『正信偈』二 資料 帰命無量寿如来 南無不可思議光 南無・帰命 「行巻」(真宗聖典 168頁)  しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、かならずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。 もしこれをもって推するに、帰命は重とす。偈は己心を申ぶ、よろしく帰命(命の字、使 なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり)というべし。 「行巻」(真宗聖典 176頁)  またいわく(玄義分)「南無というは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義 なり。阿弥陀仏というは、すなわちこれその行なり。この義をもってのゆえにかならず往 生を得」と。 「行巻」(真宗聖典 177頁)  しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説なり、説の字は、悦の音な り。また帰説なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣 述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、 召なり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向というは、如来すでに発願し て衆生の行を回施したもうの心なり。  即是其行というは、すなわち選択本願これなり。必得往生というは、不退の位に至るこ とを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といえり、釈(易行品)には「必 定」といえり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡す るなり。「必」の言は審なり、然なり、分極なり、金剛心成就の貌なり。 『御文』3−5  この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけ たまえとおもいて、余念なきこころを帰命とはいうなり。つぎに「阿弥陀仏」という四つ の字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくいたまうこころなり。 『御文』5−9  「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」というは、衆生の、もろもろの雑行をす てて、阿弥陀仏後生たすけたまえと一向にたのみたてまつるこころなるべし。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」214頁  宗密『起信疏』「能帰の至誠を顕す、帰とはこれ依投趣向(よる・なげうつ・おもむく ・むかう)の義。命とは諸根を総御するの一身の要なり。人の重んずるところ先とせざる ことなし、この無二の命を挙げて、もって無上の尊に奉つる」  『宗鏡録』「また帰命はこれ還源の義なり、命根を挙げて、総じて六情を摂して、その 本の一心の源に還る、故に帰命という」  香象『起信疏』「帰とはこれ趣向の義なり、命は謂く己身の性命なり。生霊の重しとす るところ、これより前となすはなし、また帰はこれ敬順の義なり、命は謂く諸仏の教命な り」  南無とは度我の義、又は救我の義なり。是を以て南無の二字を和礼乎多寸計多末辺(わ れをたすけたまへ)と和訓す、故に帰命、また是れ助け給えなり。 『現代文 御文 第五帖』十一通目  「南無」という二字は、われわれのこざかしさのすべてを捨て、教えにしたがって一心 に阿弥陀仏をたのむこころです。  「阿弥陀仏」という四字は、一心に弥陀をたのむ人を、そのままたすけるというはたら きです。 『現代文 御文 第五帖』九通目  南無の二字は帰命のこころです。帰命ということは、われわれが一切の見栄や飾りを捨 て、ひたすら阿弥陀仏に真実の生き方を求めるこころです。 帰命と帰入 『曽我量深選集 8』 33頁  如来の智慧海に帰入すれば、ご和讃(高僧和讃・曇鸞讃)にあるように「尽十方の無碍 光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ。無碍 光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこおりとけ すなわち菩提のみずと なる。罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さ わりおおきに徳おおし」。  このように功徳の大宝海に帰入する。如来の智慧海に帰入する。  ふつう帰命とは尽十方無碍光に帰命するとも、如来に帰命するともいう。また如来を帰 命するとも、如来に帰入するともいうが、帰命と帰入は意味が違うと思う。  「尽十方無碍光の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしおに一味な り」(曇鸞章)。これは法の徳を讃嘆なさる。仏智不思議、深広無涯底の如来の智慧海に 帰入する。  これは一般には帰命というけれども、帰命の中に帰入という意味をもう一つ持っている。 そういうことを教えてくだされてある。  帰命に帰入ということがあって、始めて現生正定聚が成立つのでありましょう。帰命だ けでは現生正定聚は成立たぬ。帰入するということがあって現生正定聚が成立つ。また必 至滅度ということも成立つ。  このように十七願を開いて、帰命により帰入ということを教えてくだされたのでありま す。  このように帰ということは、本願海に帰入する、仏智不思議智に帰入していくという、 法の不思議の意味を持つということを知ることができる。  十七願には、帰命に帰入という深い意味を持っている。一乗海に帰入する。  一乗海に帰命するという意味もあるけれども、一乗海というものにたいして帰入してい くという。そういう意味を持つ。  だから帰入という意味から真仏土と化身土というものが開けてくる。単なる帰命だけな ら、真仏土・化身土は出てこない。けれども帰命だけではなく帰入ということがあるから 真仏土と化身土が開けてくるということができると思うのであります。