『正信偈』四 資料 普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智恵光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 『無量寿経』  仏、阿難に告げたまわく、  「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり。あ るいは仏の光の百仏世界を照らすあり。あるいは千仏世界なり。要を取りてこれを言わば、 すなわち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下も、またまたかくのごとし。あ るいは仏の光の七尺を照らすあり。あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かく のごとく転た倍して、乃至、一仏刹土を照らす。  このゆえに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光 仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。  それ衆生ありて、この光に遇えば、三垢消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し善心を焉 に生ず。もし三塗・勤苦の処にありてこの光明を見たてまつれば、みな休息することを得 て、また苦悩なけん。寿終わりて後、みな解脱を蒙る。  無量寿仏の光明顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまうに、聞こえざることなし。  但我が今、その光明を称するのみにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩 衆もことごとく共に歎誉したまうこと、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光 明威神功徳を聞きて、日夜に称説して心を至して断えざれば、意の所願に随いて、その国 に生まるることを得て、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、共に歎誉しその功徳を称 せられん。  それ然うして後、仏道を得ん時に至りて、普く十方の諸仏・菩薩のために、その光明を 歎められんこと、また今のごとくならん。」  仏の言わく、「我無量寿仏の光明威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも尚未 だ尽くること能わじ。」 『讃阿弥陀仏偈』曇鸞大師  仏荘厳  南無阿弥陀仏釈して無量寿と名づく。経に傍へて奉讃す。亦安養とも曰ふ。  現に西方此の界を去ること、十万億刹の安楽土に在す。  仏世尊を阿弥陀と号けたてまつる。我往生せむと願じて帰命し礼したてまつる。  成仏より已来十劫を歴たまへり。寿命方将に量り有ること無し。  法身の光輪法界に遍くして、世の盲冥を照らす。故に頂礼したてまつる。  智恵の光明量るべからず。故に仏を又無量光と号けたてまつる。  有量の諸相光暁を蒙る。是の故に真実明を稽首したてまつる。  解脱の光輪限斉無し。故に仏を又無辺光と号けたてまつる。  光触を蒙る者有無を離る。是の故に平等覚を稽首したてまつる。  光雲無礙にして虚空のごとし。故に仏を又無礙光と号けたてまつる。  一切の有礙光沢を蒙る。是の故に難思議を頂礼したてまつる。  清浄の光明対ぶもの有ること無し。故に仏を又無対光と号けたてまつる。  斯の光に遇ふ者業繋除こる。是の故に畢竟依を稽首したてまつる。  仏光照曜すること最第一なり。故に仏を又光炎王と号けたてまつる。  三塗の黒闇光啓を蒙る。是の故に大応供を頂礼したてまつる。  道光明朗にして、色超絶したまへり。故に仏を又清浄光と号けたてまつる。  一たび光照を蒙れば、罪垢除こりて皆解脱を得。故に頂礼したてまつる。  慈光遐かに被らしめ、安楽を施したまふ。故に仏を又歓喜光と号けたてまつる。  