『正信偈』九 資料 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 一念 「信巻」  それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕 し、広大難思の慶心を彰すなり。 「信巻」  「一念」というは、信心二心なきがゆえに一念という。これを一心と名づく。 「信巻」  しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなわちこれ専心なり。専心はすなわ ちこれ深心なり。深心はすなわちこれ深信なり。深信はすなわちこれ堅固深信なり。堅固 深信はすなわちこれ決定心なり。決定心はすなわちこれ無上上心なり。無上上心はすなわ ちこれ真心なり。真心はすなわちこれ相続心なり。相続心はすなわちこれ淳心なり。淳心 はすなわちこれ憶念なり。憶念はすなわちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなわちこ れ大慶喜心なり。大慶喜心はすなわちこれ真実信心なり。真実信心はすなわちこれ金剛心 なり。金剛心はすなわちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなわちこれ度衆生心なり。度衆 生心はすなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大 菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。この心すなわちこれ無量光明慧によりて 生ずるがゆえに。願海平等なるがゆえに発心等し。発心等しきがゆえに道等し。道等しき がゆえに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに。 「信の一念」『赤沼 教行信証講義 2』399頁  一念とは、信心をいただいて往生の定まる刹那の至極短い時間。  この短い時間の中に、如来回向の広大にして思いはかることのできない慶喜の心が躍っ ていることを顕すことば。  時間を超越した心的転化を一念と名づけた。この最短時の一念は、そのまま本願を信じ て二心なき心。 『浄土論註』 器世間  荘厳清浄功徳成就とは、偈に観彼世界相、勝過三界道と言へるが故なり。 此云何が不思議なる。凡夫人有りて煩悩成就するも亦彼の浄土に生ずることを得れば、三 界の繋業、畢竟じて牽かず。則ち是煩悩を断ぜずして涅槃分を得。焉んぞ思議すべきや。 『尊号真像銘文』(真宗聖典 531頁)  「能発一念喜愛心」といふは、「能」はよくといふ、「発」はおこすといふ、ひらくと いふ、「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生ると しるべし。慶喜といふは信をえてのちよろこぶこころをいふなり。  「不断煩悩得涅槃」といふは、「不断煩悩」は煩悩をたちすてずしてといふ、「得涅槃」 と申すは、無上大涅槃をさとるをうるとしるべし。  「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提みな回心して真実 信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。 これを「如衆水入海一味」といふなり。 『正信偈大意』(真宗聖典 751頁)  「能発一念喜愛心」といふは、一念歓喜の信心のことなり。  「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれ ども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。  「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といふは、凡夫も聖人も五逆も謗法も、斉しく本 願の大智海に回入すれば、もろもろの水の海に入りて一味なるがごとしといへるこころな り。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     三顕信心徳益勧中二(三に信心の徳益を顕して勧むる中に二)     一正明四 一即生直入益四 一往相廻向益     能発一念喜愛心 (よく一念喜愛心を発せば)  能発一念喜愛心 (よく一念喜愛心を発せば)  科の「信心の徳益を顕して」とは、順に他力利益を顕わすなり。  「喜」は歓喜、「愛」は愛楽なり。  無上信心金剛真心を発起するなり。