『正信偈』七 資料 必至滅度願成就 「曾我量深講義集 3」82頁  必至滅度という、一切衆生をして、一切衆生悉有仏性、一切の衆生は悉く仏の性を有つ ということ、どんな悪人でも仏性を有つということを、――南無阿弥陀仏に於て本願が成 就する。南無阿弥陀仏は本願成就の象徴である。 「曾我量深講義集 6」108頁  昨年からお話しているのは、本願の分水嶺ということである。阿弥陀の本願のなかに分 水嶺がある。南無阿弥陀仏には分水嶺がある。これを本願に求めると第十一願である。真 実証の願である。  十一願のところに二つの世界の分水嶺がある。娑婆と極楽との岐れ目、二つが独立して 岐れる二つの世界の元がはっきりする。それによって親鸞は真実の証を教えた。真実の信 にはそれに先立って証がある。証によって信を立てる。これを真実信という。  それをだんだん押して行くと始めてこの阿弥陀の本願によって浄土もこの本願によって 成立ち、娑婆もこの本願によって成立つ。阿弥陀の本願によって一方は娑婆世界、一方は 極楽世界が成立つ。  阿弥陀仏は浄土だけに居って、この世は我々が勝手に生きておるのだと思っている人が 多いし、又そのように説教する人が多いようである。先ず以て明らかにせねばならぬこと は、この人間世界が阿弥陀の本願によって出来上っているということである。この世界は 本願によってのみある。  信心決定の人は本願のなかにあるのであろうが信心決定せぬ人は外にあるのであろうと いうが、内といって単に内ではない、外といって単に外にあるのではない。外といえど矢 張り内にある。このことは四十八願のなかの第十一願を読むと分る。  「設ひ我仏を得んに、国中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」。 我々は国中人天という訳ではないが国中人天でないと一概に言う訳にゆかぬ。我々は十方 衆生であって国中人天とすぐ言う訳にゆかぬが、押して行くと矢張り国中人天のなかに入 る。一応は国中人天という訳にはゆかぬが、国外人天であるが、我々はこの娑婆世界に生 きておるうちは国外人天であってこの命が終ると国中になるのであろうと言うが、しかし 一概にそう言う訳にはゆかぬ。国外人天も又国中人天であることを知らねばならぬ。 『曽我量深講義集 2』100頁  「往き易くして人無し」、本願によつて浄土に生れることは真実間違ひないから、往き 易いのである。仏の本願を信ずれば仏の本願の中に如来の浄土が成就してをるのだ。本願 の名号を信ずれば、本願成就の故にそこにはや大般涅槃が成就してをるのである。我々は 南無阿弥陀仏を念ずればそこに本願は既に成就してをる。「本願名号正定業」である。南 無阿弥陀仏を念ずるところにはや本願は成就してをるといふことは、「本願名号正定業」、 南無阿弥陀仏を念ずればそこに至心信楽の願が成就して、そこに不可思議の本願が感得出 来る。  南無阿弥陀仏を念ずれば、そこにはや必至滅度の願が成就する。南無阿弥陀仏の上に必 至滅度の願が成就する。  我々は現に涅槃にをるわけでないけれど、必至滅度の願が成就してをるから、南無阿弥 陀仏に大般涅槃道があるが故に、南無阿弥陀仏を念ずるところに一切が成就するわけであ る。 『曽我量深講義集 3』52頁  信心の智慧というのは必至滅度、大般涅槃ということ、そこに御開山聖人が阿弥陀仏の 御本願の広大無辺の世界というものを、そこに眼を開いて『大無量寿経』を御覧になった。 この御本願ということの根源を真実証、つまり大般涅槃というところに深く眼を開いて『 大無量寿経』を御覧になった、と言うことが出来るわけであります。 『曽我量深講義集 3』199頁  往生浄土の教へだから人間世界を捨てて十万億土へ往生するのでなければ浄土門の教は 方便ではないかといふが、それは我々の問題ではなく凡ては仏の本願の中にある。本願の 中に成就されてあつて我々が現在の事実として頂くことは現生に正定聚であり等正覚であ る。現生に於て若不生者の故に正定聚に必至滅度が成立してゐる。  ただ滅度といはずに必至滅度といふ。正定聚は正定聚として止まつてゐるのではなくて、 正定聚に住するといふ現在の様をおさへて正定聚といふ。ところが正定聚の所に早や如来 の大願があることを、我々は正定聚に安住してゐるのであるが、正定聚に早や必至滅度の 願が成就し、必至滅度の願が成就するから正定聚に住するのであると御開山聖人は領解さ れたのである。