光の至る所の処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。  仏光能く無明の闇を破す。故に仏を又智恵光と号けたてまつる。  一切諸仏・三乗衆、咸く共に歎誉したまへり。故に稽首したてまつる。  光明一切の時に普く照らす。故に仏を又不断光と号けたてまつる。  光力を聞くが故に、心断えずして皆往生を得。故に頂礼したてまつる。  其の光仏を除きては能く測るもの莫し。故に仏を又難思議と号けたてまつる。  十方諸仏往生を歎じ、其の功徳を称したまへり。故に稽首したてまつる。  神光相を離れたれば、名づくべからず。故に仏を又無称光と号けたてまつる。  光に因りて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふ所なり。故に頂礼したてま つる。  光明照曜すること日月に過ぎたり。故に仏を超日月光と号けたてまつる。  釈迦仏歎じたまふも尚尽きず。故に我無等等を稽首したてまつる。  『正信偈大意』蓮如上人   「普放無量無辺光」というより「超日月光」というにいたるまでは、これ十二光仏の 一々の御名なり。  「無量光仏」というは利益の長遠なることをあらわす、過現未来にわたりてその限量な し、数としてさらにひとしき数なきがゆえなり。  「無辺光仏」というは、照用の広大なる徳をあらわす、十方世界を尽してさらに辺際な し、縁として照らさずということなきがゆえなり。  「無碍光仏」というは、神光の障碍なき相をあらわす、人法としてよくさうることなき がゆえなり。碍において内外の二障あり。外障というは、山河大地・雲霧煙霞等なり。内 障というは、貪・瞋・痴・慢等なり。  「光雲無碍如虚空」(讃阿弥陀仏偈)の徳あれば、よろずの外障にさえられず、「諸邪 業繋無能碍者」(定善義)のちからあれば、もろもろの内障にさえられず。かるがゆえに 天親菩薩は「尽十方無碍光如来」(浄土論)とほめたまえり。  「無対光仏」というは、ひかりとしてこれに相対すべきものなし、もろもろの菩薩のお よぶところにあらざるがゆえなり。  「炎王光仏」というは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるがゆえなり。 『大経』(下)に「猶如火王 焼滅一切 煩悩薪故」と説けるは、このひかりの徳を嘆ず るなり。火をもって薪を焼くに、尽さずということなきがごとく、光明の智火をもって煩 悩の薪を焼くに、さらに滅せずということなし。三途黒闇の衆生も光照をこうぶり解脱を 得るは、このひかりの益なり。  「清浄光仏」というは、無貪の善根より生ず。かるがゆえにこのひかりをもって衆生の 貪欲を治するなり。  「歓喜光仏」というは、無瞋の善根より生ず、かるがゆえにこのひかりをもって衆生の 瞋恚を滅するなり。  「智慧光仏」というは、無痴の善根より生ず、かるがゆえにこのひかりをもって無明の 闇を破するなり。  「不断光仏」というは、一切のときに、ときとして照らさずということなし。三世常恒 にして照益をなすがゆえなり。  「難思光仏」というは、神光の相をはなれてなづくべきところなし、はるかに言語の境 界にこえたるがゆえなり。こころをもってはかるべからざれば「難思光仏」といい、こと ばをもって説くべからざれば「無称光仏」と号す。『無量寿如来会』(上)には難思光仏 をば「不可思議光」となづけ、無称光仏をば「不可称量光」といえり。  「超日月光仏」というは、日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地 獄にいたらず。仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし、かるがゆえに日 月に超えたり。さればこの十二光を放ちて十方微塵世界を照らして衆生を利益したまうな り。   「一切群生蒙光照」というは、あらゆる衆生、宿善あればみな光照の益にあずかりた てまつるといえるこころなり。 『大本私考』「相伝義書 8」42頁  横竪の二号を挙げて報身の徳号を嘆ずるなり。