『正信偈』八 資料  如来所以興出世 唯説弥陀本願海  五濁悪時群生海 応信如来如実言 『尊号真像銘文』(真宗聖典 531頁)  「如来所以興出世」というは、諸仏の世にいでたまうゆえはともうすみのりなり。  「唯説弥陀本願海」ともうすは、諸仏の世にいでたまう本懐は、ひとえに弥陀の願海一 乗のみのりをとかんとなり。しかれば『大経』には「如来所以 興出於世 欲拯群萠 恵 以真実之利」とときたまえり。  「如来所以興出於世」は、「如来」ともうすは、諸仏ともうすなり。「所以」というは、 ゆえというみことなり。「興出於世」というは、世に仏いでたまうともうすみことなり。 「欲拯群萠」は、欲というは、おぼしめすとなり。拯は、すくわんとなり。群萠は、よろ ずの衆生をすくわんとおぼしめすとなり。仏の世にいでたまうゆえは、弥陀の御ちかいを ときてよろずの衆生をたすけすくわんとおぼしめすとしるべし。  「五濁悪時群生海 応信如来如実言」というは、五濁悪世のよろずの衆生、釈迦如来の みことをふかく信受すべしとなり。 『阿弥陀経』  釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩 濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために この一切世間難信の法を説きたまう。 『正信偈大意』(真宗聖典 751頁)  「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」というは、釈 尊出世の元意は、ただ弥陀の本願を説きましまさんがために世に出でたまえり。五濁悪世 界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといえるこころなり。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」    二顕如来興世三(一に如来の興世を顕すに三)    一明如来正説(一に如来の正説を明かす)    如来所以興出世 唯説弥陀本願海    (如来、世に興出したまう所以は ただ弥陀の本願海を説かんとなり)  科の「顕如来興世」とは、『銘文』に「与仏教相応といふは、この論のこころは、釈尊 の教勅、弥陀の誓願にあひかなへりとなり」、「明如来正説」とは『広本』に「まことに これ、如来興世の正説」と。「如来正説」とは釈迦の正説なり。  「如来所以興出世」の「所以」とは、故なり、縁起なり、性起なり、『大経』の阿難発 問をしるべし。「唯説弥陀本願海」の「説」とは、珠宏曰わく、「所懐暢悦」。妙楽云わ く「諸教の讃ずるところ多く弥陀に在り、故に西方を以って、しかも一準とす」文。  『讃』に、「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして 自然の浄 土をえぞしらぬ」、又、「聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身 とぞなる 悲願の一乗帰命せよ」等。『尊号真像銘文』に、「如来所以興出世といふは諸 仏のよにいでたまふゆへとまふすみことなり。唯説弥陀本願海といふは諸仏のよにいでた まふ御本懐は、ひとへに願海一乗の法をとかむとなり、しかれば『大経』には如来所以興 出於世、欲拯群萠恵以真実之利とときたまへり」。  「教巻」の序に、「しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、 この徳海にしくなし」文。  「化身土巻」に、「宗師の意によるに、心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり」 云々、「門はすなわち八万四千の仮門なり、余はすなわち本願一乗海なり。おおよそ一 代の教について」云々。八万四千の仮門は「信巻」に、「仮というは、すなわちこれ聖道 の諸機、浄土の定散の機なり」文。  「行巻」に、一乗海とは大乗なり。大乗は二乗三乗あることなし、二乗三乗は一乗に入 らしめんとなり。