『正信偈』六 資料         至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 『尊号真像銘文』  「至心信楽願為因」というは、弥陀如来回向の真実信心なり。この信心を阿耨菩提の因 とすべしとなり。  「成等覚証大涅槃」というは、成等覚というは、正定聚のくらいなり。このくらいを龍 樹菩薩は、「即時入必定」とのたまえり。曇鸞和尚は、「入正定之数」とおしえたまえり。 これはすなわち、弥勒のくらいとひとしとなり。  証大涅槃ともうすは、「必至滅度の願成就」のゆえに、かならず大般涅槃をさとるとし るべし。 『正信偈大意』(真宗聖典 750頁)  「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」というは、第十八の真実の信心 をうれば、すなわち正定聚に住す、そのうえに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第 十一の願の必至滅度の願成就したまうがゆえなり。これを平生業成とはもうすなり。  されば正定聚というは、不退のくらいなり、これはこの土の益なり、滅度というは涅槃 のくらいなり、これはかの土の益なりとしるべし。  『和讃』にいわく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなわち大悲 をおこすなり これを回向となづけたり」といえり。これをもってこころうべし。 至心信楽願為因  十八願成就文  あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向し たまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。ただ五逆と 誹謗正法とを除く。  第十八願(至心信楽の願・念仏往生の願)  たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至 十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんをば除く。 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就  第十一願成就文  それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以はいかん。か の仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。  第十一願(必至滅度の願)  たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取ら じ。 「信巻」(真宗聖典 235頁)  まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといえども、その意これ一つなり。 なにをもってのゆえに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆえに真実の一心なり。これを 金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名 号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主(天親)、建 めに「我一心」(浄土論)とのたまえり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同)との たまえり。 三信  『文類聚鈔』  至心  一には至心、この心すなわちこれ如来の至徳円修の満足真実の心なり。阿弥陀如来、真 実の功徳を以って一切に廻施したまえり。すなわち名号を以って至心の体と為せり。  しかるに十方衆生穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮雑毒にして真実の心なし。  これを以って如来の因中に菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も 清浄真実の心にあらざることあることなし。如来清浄の真心を以って、諸有の衆生に廻 向したまえり。  『経』に言たまわく。「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起さず、色・ 声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計からず。少欲知足にして染・恚・癡なし。 三眛常寂にして智恵無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語をして意を先にして 承問す。勇猛精進にして、志願倦ことなし。専ら清白の法を求て、以って群生を恵利し て、三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳を以って衆行を具足して諸の衆生をして功徳成 就せしめたまえりと  聖言明かに知んぬ。今この心はこれ如来の清浄広大の至心なり、これ真実心と名づく。 至心すなわちこれ大悲心なるが故に、疑心あることなし。  信楽  二には信楽、すなわちこれ真実心を以って信楽の体と為す。  しかるに具縛の群萠穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。この故に真実の功 徳に値い難く、清浄の信楽獲得しがたし。  これに依りて釈の意を窺うに、愛心常に起て能く善心を汚す、瞋嫌の心能く法財を焼く。 身心を苦励して、日夜十二時に、急に走 (もとめ) 急に作して、頭燃を炎うが如くすれど も衆〈すべて〉雑毒の善と名づく、亦た虚仮の行と名づく、真実の業と名けざるなり。 この雑毒の善を以って彼の浄土に廻向する、これ必ず不可也。何を以っての故に、正しく 彼の如来菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心の 中に作したもうに由るが故に、疑蓋雑わることなし。如来清浄真実の信楽を以って、諸有 の衆生に廻向したまえり。  本願成就の文『経』に言く。「諸有の衆生、その名号を聞て、信心歓喜せんと」  聖言明に知んぬ。今この心すなわち本願円満清浄真実の信楽なり。これを信心と名づく。 信心すなわちこれ大悲心なるが故に、疑蓋あることなし。  欲生  三には欲生、すなわち清浄真実信心を以て欲生の体と為す。  しかるに流転輪廻の凡夫、曠劫多生の群生、清浄の廻向心なし、また真実の廻向心なし。  これを以って如来因中に菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、 廻向を首と為して大悲心を成就することを得たもうにあらざることあることなし。故に如 来清浄真実の欲生心を以て、諸有の衆生に廻向したまえり。  本願成就の文『経』に言く。「至心に廻向したまえり、彼の国に生と願ずれば、すなわ ち往生を得、不退転に住せんと  聖言明に知んぬ。