・・・(無量寿仏と十二光)  尚、この十二の光徳、一一にかたよる事なかれ。光光互いに具して無尽の徳を具するな り。  十二徳号、一往文字の釈は、憬興の釈を「真土巻」に引きたまう。但、字義の一往なり。  「憬興師云く。  無量光仏、算数にあらざるが故に。  無辺光仏、縁として照さざることなきが故に。  無碍光仏、人法として能く障うることあることなきが故に。  無対光仏、諸菩薩の及ぶ所にあらざるが故に。  光炎王仏、光明自在にして更に上と為すことなきが故に。  清浄光仏、無貪の善根よりして現ずるが故に、また、衆生貪濁の心を除くなり、貪濁の 心なきが故に清浄と云う。  歓喜光仏、無瞋の善根よりして生ずるが故に、能く衆生の瞋恚盛心を除きが故に。  智慧光仏、無痴の善根の心より起これり、復た衆生の無明の品心を除くが故に。  不断光仏、仏の常光、恒に照益を為すが故に。難思光仏、諸の二乗の惻度する所にあら ざるが故に。  無称光仏、またた余乗等、説くこと堪うる所にあらざるが故に。  超日月光仏、日は応じて恒に照すこと周かず、娑婆一燿(かがやき)の光なるが故に。  皆これ光触を身に蒙る者は、身心柔軟の願の致す所なり。已上抄要。」  無量寿の名義は、本偈(讃阿弥陀仏偈)に言わく、「成仏よりこのかた十劫を歴たまえ り 寿命まさに量あることなけん 法身の光輪、法界に遍じて 世の盲冥を照す故に頂礼 したてまつる」文  『讃』に「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」。  『讃』の上は寿徳の文字なけれども、本偈によりて寿徳の讃とならうが一家のならいな り。法身の光輪は、則ち寿徳を相にあらわして光輪と示すなり。  寿徳は体なり。横竪の配当、思うべし。尚、深旨あり。  「無量光」は、一往の解のごとく、ただ算数に及ばざるゆえに無量とはいうにあらず。 智慧光のゆえに不可量なり。  『和讚』「智慧(智は、あれはあれ、これはこれと分別して思い計らうによりて思惟に 名づく。慧は、このおもいの定まりて、ともかくも計らわぬによりて普等三昧なり)の光 明はかりなし 有量の諸相(よろづの衆生なり。有量は、世間にあることはみな計りある によりて有量というなり。仏法はきわほとりなきによりて無量というなり)ことごとく 光暁(ひかりにてらさるるなり)かふらぬものはなし 真実明(あみだにょらいなり。し んといふは、いつはりへつらわぬをいふ。じちというは、かならずもののみとなるをいふ なり)に帰命せよ」文。  「無辺光」とは、有無の二辺を離れしめたまえる解脱の光輪なる故に「無辺」と嘆ずる なり。  『讃』に云わく、「解脱の光輪(げだちといふは、さとりをひらき仏になるをいふ。わ れらがあくごふぼんなうをあみだのおんひかりにてくだくといふこころなり)きはもなし  光触かふるものはみな 有無をはなる(じゃけんをはなるるなり)とのべたまふ 平等 覚(あみだはほうじんにてましますあひだびょうどうかくというなり)に帰命せよ」文。  「無碍光」とは、  『讃』に曰わく、「光雲無碍如虚空(ひかりくものごとくにてさはりなきことそらのご としとなり)一切の有碍(よろづのよのことなり。さはりあることなり)にさはりなし 光沢(うるほふ反)(ひかりにあたるゆへにちえのいでくるなり)かふらぬものぞなき 難思議(こころのよろこばぬによりてなんしぎといふ)を帰命せよ」文。  「無対光」は、  『讃』に云わく、「清浄光明(どむよくのつみをけさんれうにしやうじやうくわうみや うとまうすなり)ならびなし 遇斯光(このひかりにあふものはみだぶちにまうあいぬる ゆへに)のゆヘなれば 一切の業繋(つみのなわにしばらるるなり。あくごふのつなとい ふなり)ものぞこりぬ 畢竟依(ほうじんのさとりのこるところなくきはまりたまひたり といふこころなり)を帰命せよ」文。  「炎王光仏」とは、  『讃』に曰わく、「仏光照耀最第一(てらしかがやくことことにもっともすぐれたりと いふこころなり) 光炎王仏となづけたり 三塗の黒闇(ぢごくかくいちくしょうくらき やみなり)ひらくなり 大応供(みだにょらいなり。