一乗とは即ち是れ第一義乗なり、唯、是れ誓願一仏乗なり。然るに教に ついて念仏諸善比較対論(四十八対)あり。然るに本願一乗海を案ずるに、円融満足極促 無碍、絶対不二の教なり。斯れすなわち誓願不可思議、一実真如海なり。『大無量寿経』 の宗致なり、他力真宗の正意なり。  『法華経』に「ただ一乗法のみありて、二なく、また三なし、仏の方便説を除く」文。 黒谷上の文を会して「ただ往生法のみありて、二なく、また三なし、仏の随縁説を除く」 文、浄経の本懐を開くなり。  天台云わく、「此妙彼妙名義無珠」といえり、両経の一乗に差別なし。若し差別せば輪 廻の業なり。謂わく、差別せずば悪平等いかん。答う、各々有縁の依経を守りて仏出大事 の因縁を得ば、真実の一乗なるべし。角(とかく)論なし云々。彼の『経』に、「ただ一 大事因縁を以っての故に世に出現したまう」文。是れも同じく、「唯説弥陀本願海」の真 実を応信せよというも、当経を本懐とする故なり。仏以一音なり。差別は機にあり。仏教 多門、八万四千、正為衆生機不同の故に云々。  私に案ずるに、八万四千は、随機の説、『大経』所説誓願海は、其の機は「行巻」に「 純一不二之機也」と、『愚禿鈔』に具にただ浄土の教相を明かす、三経の配あり。配とは、 三聚三経に配せり。『大論』(八十四)に曰わく、「須菩提問う。もし法なく衆生なく ば、いかん三聚の衆生あることを説かん。仏答えたもう。我、衆生を観ずるに、一聚は得 べからず。いかんが三あるや、ただ顛倒を破さんと欲するがために、故に分別して三あり。 よく顛倒を破する者を正定と名づくるなり、必ず顛倒を破すること能わざる者、これを邪 定というなり。因縁を得ればよく破す、得ざればすなわち破すること能わず、これを不定 と名づくるなり」已上。  『愚禿鈔』に、「ただ阿弥陀如来選択本願を除きて已外、大小・権実・顕密の諸教、み なこれ難行道、聖道門なり。〈已上、聖道の釈迦教、已下、浄土釈迦教なり〉また易行道、 浄土門の教、これを浄土廻向発願自力方便の仮門というなり。まさに知るべし」。又曰わ く、「本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満之教なれば、絶対不二の教、一実真如の道な り。まさに知るべし、専中の専、頓中の頓、真中の真、円中の円、一乗一実は大誓願海な り」と、又曰わく以下は本願伝説なり。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」    二勧所被機    五濁悪時群生海(五濁悪時の群生海は)  「海」は「行巻」に云わく、「よく愚癡海を竭〈かわ〉かして、よく願海に流入せしむ」 文。随いて一門を出ずるは、すなわち一煩悩の門を出ずるなり。随いて一門に入るは、す なわち一解脱智慧の門に入るなり。出愚癡門、入智恵門なり。この文、上の本願海、今の 群生海を待対して釈す云々。  『観念法門』に云わく、「釈迦出現して、五濁の凡夫を度んむがために、すなわち慈悲 を以って、十悪の因、果三塗の苦を報ゆることを開示し、また平等の智慧を以って、人天 廻して弥陀仏国に生ずることを悟入せしむ」文。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」    三令信本願一乗(三に本願一乗を信ぜしむ)    応信如来如実言 (如来如実の言〈みこと〉を信ずべし)  科の「令信本願一乗」とは、『広本』に一乗究竟極説と伝説す。  「応信」、この信相は次下の句にてしれ。『如来会』に言わく、「この故に博く諸智土 に聞きて まさに我教如実の言を信ずべし」と。『大経』には「如来、無蓋の大悲をもっ て三界を矜哀したまう。世に出興する所以は、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の 利をもってせんと欲してなり。無量億劫に値い難く、見たてまつり難きこと、霊瑞華の、 時ありて時にいまし出ずるがごとし」と。「矜哀三界」は、此の九字『銘文』になし。「 光闡道教」は此の四字『銘文』に略し給う云々。