如来廻向の信楽なり。  『讃』「往相の廻向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生 死すなはち涅槃なり」  『如来会』「もし彼の仏の名を聞くことありて、よく一念喜愛の心を生ぜば、まさに上 のごとき所説の功徳を獲べし」又は「能発一念浄信」  『銘文』「能発一念喜愛心といふは、一念慶喜の真実信よく発すれば、かならず本願の 実報土にむまるとしるべし。不断煩悩得涅槃といふは、煩悩具足せるわれら無上大涅槃に いたるなりとしるべし」文。  私に云わく、煩悩菩提生死涅槃、対法を示して開示悟入せしむるは、伝教の上にあり。  今、本願の行信証を能発する一念の上は、喜慶の相(よそおい)こそあれ  断除すべきことは一塵もなくて得涅槃なるが宗旨の骨目なり、故に「不断」等という。  本願の大道、本願名号等の四句の意を得て今をしるべし明らかなり。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     二仏智相応徳     不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得)  科「仏智相応徳」  即〈煩悩即涅槃〉というとも難なし。「煩悩」は生死の因なり。「涅槃」は菩提の果な り。...  『論註』「凡夫人の煩悩成就せるありて、また彼の浄土に生ずることを得れば、三界の 繋業、畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いずくんぞ思議すべ きや」。  先徳「凡夫不成の迷情に令諸衆生の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、願入 弥陀界の往生の正業成ずるときを、能発一念喜愛心とも、不断煩悩得涅槃」ともいうなり。 満入は所入なり、願入は能入なり。  文章「されば無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をも て消滅するいはれあるがゆへに、正定聚不退のくらゐに住すとなり。これによりて煩悩を 断ぜずして涅槃をうといへるはこのこころなり。此義は、当流一途の所談なるものなり」 文。  私に次第三意あり。  一には法体に約す。『讃』に、「本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩菩提体無 二と すみやかにとくさとらしむ」。  二には他力廻向に約す。『讃』に、「往相の廻向ととくことは 弥陀の方便ときいたり  悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり」。  三には理体に約す。『讃』に、「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こ ほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」。  『智論』「もし人、般若を見れば、これすなわち縛せらるるとなす、もし人、般若を見 ざれば、これまた縛せらるるとなす、もし人、般若を見ればこれすなわち解脱となす、も し人、般若を見ざればこれすなわち解脱となす」「もし必ず泥、を以って貴しとなしてこ れを取らんと欲すれば、縛せらるるなり」、猶如昨夢の文意にてしるべし。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     三衆機通入益     凡聖逆謗斉廻入(凡聖逆謗斉しく廻入すれば)  「斉」は五乗斉入なり。  先徳「弥陀大悲のむねの中」我入なり。「我等迷倒の心底入満法界身の仏の功徳」入我  『文類』「惑染・逆悪斉しくみな生じ 謗法・闡提廻すればみな往く」斉入・所入  「信巻」「如来の至心を以って、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまえり。 すなわちこれ利他の真心を彰す」廻入、能入なり。  「凡」は生死に於いて、迷惑流転して、正道を住せず、故に凡夫と名づく。  「聖」は正なり。無漏の真理を証する者なり。聖者は、十地菩薩なり。  「逆」は違逆なり。  「謗」は誹謗なり。  『論註』「衆生は[キョウ]慢を以っての故に、正法を誹謗し、賢聖を毀呰し」等。  『銘文』「凡聖逆謗斉廻入といふは、小聖・凡夫・五逆謗法・無戒・闡提みな廻心して 真実信心海に帰入しぬれば、衆水海にいりてひとつあぢはひとなるがごとしとなり、これ を如衆水入海一味といふなり」文。  