いちさいしゅじゃうのくやうをうけ たまふにこたへたまふによりてだいおうぐとまうすなり)を帰命せよ」文。  「清浄光」とは、  『讃』に云わく、「道光明朗超絶せり 清浄光仏とまふすなり ひとたび光照かふるも の 業苦(悪業煩悩なり)をのぞき解脱をう(さとりをひらくなり。解脱といふは、仏果 にいたり、仏になるをいふ)」文。  「歓喜光」とは、  『和讚』「慈光(あはれむひかり。じといふはちちのじひにたとふるなり)はるかにか ふらしめ ひかりのいたるところには 法喜(みのりをよろこぶなり。くわんぎくわうぶ ちをほふきといふ。これはとむよく、しんい、ぐちのやみをけさんれうなり)をうとぞの べたまふ 大安慰(だんあんいは、あみだの御名なり。一切衆生のよろづのなげきうれへ あることをうしないて、やすくやすからしむ)を帰命せよ」文。  「智慧光仏」とは、  『讃』に云わく、「無明の闇を破するゆへ 智慧光仏となづけたり(一切諸仏のちえを あつめたまへるがゆへにちえこうぶちともうすなり。一切しょぶちの仏になりたまふこと はこのあみだのちえにてなりたまふなり) 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまへり」文。  「不断光」とは、  『讃』に云わく、「光明てらしてたへざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆへな れば(みだのおんちかいをしんじまいらするなり。もんといふはきくといふ、きくといふ はこのほふをききてしんじてつねにたへぬこころなり) 心不断にて(みだのせいぐわん をしんぜんこころたえずしてわうじゃうすとなり。ぼだいしんのたへぬによりてふだんと いふ)往生す」文。  「難思光」とは、  『讃』に云わく、「仏光測量なきゆへに(しきははからひのひまなきをいふ。りょうは かずをしらぬをいふなり) 難思光仏となづけたり(すべてこころのおよばぬにて、なん しかうぶちといふなり) 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ」文  「無称光」とは、  『讃』に云わく、「神光の離相をとかざれば(じんくわうといふはあみだなり。すべて みだのかたちときあかしがたきなり。ひかりはかたちなきなり。むげくわうぶちのおんか たちをいひひらくことなしとなり) 無称光仏となづけたり(すべてことばにをよばぬに よりてむしょうくわうぶちといふなり) 因光成仏のひかりをば(ひかりをたねとしてほ とけになりたまひたり。ひかりのきわなからんとちかひたまひて、むげくわうぶちとなり をはしますとしるべし) 諸仏の歎ずるところなり」文  「超日月光」とは、  『和讚』「光明月日に勝過して(むげくわうにょらいは、つきひにはすぐれたまへるひ かりなるがゆへに) 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなをつきず 無等等(ひとしく ひとしむるひとなし)を帰命せよ」文 『大本私考』「相伝義書 8」48頁  其有衆生、遇斯光者、三垢消滅、身意柔軟。歓喜踊躍善心生焉。  (其れ衆生有りて、斯の光に遇(もうあ)う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊 躍して善心生ず)  科云々。三十三触光柔軟の願成なり。  文上一往云々。「三垢」は則ち三毒なり。  「斯の光に遇う者」とは、信心決定の人を指すなり。光明名号の因縁によって、名義相 応の信心を獲るゆえに、聞信の者を指して「遇斯光者」と説きたまえり。『讃』の左訓に、 「みた仏にまふあひぬるゆへに」文。是れにて分明なり。此の光明に遇うところの現益は、 一切善悪大小凡聖の現生に蒙るところの光益なり。  「三垢消滅」とは、「三垢」は即ち三毒なり。決定心の上には、三毒の煩悩はしばしば 起これども、往生のさわりにならずと信ぜられたる処が、則ち「三垢消滅」なり。  「身意柔軟」は具さに願文に出たるごとし。  「歓喜」は則ち身心悦豫を形(あらわ)すの貌なり。その「歓喜」のよそおいを「踊躍」 と云うなり。  