門余の門字の意なればなり。「無量億劫 難値難見、猶霊瑞華時時乃出」は、已下の十六字『銘文』になし。具に文意『大経講記』 第二の如し。  宗家の釈に「正教正義正智」等といい、又「仏語は真実決了の義なるによるが故に、仏 はこれ実知・実解・実見・実証にして、これ疑惑心の中の語にあらざるが故に」文。  『銘文』に、「五濁悪時群生海応信如来如実言といふは、よろづの衆生、如来のこのみ ことをふかく信受すべしとなり」。「化身土」に「聖道の諸教は在世・正法のためにして、 まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・ 正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したもうをや」文。 「曾我量深選集」第9巻 155頁  阿弥陀如来のご恩の高きことを、『大無量寿経』上下二巻の大綱をお述べになりまして、 そしてその次に、釈迦如来ご出世のご恩につきまして、詳しく述べてある。・・・  はじめには、釈迦如来出世のご本意を明らかにされる。  続いて、信心決定の人の尊き徳と幸福とをお示しになって、  そして最後に、邪見驕慢を誡めて、そうして廻心懺悔をおすすめになる。  それをもって、『大無量寿経』の大綱を終るわけでございます。  まずはじめに、「如来世に興出したまふ所以は、唯弥陀の本願海を説かんとなり」。こ れは、「教の巻」のところに、出世の大事、出世の一大事についての問題を提出して、そ れから『大無量寿経』の発起序の中のご文をご引用になってます。・・・  ここには「如来」とある。・・・阿弥陀如来が釈迦牟尼如来として、この五濁の世界に 応現なされた。それで、ここに如来とおおせられたのであろうと思われます。・・・   久遠実成阿弥陀仏     五濁の凡愚をあはれみて   釈迦牟尼仏としめしてぞ  迦耶城には応現する 「諸経和讃」  如来が五濁の世界に出興あそばされましたのは、どういうおぼしめしであるか。その出 世の正意は、どういうものであるかと、ここに問題をおこして、「唯弥陀の本願海を説か んとなり」。「唯説弥陀本願海」とお答えなされてある。  この「教の巻」を読みまするというと、『大無量寿経』の大意をお示しになるについて、 まずもって阿弥陀如来の本願の正意というものをお示しになっております。本願の正意は、 われら凡夫に功徳の宝を施すということ、これが弥陀発願の正意である。  それに対応して、釈迦如来が五濁の世に出興したまえるご本意というものは、これは「 恵むに真実の利を以てせん」がためであると、こうお示しになってある。  功徳の宝といい、真実の利と申しますのは、つまり南無阿弥陀仏の名号でございます。 お念仏といえば、われわれが称えるのでありましょうが、名号といえば如来のご本願に属 するものでございます。  釈尊は五濁悪世にご出現なされた。その五濁悪世の群生海は、まさしく釈尊の教えをい ただくべきものである。それ故に、「如来如実の言を信ずべし」。  ここに「如」の字が書いてありますね。如来の、如実の言を信ず応し。如来の如実の言 を信ずるということが、すなわち如実修行相応というものである。こう世親菩薩は教えて くだされてあるわけでございます。 『曽我量深講義集 1』99頁  そこで、象徴観、今『大経』の話をしてゐるが、阿難が世尊の威光を瞻仰し、大地に頭 をひれ伏して、世尊の威光を仰ぎ、自分の従兄だけれど、偉い方であるが、斯んなに尊い 方とは知らなかつた。それはどうか知らんが、『大経』を通して頂くと、阿難が宿善開発 して、傍にゐて給仕してゐる従兄の釈尊、今迄何とも思はなかつたが、本当に驚いた。そ の阿難の驚きを、「尊者阿難座ヨリタチ、世尊ノ威光ヲ瞻仰シ、生希有心トオドロカシ、 未曾見トゾアヤシミシ」、希れにあるといふことが有難いといふことである。未だ曾て見 しことあらず、毎日見てゐる釈尊を見たことがない。斯んな姿を仰いだことがない。今日 初めて世尊を仰いだ。今日初めて、人が世尊といふので、世尊というてゐるけれど、世尊 々々と給仕してゐたが、今日初めて、世尊の尊さを知つた。