法相宗など、いろいろな宗派があり
、その人たちはその宗派の本尊を信仰し修行を積むとともに、阿弥陀仏の教えも信じてこ
られました。七高僧のなかで、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師はもっぱら阿弥陀仏の教え
によって仏道を歩んでこられた方でしたが、宗派を形成されるまでには至りませんでした。
というより、曇鸞大師をはじめとする三高僧の歴史があって、はじめて法然上人は浄土宗
と名乗ることができるようになったのではないでしょうか。教えが深まり展開していった
ことが浄土宗の独立に導いたといえるでしょう。
選択とは選び取るという意味ですが、法然上人が選択といわれたのはどのようなことで
しょうか。
法然上人は主著『選択本願念仏集』で阿弥陀仏が選択されたこと、釈尊が選択されたこ
とを次のように述べておられます。
法蔵菩薩(阿弥陀仏)は世自在王仏の導きによって諸仏の国に学び、深い思惟の中で念
仏往生を本願として選び取られた。
釈尊はいろいろな修行を説かれたが、その中から念仏を選んで無上の功徳と讃嘆され
た。
親鸞聖人はさらに韋提希の選択をあげておられます。韋提希はいろいろな諸仏の国の中
から阿弥陀如来の浄土を選び取られました。韋提希が自分自身のほんとうの願いが何であ
ったか気づいたということです。『観無量寿経』はこの韋提希の願いから説き明かされま
す。
私たちもほんとうの願いに出会い、それを選び取ってこそ、自分自身の真実の道が開か
れてくると、韋提希から教えられます。わたしたちは何を選択するのか、それがはっきり
しなくてはならないということでしょう。
生死輪転の家
生死輪転の家に還来ることは
決するに疑情をもって所止とす
親鸞聖人は弟子の唯円に向かって次のように語りかけられました。
浄土へ急いで参りたい心はなく、いささか苦労することでもあれば、死んでしまう
のではないかと心細く思うのも、煩悩のためである。久遠劫のむかしから今まで流
転してきた苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれたことのない安養の浄土は少し
も恋しく感じられないとは、まことに、よくよく煩悩が盛んであることだ。
(歎異鈔 第九章)
私たちが生きている、この煩悩に満ちた世界を、親鸞聖人は『正信偈』で「生死輪転の
家」といわれ、『歎異鈔』では「苦悩の旧里はすてがたく」といわれています。私たちが
今の生活にいだいている愛着感をよく表現されていると思います。
法然上人の『選択集』に「生死の家には疑いをもって所止とし、涅槃の城には信をもっ
て能入とす」ということばがあります。親鸞聖人はこのことばを『正信偈』にされたので
すが、いくつかことばをおぎなっておられます。そのひとつが最初の「還来」です。親鸞
聖人はこの「還来」に「かえることは」とふりがなを付けておられます。
すばらしいことに出会って感動し、いつまでも感動を持ちつづけたいと思っていても、
いつの間にか忘れてしまって、また喜怒哀楽に振りまわされる日頃の自分にもどってしま
う。こんなことはだれでも経験したことがあるのではないでしょうか。「生死輪転の家に
還来る」とは、そのような私たちの経験を言いあてておられるようです。
しかし、親鸞聖人が「還来」ということばを使われたことに、もうひとつ深い意味があ
るのではないかと感じられます。
善導大師は「誓いて弥陀の安養界に至り、穢国に還来して人天を度せん。願わくは我が
慈悲際限無くして、長時長劫に慈恩を報ぜん」と述べておられます。「阿弥陀仏の浄土に
生まれることができたならば、再び迷い苦しんでいる人々の世界に還来して人々を導くこ
とを誓います。願わくば私が浄土でいただいた慈悲の心に限りがなくて、いつまでも人々
を救いつづけ、阿弥陀仏のご恩に報いたい」という善導大師の誓いです。
私たちはこの世界に生まれ、煩悩いっぱいの生活をおくっているけれども、この世界に
生まれてきたことにはもっと大きな意味があるにちがいありません。私たちは阿弥陀仏の
大きな命からこの世界に生まれてきました。私は阿弥陀仏の命のひとかけらが私の命にな
っているように感じます。ただ偶然に意味もなく生まれてきたのではなく、阿弥陀仏の大
きな願いが私たちの中にひそんでいるように感じます。それが生き生きとした生活を生み
だす私の本願ではないでしょうか。阿弥陀仏の本願が私の本願になっているのです。選択
本願とは、その本願に気づくことです。
蓮如上人は「至りて堅きは石なり。至りてやわらかなるは水なり。水よく石を穿つ。い
かに不信なりとも聴聞に心を入れて申せば、お慈悲にて候あいだ、信を得べきなり。ただ、
仏法は聴聞にきわまることなり」(石はたいへん固く、水はたいへんやわらかです。しか
し、雨のしずくは、ながい年月の間に石に穴をあけてしまいます。このたとえのように、
たとえ今信心がない人であっても、心を入れて教えを聞けば、阿弥陀仏のお慈悲によって、
信心を得ることができるものです。仏法は聞きつづけることが大切です」と、門徒に語り
かけておられます。 (『蓮如上人御一代記聞書』)
仏法は聞きつづけていると、その通りだったとうなずける時に出会えるのではないでし
ょうか。