「善心生焉」とは、強(あながち)ちかどかどしく悪心を翻えして善心となると云うこ とには非ず。「善心」と云うは他力の信心なり。則ち如来のよき御こころなり。此の最上 の信心ほどなる大善心はなきなり。此の善心たる他力の信心を得ると云うは、偏えに此の 光明に遇うゆえなり。  これらの文をば、宗意のこころえなく、ただ文義の一往を取る者思えらく、三垢消滅し 善心生ずと云う経説はあれども、ついに三垢の消滅したることもなく、善心らしきことも なく、柔軟めきたるいわれもなければ、歴縁対境するときは、終日終夜妄想顛倒して、彼 の三毒いつか消滅したると云うしるしも思い知られぬ故に、人には語らねども一分の心が すまぬなり。いかにもただ文相の一往に見て宗意の心得なければ、是れ等の経説、一向合 点ゆかぬも宜なり。  宗旨の安心より聴聞するときは、今日三毒迷倒の心のうえに、曽て善心が生ぜぬとも三 毒が滅せぬとも、危ぶみ思うことはなきなり。凡夫不成の迷心のうえに思い直して、善心 も生じ柔軟にもなると云う道理は一向なきはずのことなり。欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、 欲想・瞋想・害想を起こさず、(染恚痴なし、三昧常寂にして智慧無礙なり)と、三毒煩 悩を尽くし果したまえる仏心の上に本よりなきと知られたれば、凡夫が上の三毒の有無、 機に受けたる柔軟善心の生不生に拘わることに非ず。・・・  他力の宗意をいわば、此の光明に遇う処の信者は現在一生の三毒を消滅するのみに非ず。 過去・未来・現在の三世の業障も皆悉く消滅したまう処の、一念の信、摂取不捨の南無阿 弥陀仏なれば、五蘊仮和合の身の上には、終日終夜煩悩罪障にまとわれ思いつづけて居て も、知らず測らざる処に歓喜踊躍の身となる、これを大歓喜大慶喜と云うなり。煩悩妄心 の上に計度して喜び楽しむ相(すがた)を大歓喜大慶喜と云うにはあらず。喜ぶべきこと も得喜ばず、楽しむべきことも得楽しまぬように迷い倒れて、何を取りて願うこともなく、 何として信ずべきこともなく、明け暮れ生死の大海に沈没し、迷倒の境界にのみまとわれ て、金殿の栄華に誇り茅屋の貧賎を悲しむ。喜楽それぞれの果報のままながら、終日暮ら せども暮らせども、終夜明かせども明かせども、機の上に道理を弁うることはさらさらな けれども、遇斯光の徳として、日夜朝暮大歓喜大慶喜のありさまとなさしめたまうなり。 ここのほどは他(よそ)へさしのけずして、一分一分に引き受けて熟意すべし云々。  本偈に依れば、「無対光」「清浄光」「歓喜光」「智慧光」の照用なるべし。本偈伺い 合わせよ。  若在三塗勤苦之処、見此光明、皆得休息、無復苦悩。  (若し三塗勤苦の処に在りて、この光明を見れば、皆、休息を得、復た苦悩なし)  『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」224頁  三普照益   一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙むる)  科の「普照益」とは、十二光普照益なり。  「群生」とは、身土所感の機なり。千万あるべし。  「一切群生蒙光照」とは、「遇斯光者」の文意なり。即ち、経文『講記』の如し。  『論註』に「碍は衆生に属す。光の碍にはあらず。譬えば日光は四天下に周けれども、 盲者は見ざるがごとし。日光の周からざるにはあらず」文。  先徳云わく「たまたま欲往生の深信発得することは、これしかしながら、法蔵因中の強 願と正覚弥陀の智力と内薫蜜択して、一念帰命の往益を成ず」文。  宗師云わく「願以って力を成ず、力以って願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず、力 願あいかなって畢竟たがわざるが故に成就という」文。力は果位の神力なり。  即ち先徳の曰わく(『文類集』)「阿弥陀といふは願なり。仏といふは力なり。願とい ふは法なり。力といふは世々先徳なり、人なり。願よく力をたもち、力は願をたのみて、 願力ともにあひたすけて成就する、阿弥陀仏といふなり」。  和尚は「人・法並べ彰わす、故に阿弥陀仏と名づく」云々。