今この心これ如来の大悲、諸有の衆生を招喚したもうの教勅なり。す なわち大悲の欲生心を以て、これを廻向と名づく。  三信総結  三心みなこれ大悲廻向心なるが故に、清浄真実にして疑蓋雑わることなし、故に一心な り。 三心   (信巻 聖典214)  至誠心  (散善義)経に云わく、一には至誠心。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身口 意業所修の解行、必ず須く真実心の中に作すべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の 相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。  (信巻)至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真 実心のうちになしたまえるを須いんことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずるこ とを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし  深心  (散善義)深心と言うは即ち是深く信ずる心なり。亦二種有り  (信巻)深心というは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定し て深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して 、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆 生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず  回向発願心  (散善義)廻向発願心と言うは、過去及以今生の身口意業所修の世・出世の善根と、及 び他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、此の自他の所修の善根を 以て悉く皆真実の深信の心中に廻向して彼の国に生ぜんと願ず  (信巻)回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまえる 願を須いて得生の想をなせ。この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異 見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず 11願(正定聚・邪定聚・不定聚) 「曾我量深選集 11」289頁  第十一願はものの筋目をはっきりする願である。その根本を明らかにするのが大切であ る。  正定聚と邪定聚と不定聚の三つの機があるということが、この第十一願によって明らか になった。我々は第十八願は正定聚、第十九願は邪定聚、第二十願は不定聚というが、そ の元は何処から出て来たか、その元がこの十一願である。  親鸞が始めて『大経』下巻の初めに第十一願成就があることを注目した。承上起下の役 目をして「上巻」を承けて「下巻」を開く大切な鍵である。二つの世界を開くかんぬきの 役目をする。これを分水嶺と私は言う。  仏の分限と人間の分限を明らかにする、これが第十一願。そしてこの二つは互に侵さぬ。 両方は分限を守って相手を侵略しない。仏の本願は南無のある阿弥陀仏である。南無は我 々がするので上のものが南無することはあるまいというが、それは封建思想である。  何処までも仏が衆生に南無することによって、衆生を仏に南無せしめる。これ如来廻向 という。無上涅槃とはそんな境地をいう。  こんなことは誰も知らぬ。親鸞が釈尊の教によって始めて分った。釈尊のさとりは南無 阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は無上涅槃の象徴である。南無阿弥陀仏で皆が一つになる。仏の 方から南無阿弥陀仏と南無しなさる。私のようなものを南無なさる。未来の仏として南無 なさる。仏から見ると過去の仏も未来の仏も同じことである。仏から見ると同じことであ る。仏様は心から自分と等しいと尊敬している。我々が等しいと分らぬのを哀れんで、懇 なる教を垂れて下さる。正定聚とは現在に自分の分限を知ることである。宿業を知ること である。  宿業が分限を明らかにする。宿業はみんな違う。大工さんは大工さん、佐官さんは佐官 さん、男性に女性、それぞれ違う。違うところに如来の廻向がある。如来廻向について業 を知らして頂く。これを正定聚という。  何時死んでも御浄土参り間違いないという人を正定聚という人があるが、そんなことだ けではない。  現在の宿業をはっきり知らして貰う、これを正定聚という。そこに坐りをおいてそこに 足を据えて、自分の生活を厳粛に進めてゆく、これを現生正定聚という。体が弱い、家が 貧しい、学校ができぬ、これ皆宿業。それを悲しんだり、不平をいうのは正定聚ではない。 宿業と分れば頭のよい人はもっともっと励めということが分る。頭の悪い人は二倍も三倍 も励めということが分る。何か欲しいと横目を使ってはならぬ。  正定聚の反対は邪定聚である。これは分限ということの分らぬ人である。分限を乱す、 他に迷惑をかけ自分も苦しむ、いくら邪定聚の人に月給をやっても、もっとくれくれとい う。それは人間の生きる権利というが、しかしそのため乱暴するのは愚劣である。守るべ きは守り、退くべきは退くことを知るのが大切である。邪定聚は何時も不平不満の人で、 社会を困らせ自分も苦しむ。  不定聚の人は積極的に権利は主張せぬが、何か足らぬような顔をしている。何か元気の ない姿である。これが普通の人であるが、この人はどちらにでもなる人。不定の人。よく すれば正定聚、放っておけば邪定聚、仏は『大無量寿経』にこの機を対象として正定聚に 導く。三毒段五悪段は未造の罪の深さを説くのである。(11−291頁) 「曾我量深選集 11」295頁  南無阿弥陀仏によって現在の分限を知らして戴く。これが現生正定聚である。  今の世には種々雑多の宗教が出て現世利益を説くが、なかなか積極主義である。聖道門 も本来積極主義である。  曇鸞は難行道と言った。難行道とは正しい道か間違った道か見分けることが困難だから である。色々解釈する人もあるだろうが、自分の信仰が正しいか、自分の歩みが間違いか 見分けのつかぬ人生は難行道である。  易行道とは自分の道が仏になるに間違いないという一筋道と頂いているからである。  難行道がなかなか難しいのは、自分の菩提心の判定に困るからである。  南無阿弥陀仏を頂くと無上涅槃は向うから開けて来る。これを現生不退という。  難易二道はこのように解釈された。これについて五ケ条の項目を曇鸞があげたことは昨 日も述べたが、その第一は「外道の相善、菩薩の法を乱る」とある。曇鸞は天親の『浄土 論』を解釈するに当って、龍樹の難易二道について御自身の了解を述べている。即ち曇鸞 が自ら第十一願の成就についての了解を『論註』の最初に示されたと考えると間違いない。 二つの世界の頂点に立って難易二道を判定したのであろう。