「信巻」の終わりに具に仰止の文を釈する下に、鸞師導師の釈に譲り同じたまうなり云 々。  「斉」は斉等なり。「廻」は返なり、転なり、釈に廻心皆往と。「入」は悟入なり。  『歎異抄』「一向専修のひとにをいては、廻心といふことただひとたびあるべし」文。 懺悔・改悔は念々にあるべし。随犯随懺これなり。導師に、「念念称名常懺悔」文。『銘 文』には、「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するに なるとまふすなり」。「玄義分」に、「正しく仏願に託するに由って以って強縁となりて、 五乗をして斉しく入らしむることを致す」 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     四喩     如衆水入海一味(もろもろの水に海に入りて一味なるが如し)  『論註』に、「海の性の一味にして、衆流入れば必ず一味と為りて海の味わい、彼に随 いて改まらざるがごとし」文。  「行巻」に、「海というは、久遠よりこのかた<已下の十字は、定散自力の失なり>凡 聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、<已下の十字は聖道自証の自力の失なり>逆謗闡提恒 沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごと きに喩うるなり」文。讃文にも処々に云々。  文談了りて『歎異抄』十三段の下、「故聖人のおおせには、卯毛羊毛のさきにいるちり ばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」と云々。文を引き自分 の慚謝をいうなり。 「不断煩悩得涅槃」    「曽我量深選集 9」157頁  蓮如上人は『御文』の五帖目の「信心護得」のところに、これをご引用になっておるの でありますが、これは現益として、正定聚の益として解釈しておいでになる。わたしは、 これは非常に有難いことだと思います。  信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南 無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆへに、南無と帰命する一念の処に発願廻向 のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に廻向しましますこころなり。  「発願廻向」というのはですね、「これすなはち弥陀如来の凡夫に廻向しましますここ ろなり」。発願廻向というのは、如来が凡夫に因位果上の一切のお徳を、南無阿弥陀仏と して――、われらが如来のお徳を念じます時に、阿弥陀はまた南無阿弥陀仏と、そのお徳 を廻向しましますのである。  これを『大経』には、「令諸衆生功徳成就」ととけり。されば無始已来つくりとつくる 悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもて、消滅するいはれあるがゆへに、正定 聚不退のくらゐに住すとなり。これによりて、「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるは、 このこころなり。    「曽我量深選集 9」160頁  2 煩悩を断ぜずして涅槃を得る  「能く一念喜愛の心を発す」信の一念  「信の巻」末巻のはじめ「一念とは、斯れ信楽開発の時剋の極促を顕はし、広大難思の 慶心を彰はす」「一念と言ふは、信心二心無きが故に一念と曰ふ」  「行の巻」行の一念  行の一念というのは、本願を聴聞して、そうして初めて南無阿弥陀仏と称えた、それを 行の一念という。  何か自分に問題があって悩んでおります時に、人から教えを受けて、そうしてはじめて 南無阿弥陀仏と称えたというようなことはたいていの人が記憶にあることだと思うのであ ります。  専修専念。一行を専らにする。余行に心を奪われないで、心を念仏に専らにする。  行の一念も、信の一念もそういうように、二通りの意味をもっているのであります。  信の一念、「能く一念喜愛の心を発する」、はじめて発した。  一念喜愛の信心を発起すれば、「煩悩を断ぜずして涅槃を得」  われらは一片の煩悩をも断じないけれども、すべて如来の本願の力をもって煩悩を断じ てくださる。もう信の一念に、煩悩を断ぜずして涅槃を得ると。  ここでいう涅槃というのは、心が平和であると。