・・・  御開山は行から信を信から証を開いて十一願を必至滅度の願と領解されたことは、事実 に於て人間世界を捨てて如来の世界に移転することではなく、結局南無阿弥陀仏には往生 浄土の意義をもつものであることを明らかにされたのである。  だから仏の大悲大願を念ずる時は往生浄土は利己主義のものであるならば浄土に止まつ て永く人間世界に還らない。化土往生ならば人間世界に還つて衆生を利益することはない。 故に辺地懈慢に止まる人は三宝見聞することがないから有情利益はない。  浄土に往生することは無上涅槃を得ることである。現生正定聚を得ることは、そこに必 然と滅度が成就されてゐる。故にまだ浄土に往かない人間であつて既に必至滅度が約束さ れてゐる。必至滅度の信楽が成就されてある訳である。故に単なる未来はない。永遠に現 在の連結に外ならない。現在が真実に連続してゐるならば往つたり来たりするものではな く、そこに浄土に往生する意義があり、いつまでたつても現生正定聚だけは間違ひない意 義である。 『曽我量深講義集 6』148頁  各自各自が与えられたところに安住する有限の世界が成立たねばならぬ。真実は絶対無 限だけで有限はただ迷いというと、世間の人は感心して千人が千人ながら迷わされる。有 限の世界が大切である。この有限がどうして有限として成立つか。我等は念仏の法によっ て相対有限に満足せしめられる。これを今日現在という。これを南無阿弥陀仏という。南 無阿弥陀仏は今日現在の象徴である。  南無阿弥陀仏は我々に有限を教ゆる。無限によって有限が始めて成立つ。有限が与えら れて無限が具体化する。これを必至滅度という。  有限なしにただ無限などというと迷う。無限の生命力だの同一性の生命などというと今 の人はすぐに感心する。全く賢愚を問わず、有学無学を問わず忽ち感心してしまう。困っ たものである。  真実に有限相対がはっきリ分って各自各自の分限がはっきりする。分限は無限から与え られたものである。「絶対無限の賦与するところ」と清沢先生は言われる。これは絶対無 限の廻向したまうところという意味である。親は何処までも親の分限、子は何処までも子 の分限を知る。各自が分限というものを守るのである。  このような根拠から、『大無量寿経』における証、すなわち現生正定聚が成立する。か くて現生に未来の滅度を必至する智慧と力とを獲得し、未来に証得すべき滅度涅槃という ことを現在の信の一念のところで認得し、随ってこの必至滅度は単なる未来ではなくて、 現在の中に包まれている。現在の中に孕まれている。現在の信の一念の中にかがやいてい る。それは当来必至の滅度である。必ず滅度に至る。  現在に正定聚に住するが故に、必ず滅度に至ると、曇鸞は現生の正定聚と未来の滅度と の必然的関係を故の一字を以て示している。だから滅度というものはもはや正定聚の中に 内在し、正定聚の動く方向に滅度があるのである。かく正定聚が滅度を包んでいるのであ る。つまり正定聚に住するが故にと、故という一字を曇鸞が加えて、彼は天親の『浄土論』 を註釈した。註釈といっても、それはもとの経典に基づいて、世親菩薩の『浄土論』の奥 を極めたものである。それは新たなる展開と言ってよい。 「正信念仏偈科文意得」「相伝義書 3」230頁  「念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。故に 便同というなり」文。  「大士」は因位ゆえに遅(五十六億七千万)なり。念仏衆生はかたじけなくも、果上横 超のゆえに速(このたび)なり。証果を得るには遅速ありとも、一念金剛信心の因種を獲 て無上妙果を得るにかわりなければ、大士に等しめ「便同」と言えり。  臨終一念とあれば必ず命終と思えり。今は迷のおわり、自力の尽きるところを指してこ そ「臨終一念」と言えり。一期報命のときにあらず、一念の言を以て其の意を伺い知るべ し云々。  平生臨終ともに宿善の遅速にあるべし。即ち、十九・二十の宿縁のものは、命終一念の 夕にあるべし。亦、十八・念仏往生の宿縁の人は、平生業成、帰命の一念の底頭にあるべ し。皆、宿習業を同じくなすところ一概ならず。併ら、当流の一儀は十九・二十、臨終諸 行往生の教にあらず、十八業事成弁、よくよくしるべし云々。