こんな喜びはない。これ、希 有の心を起した。希有とは珍らしい喜びである。生希有心、未曾有見といふ内容を五徳と いふ。「去来現の仏、仏と仏と相念じ給ふ。今の仏も諸仏を念じ給ふこと無きを得んや」、 出世の本意をあらはせり。我々と同じ様に、阿弥陀仏の本願を戴いた方が阿難である。開 山聖人は、阿難の心を感得なされたわけである。  そして開山聖人は、二十九歳で、法然上人の上に大聖世尊の徳を仰ぎ見られた。突然大 聖世尊の光顔巍々たる姿を、法然上人の上に仰がれた。開山聖人が法然上人の徳をたゝへ て、恰度、阿難が五徳現瑞の徳を讃へたと同じ様に讃へられた。これを大経和讃に述べら れた。御自身が「真ノ知識ニアフコトハ、カタキガナカニナヲカタシ・・・・・・」と、 尊者阿難が、世尊の五徳現瑞を讃嘆したと同じ驚きと喜びを以て、源空和讃を作られたの である。斯く了解してゐる。  慧義とは師弟一味の悟りであらう。慧見とは差別の世界であらうが、慧義とは大涅槃の 悟りである。阿難は五体投地して始めて世尊を見ることが出来た。真実反逆者の自覚、真 実罪悪深重と知れると山も河も浄土の光に輝くであらう。第三者が見るとき阿難も五徳現 瑞の相であるに違ひない。念ずる者も念ぜられる者も平等である。唯円が「しかるに仏か ねて知ろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は此の如きの我 等がためなりけりと知られていよいよたのもしく覚ゆるなり」と大悲を開顕したのは、全 く『大無量寿経』の正意と符節を合してゐる。唯円は長い間親鸞を一介の老比丘と思つて ゐたのであらうが、信の座を発見して始めて師匠の上に常住の仏を見た。仏は常に在れど 仏に遇ふことは「猶霊瑞華時時乃出」の難さである。  釈尊と阿難が一体であつて面も位において違ふやうに、親鸞と唯円は一味の安心に住し て然も位においては問ふ者と問はれる者との義を固く守つてゐる。これあるが故に阿弥陀 の四十八願は説かれたのである。して見ると『大無量寿経』全部はこの『歎異抄』第九条 にをさまると云つても良いのでなからうか。 『曽我量深講義集 3』27頁  つまり世尊が大寂定に入り給う時に阿難も亦世尊と等しく大寂定に入っておられる。も う一つ今この『大経』会座に連なって無量無数の聖衆、「かくの如きらの菩薩大士、称計 すべからず、一時に来会したまふ」という。無数の聖衆が世尊と等しく大寂定に入ると。 世界のあらゆる衆生は悉く世尊の威光によって等しく大寂定に入ったと。全世界悉く大寂 定に入ったと。こういうことでなかったのであろうかとこう私は思うのでありますが、こ こには他のことはまあ言う必要はないのでありますから、ただ世尊の尊いお姿を、五徳現 瑞の姿を拝んでいるのでありますが、恐らくは世尊の五徳現瑞を拝んだ阿難も亦世尊と等 しく五徳現瑞の姿の光を自ら感得して、深く自ら感得しておられたのである。  五徳現瑞は独り教主世尊のみに止まらないのではないか。少くともそこに耆闍崛山に集 まる一切大衆悉く一味平等に大寂三昧に入り五徳現瑞されたのであろうと、私はそのよう な光景を静かに念ずることが出来るように思うのであります。皆自己を超えてそういう光 景を世尊の上に見る、総てが大聖世尊の上に五徳現瑞を見出した。世尊のみを念じている のだから世尊の上に見出して来たということだけここに記されてあると思うのです。それ で阿難と世尊の問答というものが、そこに無量無数の聖衆が一言も聞き洩らさじと念じて いる、この光景が簡単なこの経典の文字の上に我々が感ずることが出来るようであります。   尊者阿難座よりたち   世尊の威光を瞻仰し   生希有心とおどろかし  未曾見とぞあやしみし  御開山聖人は法然上人に遇われる前に色々な大徳に会われた。阿難は始めから釈尊に会 った。御開山聖人は各宗の大徳を尋ねて法を求められたが、法然上人に於いて始めて如来 の徳を行ぜられる方に接せられた。その時の驚きと喜びとが『大経』に書いてある。御開 山聖人は目のあたり法然上人に遇われて『大経』と同じ光景に接せられた。