心が平和であるということは、わたく しどもは軽く感ずるわけであります。それをだんだんと押して行くと、証大涅槃というと ころまで押し進めて行くことができる。 『曽我量深選集 9』162頁  同一海味の徳  「凡聖逆謗斉しく回入すれば、衆水の海に入りて一味なるが如し」同一海味の徳   名号不思議の海水は   逆謗の屍骸もとどまらず   衆悪の万川帰しぬれば  功徳のうしほに一味なり   尽十方無碍光の     大悲大願の海水に   煩悩の衆流帰しぬれば  智慧のうしほに一味なり  凡聖逆謗なんていうのは、ほんとうはないのでしょう。これは、凡聖があるから、逆謗 もあるのでしょう。  阿弥陀如来の本願海は、「衆水の海に入りて一味なるが如し」。これは本願のすがた  娑婆世界において凡聖逆謗というのがある。   安楽声聞菩薩衆     人天智慧ほがらかに   身相荘厳みなおなじ   他方に順じて名をつらぬ  他方に順じて凡聖逆謗というものがある、これは聖道門の教えがこの通りである。  本願では十九の願の世界、釈迦如来さまのご教化なさる世界では、凡聖逆謗がある。  阿弥陀如来の本願の世界には、凡聖もなく逆謗もない。同一海味の世界である。  「凡聖逆謗斉しく――」。釈尊は、われら衆生を、あるいは励ましたり、あるいは、わ れらの廻心というものを勧めるために、凡聖逆謗というものをお立てなさる。けれども、 斉しく回入する  斉しく如来の智願海に回入すれば――、凡聖逆謗の衆水が本願海に入れば、同一海味の 徳を成ずるのである。  本願海に帰入すると、同一海味でありまして、現生正定聚の位に住するのである。 不断煩悩得涅槃 『曽我量深講義集 2』73頁  阿弥陀如来の本願に帰し奉つて、今生に信心をいただくときに、我々はこの世にあつて は阿弥陀仏の煩悩即菩提、生死即涅槃といふその道理、本願の不思議といふことを自ら会 得さしていただく、それは即ち現生正定聚の位に住する。絶対自由絶対平等、本当の意味 の平等、真実の自由を得るのである。  これは仏法不思議といふ。煩悩と菩提と二つあるなら仏法不思議でない。生死と涅槃と 二つあるなら仏法不思議でない。  仏法不思議といふのは、煩悩菩提不二である。  大般涅槃といふことは特に御開山聖人は『教行信証』証巻に、浄土にいつて大般涅槃の 証果を得るといふことをいうてある。  浄土にいつて楽をしたらよいでせう、涅槃などいらぬ、仏様にならんでよい、人間でよ いから楽にしてもらへばよい、さういふのが普通の人の願であらう。仏様になつたり、涅 槃に入つたり、さういふ面倒なことは止す。  超といふことになると、煩悩即菩提、生死即涅槃、飛んでゆくのだ、どうして飛んでゆ くのか。直ぐこの世界から浄土にゆくのである。  「煩悩菩提体無二とすみやかにとくさとらしむ」。煩悩菩提一味なり。生死即涅槃なり。   往相の廻向ととくことは  弥陀の方便ときいたり   悲願の信行えしむれば   生死すなはち涅槃なり   本願円頓一乗は      逆悪摂すと信知して   煩悩菩提体無二と     すみやかにとくさとらしむ  「仏法不思議といふことは、煩悩即ち菩提なり、生死即ち涅槃なり」  超出。「出」迷と悟と別々に考へてゆくのが出の世界である。迷と悟と始めから別もの に考へるのは出の世界である。煩悩を断じて悟を得る、煩悩を打破つて菩提を得る、生死 を捨ててそして涅槃に入る、かういふやうに考へるのを出といふ。超出の出は漸  迷悟一如といふときは超の世界である。煩悩即菩提、生死即涅槃、これは超の世界であ る。超は頓  従因向果、従果向因、  因から果に向ふ道が竪、  果から因にかへる道、果を全うして因にかへる道。  因から果に向ふといふのは先がわからぬ、一歩一歩、一々足を踏みしめて間違はぬやう にゆく。  果から因にゆくのは、帰るのであるから先の先までわかつてをる。だからまことにはつ きりしてをる。  これは自分で一遍いつてみればわかる。因から果に向ふのはまだいつたことのない人間 がゆくのだから自力の道である。  果から因に向つてゆくのは他力の道である。出発の第一歩からちやんと到着点がはつき りしてをる。だから一足一足がお浄土である。一足歩けばお浄土である。歩かうとした時 にお浄土である。歩いてからお浄土にゆくのでない。一足踏み出すときお浄土である。 『曽我量深講義集 4』79頁  無為自然と願力自然だけでなく、もう一つ業道自然といふものがある。  聖道門では、その業道自然に即してそこに無為自然の真実といふものがある、それは、 煩悩即菩提とか生死即涅槃とか、かういふ風に申すのでございます。