正信偈三十四
念仏の歴史をうけて
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したもう。
道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべし。
ああ三国のひじりたち はてなき濁りの世を救う
さらば同朋もろともに 南無阿弥陀仏をとなうべし。
金子大栄先生の意訳
釈尊は阿弥陀仏の教えを私たちに伝えてくださった。
釈尊から教えを受けて、人びとに広めてくださった方がたが、インド・中国・日本に生
まれ、つきることのない濁りと悪に満ちたこの世界に生活している人びとを救済しつづけ
てくださった。今、この時代に生まれた僧も在家の人びとも、心を同じくして、七高僧の
教えを深く聞き、心の底からうなずき信じることができれば、歩むべき道が開かれてくる。
念仏の歴史と出会う
親鸞聖人は「ただこの高僧の説を信ずべし」と『正信偈』を結んでおられます。親鸞聖
人は、釈尊が明らかにされた阿弥陀仏の教えが、龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・
法然の七高僧によって、ご自身にまで伝えられてきたことを、たいへん大切にし、感動を
もって受けとめておられます。親鸞聖人は七高僧の教えに簡単に出会えたのではありませ
ん。法然上人に出会って念仏の門に入り、そこから七高僧の念仏の歴史に出会われたので
すが、そこに至るまでの道はけっして平坦ではありませんでした。
法然上人が比叡山を下りて吉水で専修念仏を人々に説き始められたのは四十三歳(一一
七五年)でした。親鸞聖人が誕生されたのは一一七三年、比叡山に入られたのは一一八一
年、法然上人に出会われたのは一二〇一年(二九歳)です。
親鸞聖人は一九歳のとき、磯長の御廟(聖徳太子の御廟)に参籠され、二九歳に六角堂
に参籠されました。その間、親鸞聖人は一心に仏道を求めて苦しんでおられました。法然
上人のもとには念仏の教えを求めて人びとが集まり、京都の町で知らない人はないほどで
した。しかし、親鸞聖人は法然上人には出会えませんでした。
二九歳になって、六角堂の参籠で観音菩薩から夢告を受け、先輩の聖覚法印に吉水まで
引きつれられて行って、ようやく親鸞聖人は法然上人に出会うことができました。そのと
き、はじめて法然上人がほんとうに求めていた師であったことがわかったのです。
親鸞聖人は「遇」という字を「もうあう」と読んでおられます。「会えるはずがなかっ
た方に会うことができた」という親鸞聖人の感動が込められています。法然上人に出会い
、そこから善導大師の教えに出会い、曇鸞大師の教えに出会うことができた感動です。
釈尊は紀元前五・六世紀、法然上人・親鸞聖人は十二・三世紀の方ですが、その間、七
高僧が多くの念仏者とともに、念仏の教えを受け、念仏の歴史を形づくってこられました。
釈尊は阿弥陀仏の教えを説かれ、龍樹菩薩は念仏易行道を開かれ、天親菩薩は阿弥陀如
来の本願力に出会われ、曇鸞大師は他力回向を明らかにされ、善導大師は念仏の教えは凡
夫のためにこそあると、南無阿弥陀仏の意義を明らかにされました。
このように念仏の歴史は親鸞聖人の時代までとぎれることなく伝えられてきたのですが、
親鸞聖人にとって、法然上人に出会うまでは、自分自身とはかかわりのない歴史です。
念仏の門に入ったとき、はじめて念仏の歴史は自分のところにまで流れ来たった、生き生
きとした歴史になりました。
たとえば、イスラム文化圏の歴史は、私たち日本人にはほとんど関係がないように感じ
られ、あまり親しみを感じることはないでしょう。文化的にも政治的にも直接的な交流が
あまりなかったためです。しかし、今、私たちが使っている数字は「アラビア数字」とよ
ばれるように、イスラム文化圏で生まれた文字です。また、奈良時代にはシルクロードを
経て、さまざまに日本の文化に影響を与えています。仏教もインドからパキスタン・アフ
ガニスタンを経て中国・日本にまで伝えられました。このような事実を知ると、イスラム
文化圏の歴史も私たちにつながっている歴史であったことに気づかされます。私たちの歴
史が広がったといえるでしょう。
白道の歩み
親鸞聖人と法然上人の出会いと、善導大師の「二河白道の譬喩」とはよく似ています。
親鸞聖人が「二河白道の譬喩」をはじめて読まれたとき、ここに書かれている旅人は自分
自身のことではないかと感じられたに違いありません。
「二河白道の譬喩」では、ただ立ち止まって白道を眺めているときには、白道は火に焼
かれ、水に洗われている頼りない小道にしか見えませんでした。しかし、釈尊と阿弥陀如
来の声に呼びかけられて渡りはじめた白道は、広く確かな大道だったのです。
親鸞聖人が法然上人の活動を聞いていても近づくことがなかったあいだは、法然上人が
説いておられる念仏は頼りない小道としか感じられなくて、けっして自分の苦しみや悩み
から救ってもらえるとは思いもされなかったのでしょう。しかし、どうしようもなくなっ
て、ようやく法然上人のもとへ行かれたとき、ほんとうに求めていた道が開かれたわけで
す。
親鸞聖人にとって、善導大師は自分のために教えを説いておいてくださったと感じられ
たのではないでしょうか。
『歎異鈔』後序に次のようなことばがあります。
聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親
鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たす
けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいし。
(聖典 東六四〇頁七行目 明五五七頁五行目)