御開山聖人は 法然上人に遇ったとき、如来世尊にお遇いし、『大経』の法を聴聞せられた。大経和讃を 読んで行くとそういうことになる。  大経和讃の始めと終りを合せて見ると、恐らくは御開山聖人が真の善知識を求めて遇う ことができなかったのを吉水の禅房で法然上人に遇われた喜び、つまり、   曠劫多生のあひだにも  出離の強縁しらざりき   本師源空いまさずば   このたびむなしくすぎなまし と『高僧和讃』に述べられている喜びは、阿難が『大経』の教えを受けた時の喜びと同じ 喜びである。そういうところから教巻に於いて釈尊出世の本懐が『大経』であると感得せ られた。法然上人は御開山聖人と遇われたとき出世本懐を感得せられた。法然上人の出世 本懐の御姿を始めて拝んだ人が御開山聖人である。 『曽我量深講義集 3』223頁  応身、化身の釈尊の上に真実身の万徳を顕現してゐられる。それを阿難は拝んだ。拝む 人なければ顕現の意義もない。阿難が本当に拝んだ時に釈尊が成仏された。弥陀と釈迦と は関係のないやうに見えるが、釈尊の上に阿弥陀如来を拝めるのである。『法華経』のや うに自分が久遠実成の仏だとは云はず、どこまでも自分を制限して阿弥陀如来の徳をたた へる。それを念ずるものがそれと等しい徳をいただく。『大経』で云へば阿難がまた仏仏 相念の徳を得てゐるといふことがあらはしてある。世尊の叫んだ言葉を通してこれが窺へ る。これを師弟同一の証りといふ。阿難は信の立場に立つてゐるのである。  世尊は現在の仏であり、阿難は未来の仏である。阿弥陀如来と云つても一人の人が証つ たのではない。一仏一仏が一切仏を象徴してゐる。これが仏の本願を念ずることによつて 証明されるのである。念仏は仏仏相念の道である。この世界を浄土たらしめ、十方衆生を 成仏せしめる。救はれた者がまた救ふ。これが『大経』である。ただ救はれただけでは観 念である。新しい世界を造る。さうでなければ往相還相の意義が全うされない。浄土門の 精神は従来の解釈だけではない。我々は新しい時代に於て浄土真宗の意義を開顕せねばな らない。本当の未来であれば本当の現在でなければならぬ。 『曽我量深講義集 6』68頁  人間の世界は仏道修行すべき尊い世界である。我等の世界は生死無常だから仏道修行に 適している、そこで釈尊があらわれて、何故このような世界を選んであらわれて下された かを『大無量寿経』の下巻に詳しく述べられている。  三世の諸仏は何れも相当なよい世界に出ておられる。然るに釈尊だけが生死無常の苦し みの多いこの世に出て我等と同じ身を受けて勤苦六年の修行をして仏になった、そして八 十年の生涯を御苦労下された。  仏は沢山あるが他の多くの仏のなさらぬことであった。『大無量寿経』の下巻を読むと 私は何を好んでこの世に出て来たかを述べている。上巻には阿弥陀の浄土の尊いことを述 べて、下巻になると、阿弥陀の本願はこのような生死無常、煩悩熾盛の我等をあわれんで 本願をおこされた、それを身を以て証明しようとして釈尊は三毒段・五悪段を開いて下さ れたのである。  この世界は仏法なくばおさまらぬ世界である。  仏法なしには助からぬ世界、そこで「この世界の一日一夜の善は阿弥陀の浄土での百歳 に勝る」と『大無量寿経』にも記されている。この世はよいことばかりしておると首を吊 らねばならぬので悪いこともせねばならぬという。  日本は目下酒と煙草で国を経営しているようなものである。罰金のようなものである。 酒を飲む人は国費の大部分を提供しているので肩に風を切って威張ればよいと言う。それ ばかりではない、富くじまで発行する。同じ銭でもくじに当った金は何でもない。汗を流 した金は十円でも尊い。「正直者は馬鹿を見る」というがその馬鹿を承知で正直なのは尊 い。「この世界で十日十夜善を修すれば他方の諸仏国土に於て善をなすこと千歳せんに勝 る」とも『大無量寿経』には説く。  この世界は生死無常で罪悪に満つる世であろう。そのこの世こそ阿弥陀の名号の弘まる ところである。この世こそ念仏は弘まる。その大きな使命をもって釈尊はこの世に出た。  「如来所以興出世、唯説弥陀本願海、五濁悪時群生海、応信如来如実言」。あれは何を 言うのであるか。釈尊がこの世にあらわれたのは弥陀の本願を説くためである。  八万四千の法門は「月待つ間の手ずさみ」である。釈尊はそのため難儀苦労をも祇わぬ。 十方無量の数限りない諸仏の浄土を捨ててほんとに感激を以てこの苦悩に満ちた世に生れ て来た。  そこに阿弥陀の本願を自ら行じ自ら教ゆる、これを如是作、如是説、如是教という。こ の五濁の世に出て念仏の尊いことを身を以て証明した。この世は阿弥陀の本願なくば一日 も半日も安心しておれぬ、この世界に阿弥陀の本願を頂くにはどのようにすればよいかを 釈尊はくわしく教えた。これ如是教である。この世は当てにならぬ世界であるからしっか りせねばならぬ。又できる訳である。人間は貧乏の時はしっかりするが金が出来ると油断 をする。釈尊はこんな世界は阿弥陀の本願なしには生きて行けぬと、この世にあらわれて 下された。この世が五濁悪世だから阿弥陀の本願によらねばならぬ。  そうでありながら始めから誰も信じない。これ人間の悲しい宿業である。他力の本願で なくば助からぬのがこの世だが、その本願を信ずる人は極めて少ない。そこで釈尊は八万 四千の法門を説いて、それでは助からぬことは分っているが方便して導くのである。その 釈尊の苦労というものは『大経』の下巻に明細に示されている。  このことを昔から誰も話さぬ。お経は読むが読む者も聞く者も分らぬ。生きている者に は分らぬが死んだ人問には分るだろうというが、生きている者が肝心である。  仏法を頂くため我等はこの世に出て来たのである。釈尊はこの世に仏法を説くため生れ て来たというのであれば、我々は仏法を聞くため生れて来たのである。  「こんな世界はさっさと捨てて極楽に参れ」と説くのは今日のことではない、徳川時代 からの説教である。未だに盛んに行われているがあれは親鸞や蓮如の教ではない。  この世は生死無常であるから一日もゆるがせにせずに仏道修行をせねばならぬ、法によ らねば一日も安心出来ぬぞと教ゆるのが親鸞や蓮如の教である。徳川までは仏法は正しく 説かれていたに違いない。 『曽我量深講義集 2』12頁  『大無量寿経』が大聖出世本懐の真実教であることを明らかにしたのは親鸞である。そ れは七高僧の伝統であるが、この経が仏教の本流であることを闡明したのは親鸞が四十八 願の中で第十一願に必至滅度を発見したためである。これは理念のことでなく身を以て実 践し証明したのである。仏教の立つ場所は一如であり、涅槃であつて、教理とか教義とか いふものでは決してない。しかも小乗仏教が涅槃に終りを告げるのに対して我が大乗仏教 は涅槃から出発するのである。涅槃から阿弥陀の本願は来生する。その意義を還相といふ。 還相といふことで阿弥陀の本願は最も深い意味を持つことになる。  『大無量寿経』の五徳現瑞のところには「今日世尊、住奇特法、今日世雄、住仏所住、 今日世眼、住導師行、今日世英、住最勝道、今日天尊、行如来徳」とある。その第二の「 住仏所住」とは何であらう。異訳の『大阿弥陀経』は始めの四住を大寂定といふ、面して この四住は第二の「住仏所住」にをさまるといふ。浄土和讃に「大寂定ニイリタマヒ、如 来ノ光顔タへニシテ、阿難ノ慧見ヲミソナハシ、問斯慧義トホメタマフ」とある所以であ る。大寂定は涅槃である。亦これを滅尽三味といふべきであらう。三昧のなかの最高の三 昧であらう。『教行信証』教巻には憬興師の『述文讃』を引いてこの第二の徳を四十八願 の第四十五願の普等三昧に相当するといふ。『大無量寿経』の会座では教へる世尊も教を 受ける大衆も一味平等のさとりを得たと示してゐるのである。「尊者阿難座ヨリタチ、世 尊ノ威光ヲ瞻仰シ、生希有心トオドロカシ、未曾見トゾアヤシミシ」。これは仏々相念の 光景である。言葉の上では弟子が師匠に向つて問ひ、世尊は阿難に答へてゐるが、それは 単に因の位と果の位の差である。因と果とは一味一体のものである。因の位は信心。果の 位は涅槃。体は一つであるが義においては厳しく守らねばならぬ「位」である。  この事を『歎異抄』第九条に移して見ると「一、念仏申し候へども踊躍歓喜の心おろそ かに候こと、又いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬは如何にと候べきことにて候やらんと申 しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに唯円房おなじ心にてありけり」と、弟子 の方は分限を守つて最後の解決を師匠に求めると「親鸞もこの不審ありつる」といふ。勿 論言葉の上では「ありつる」と過去になつてゐるが、その師匠の悩みを越える、越えぬは 間髪を容れぬ差であつて、今も昔も一つである。阿難の問も唯単に世尊の徳を讃嘆してゐ るのみではないと思ふ。五徳現瑞の章を日本感情に翻訳すると『歎異抄』第九条になるの でなからうか。  親鸞の答は阿難に答へる釈尊のそれと全く同じである。釈尊の出世本懐とは何であらう か、結局時節到来して救はれたといふことであらう。「よくよく案じ見れば天に踊り地に 躍るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思ひたまふべきなり。喜ぶ べき心を抑へて喜ばせざるは煩悩の所為なり」といふ内面に親鸞は出世本懐を感得したの であらう。唯円の問を以て時機純熟を感得したのであらう。阿弥陀如来が既に救はれて救 ひの道を求めてゐるのであらう。救はれて一段下つて救ひの道を求めてゐるのであらう。 そこに問ふ者と問はれる者の位は厳粛に区別される訳であらうが、悟りにおいては全く一 つである。阿弥陀仏とは釈尊の悟りの内容である。釈尊の悟りの内容は結局我々の悟りの 内容に外ならぬ。悟りの果から見るとき、それは自覚道である。従果向因して信の位に立 てば阿弥陀如来を感得する。阿難は長い間行の位に居たため釈尊の五徳を拝見することが 出来なかつた。信の座を発見して始めて光寿二無量の師匠を見ることが出来た。釈尊は既 に長い間悟りの位に居られる訳であらうが『大無量寿経』の会座では阿難に共感して全く 阿弥陀の中に身を投げて『大無量寿経』を説かれたのである。釈尊と阿弥陀仏とは全く二 人であつて一人になつてゐる。『法華経』では久遠実成本門開顕といふ。これ、証の立場 に立つ所以である。『大無量寿経』は証から信へ下つて証を包んで信の座で阿難が尋ねて ゐる。教主世尊は「善哉阿難――問斯慧義」と賞めてゐる。  慧義とは師弟一味の悟りであらう。慧見とは差別の世界であらうが、慧義とは大涅槃の 悟りである。阿難は五体投地して始めて世尊を見ることが出来た。真実反逆者の自覚、真 実罪悪深重と知れると山も河も浄土の光に輝くであらう。第三者が見るとき阿難も五徳現 瑞の相であるに違ひない。念ずる者も念ぜられる者も平等である。唯円が「しかるに仏か ねて知ろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は此の如きの我 等がためなりけりと知られていよいよたのもしく覚ゆるなり」と大悲を開顕したのは、全 く『大無量寿経』の正意と符節を合してゐる。唯円は長い間親鸞を一介の老比丘と思つて ゐたのであらうが、信の座を発見して始めて師匠の上に常住の仏を見た。仏は常に在れど 仏に遇ふことは「猶霊瑞華時時乃出」の難さである。  釈尊と阿難が一体であつて面も位において違ふやうに、親鸞と唯円は一味の安心に住し て然も位においては問ふ者と問はれる者との義を固く守つてゐる。これあるが故に阿弥陀 の四十八願は説かれたのである。して見ると『大無量寿経』全部はこの『歎異抄』第九条 にをさまると云つても良いのでなからうか。 『曽我量深講義集 3』26頁  「今日」「今日」と書いてある。今日というのは、未だ曾て拝んだことのない仏様、今 日生れて始めて本当の仏に遇った、仏仏相念して始めて仏あり。仏は仏を念ずるところに、 そこに仏まします。仏を念ずるところの人、その方が仏である。つまり誰でも仏を念じた 時にその人は仏であるということが仏仏相念という意義であろうと思います。だから念ず る仏と念ぜられる仏とは真実に二人であって又本当に一人であると言うことが出来るわけ であろうと思います。かくの如くして、この阿弥陀如来と釈尊が互に相念ずると。この釈 迦は弥陀を念じ、弥陀は釈迦を念ずる、つまりよく念ずる者とよく念ぜられる者が一つで ある、平等である。つまりそれは釈尊が自覚の内容をそこに開顕して、それがつまり『大 無量寿経』の仏願の生起本末というのでありましょう。それが即ち自分の自実、釈尊自身 のお姿であり、又本当に釈尊自身を超えて釈迦自身の本当の姿、単に釈迦の姿であるとい うのでなく、釈迦を超えて、自己を超えて、自己を否定して、本当の釈尊の真実のお姿を 開顕なされた。それがつまり『大無量寿経』の阿弥陀仏のお姿である。こういうふうに了 解することが出来る。今、五徳現瑞の御文を読んでみる、  是に於て、世尊、阿難に告げて曰はく、云何ぞ阿難、諸天の汝を教へて、仏に来り問は しむるや、自ら慧見を以て威顔を問へるや。阿難、仏に白さく、諸天の来りて我を教ふる 者あることなし、自ら所見を以て、斯の義を問ひたてまつるのみ。 とあります。つまり世尊が大寂定に入り給う時に阿難も亦世尊と等しく大寂定に入ってお られる。もう一つ今この『大経』会座に連なって無量無数の聖衆、「かくの如きらの菩薩 大士、称計すべからず、一時に来会したまふ」という。無数の聖衆が世尊と等しく大寂定 に入ると。世界のあらゆる衆生は悉く世尊の威光によって等しく大寂定に入ったと。全世 界悉く大寂定に入ったと。こういうことでなかったのであろうかとこう私は思うのであり ますが、ここには他のことはまあ言う必要はないのでありますから、ただ世尊の尊いお姿 を、五徳現瑞の姿を拝んでいるのでありますが、恐らくは世尊の五徳現瑞を拝んだ阿難も 亦世尊と等しく五徳現瑞の姿の光を自ら感得して、深く自ら感得しておられたのである。  五徳現瑞は独り教主世尊のみに止まらないのではないか。少くともそこに耆闍崛山に集 まる一切大衆悉く一味平等に大寂三昧に入り五徳現瑞されたのであろうと、私はそのよう な光景を静かに念ずることが出来るように思うのであります。皆自己を超えてそういう光 景を世尊の上に見る、総てが大聖世尊の上に五徳現瑞を見出した。世尊のみを念じている のだから世尊の上に見出して来たということだけここに記されてあると思うのです。それ で阿難と世尊の問答というものが、そこに無量無数の聖衆が一言も聞き洩らさじと念じて いる、この光景が簡単なこの経典の文字の上に我々が感ずることが出来るようであります。  応身、化身の釈尊の上に真実身の万徳を顕現してゐられる。それを阿難は拝んだ。拝む 人なければ顕現の意義もない。阿難が本当に拝んだ時に釈尊が成仏された。弥陀と釈迦と は関係のないやうに見えるが、釈尊の上に阿弥陀如来を拝めるのである。『法華経』のや うに自分が久遠実成の仏だとは云はず、どこまでも自分を制限して阿弥陀如来の徳をたた へる。それを念ずるものがそれと等しい徳をいただく。『大経』で云へば阿難がまた仏仏 相念の徳を得てゐるといふことがあらはしてある。世尊の叫んだ言葉を通してこれが窺へ る。これを師弟同一の証りといふ。阿難は信の立場に立つてゐるのである。  世尊は現在の仏であり、阿難は未来の仏である。阿弥陀如来と云つても一人の人が証つ たのではない。一仏一仏が一切仏を象徴してゐる。これが仏の本願を念ずることによつて 証明されるのである。念仏は仏仏相念の道である。この世界を浄土たらしめ、十方衆生を 成仏せしめる。救はれた者がまた救ふ。これが『大経』である。ただ救はれただけでは観 念である。新しい世界を造る。さうでなければ往相還相の意義が全うされない。浄土門の 精神は従来の解釈だけではない。我々は新しい時代に於て浄土真宗の意義を開顕せねばな らない。本当の未来であれば本当の現在でなければならぬ。  『如来会』に於て阿難が仏の光によつて仏を拝んだといひ、阿難が問ひを起したことが 重大であると、宗祖はこの『如来会』の一文を引いてその先覚者の徳を讃へて居られる。 如是之義は阿難の問ひの承認である。  五徳現瑞は釈尊が自己を超えて事実を以て如来の本願を説明されたものであり、応身と 報身と一つになつてゐることを示されるものである。