つまり、理想を飾つ てをるのでなく、坐禅なり何なりして、それを一つ実践の上でやつて行かうといふのが聖 道門の道でございますが、これは一般の人ではなかなか容易に出来ないことであると思ひ ます。  ところが浄土真宗の方は、仏の願力によつて業道自然を超えて、さうして、無為自然に 精進さしていただくところに、そこにおのづから不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃 を得る)といふ境地にいたる。  蓮如上人『御文』、 されば、無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもな く、願力不思議をもて、消滅するいはれあるがゆへに、正定聚不退のくらゐに住すとなり 。これによりて、煩悩を断ぜずして、涅槃をうといへるはこのこころなり。  願力を信ずるところに、そこに自然といふものがある。  かういふのが浄土真宗の教へである。  「自然法爾章」  「自然といふは、自はおのづからといふ」とある。自然の自はおのづから。おのづから とは、いつとはなしにといふ意味。自分のはからひが及ばないこと。だから「行者のはか らひにあらず」、我々として予定したり予想したりすることは出来ない。予定、予想を超 越してをる。  然、「然といふはしからしむといふことばなり」。自然といふ時の然は、ただ「しかる」 といふことだけではなくて、「しからしめらるる」といふこと。  人間の計らひの及ばないものだといふことをあらはして、「しからしむ」。  ただ我々のはからひの及ばぬといふだけでなしに、更に一歩進んで「如来のちかひにて あるがゆへに」と、如来の御誓の力によつてしからしめたものである、さういふ風に我々 は如来の御はからひにはからはれるのである。  「法爾はこの御ちかひなりけるゆへに」であるからして、これは更に自然へ戻つて来る。 「をよす行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆへにしからしむといふなり」、人 間の自力の理智のはからひの全く絶えたるところを以て、「この法の徳のゆへに」、本願 の徳の力の故に、我々は煩悩を断ぜずして涅槃を得るので、我々が仏になるといふ仏法の 道といふものは、全く人間の智慧才覚、人間の計量といふものを超えた境地である、かう いふのでございます。  「すべてひとのはじめてはからはざるなり」、さうして、人間が無始の古より、もとよ り然らしめ給ふのであるから、今更はじめて自力のはからひ、さういふものを必要とせぬ のでございます。自力のはからひがはひつて来る余地がないのである。「このゆへに義な きを義とすとしるべしとなり」 『曽我量深講義集 4』212頁  『教行信証』総序、実業の凡夫を抑へて「斯れ乃ち権化の仁」。はじめから大権の聖者 があるのではない、実業の凡夫を仏法の歴史の正機として、仏法が起つて来た、韋提希は 仏法の外にあるのではなく、仏法そのものの歴史の内にあるがゆゑに、実業の凡夫さなが らにして大権の聖者。そこに不断煩悩得涅槃が明らかになつてくる。これが南無阿弥陀仏 の道理。  二種深信の問題はそこから出て来る。我々全体が実業の凡夫であるが、法の力を転じて 権化の仁であるといふところに救ひがある。  「故に知んぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」  即ち実業の悪凡夫を転じて権化の仁の徳を成ずるといふ、それが南無阿弥陀仏の道理。 南無するところに発願廻向の道理があるゆゑに、転悪成徳の正智と仰がれる 『曽我量深講義集 4』219頁  宿業は感応道交する、  本能は感ずるはたらき、もとより我々に既に与へられてゐるはたらきであります。  知るといふはたらきは生れてから後に知るのであつて、生れながらにして与へられてゐ るはたらき、それを動物的本能と卑しめて、知ることのみがよいことだと思つてゐるが、 それは我といふものである。  無我に帰れば「真智は無知なり、・・・・・・無知の故に能く知らざることなし」(『 論註』)といふはたらきが出て来る。  真智は感ずるところにあるのでありまして、我々のはからひを捨て感の本源に帰る。  知の無功を知つたときのおどろきは「真智は無知なり」であります。  しかして無知を自覚せしめた真智なるがゆゑに、無知は内面的には能く知らざることな しであります。かういふところに仏教の道といふものがあるのであります。  蓮如上人『御文』「それ八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。 たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」。  「八万の法蔵を知るといふとも」といふ知は単なる知の世界でありませう。  「たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世を知る」といふのは感の世界でありま す。  後世を感知するを以て智者とすと言はれる、  この感知に対して、人間の理知は盲知であり迷知といふものであります。  真智といふことは感知することであつて、この感ずるといふことに感覚と感情といふも のがあるのであります。  一般に純粋なるものは無我の智慧、仏の智慧といふ風に、仏の一切智とか或は平等性智、 平等のさとりを智と云ひますが、何か智といふと直に理知的のもののやうに考へられてゐ ますが、さうではなくして、純粋平等感情のところに諸法平等の真理、真空の道理、真空 を理とすれば妙有は事、があるのであります。  無分別の智慧といふことは、智慧といふよりもむしろ感情、純粋感情といふべきもので あらうと思はれます。  その感情が不純粋であるときに無明といふのでありまして、無明は不純粋感情でありま す。智慧が純粋感情であるに対して、無明は不純粋感情であります。不純とは何か、それ は感情の理知化であります。  純粋感情は一つの光、光明であります。即ち智慧の光明であります。仏は光明であると いふことは純粋感情であります。  それに対して無明は闇であります。明るい真空が見えなくて無人の空曠であつて、無明 の中にさまざまの妄念妄想を浮べて、無に対して実在実有、この実在実有は不純粋感情で あり、この不純なる感情によりて不純感覚を起しものを実有的に実体化するのであります。  感情が不純粋であるときに万有をみると不純粋感覚の世界があらはれる、不純粋の感覚 の世界においては凡てがみな我々の欲望の対象となるのである。不純感覚のもとには自我 感情が働いてそれが根本になつてゐる。だからして実体の世界観ではただ利害得失といふ ことでしかないのであります。たとひ利益を得たからといつても一時は満足するでありま せうが、直により以上の不満足を感ずる。他人が如何に親切にしてくれても、ものの外側 しか見えないから満足するといふことがない。自分のところに満足がないから更に迷ひが 深まつて行くだけであります 『曽我量深講義集 4』87頁  これは、仏様を南無阿弥陀仏と念ずるところに、ただ仏に帰依するだけでなく、浄土の 菩薩に帰依する。浄土の菩薩に帰依する時に、自分もまた浄土の菩薩の中に自分を見出す。 仲間入りをする。私共が南無阿弥陀仏と申すと、御聖教にはお浄土に蓮が一本咲くとしる されてあります。  一声一声が一本一本の蓮華になる。これはお経にこう書いてあるのであるが、とにかく 仏を念ずるとき我々もまた仏の光の中にあって、既に我等は光、大般涅槃の中におさめら れる。大般涅槃の中にあっても、大般涅槃を知らないのである。ものははじめを知ること が大切である。  聖道門は娑婆即寂光土というけれども、これは結果をはじめからおいて、観念している のであります。それでいつまでも、娑婆は娑婆、寂光土は寂光土のままでばらばらであり ます。これは聖道門の修行者の悩みに違いありません。御開山様も法然上人も共にここに 悩まれました。  ところが南無阿弥陀仏によって願往生の道が開かれた。これは本願によって、浄土のは じめを知らしてもらった。浄土のはじめを知らしてもらうと、その浄土に、はじめがない。 このはじめのない浄土に、はじめを知らしてもらう。これが阿弥陀の本願である。  信心獲得の御文に、「このゆへに、南無と帰命する一念のところに、発願廻向のこころ あるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に廻向しましますこころなり」とあります。  南無と帰命する一念に発願廻向がある。発願廻向が廻心懺悔であります。決定的な廻心 懺悔が行われている。「これすなはち弥陀如来の凡夫に廻向しましますこころなり」、こ れが本願であります。  発願廻向は弥陀の廻向である。これ本願の三信では欲生我国であります。廻心の中に欲 生我国がある。 『曽我量深講義集 14』30頁  仏法では不思議ということを申す。仏法の不思議は無礙、さわりがないということであ る。阿弥陀の誓願は地上の煩悩妄念に妨げられない。だから煩悩即菩提、生死即涅槃とい うことをわれわれは観念する必要はないのだが、事実として、    能く一念喜愛の心を発せば   煩悩を断ぜずして涅槃を得    凡聖逆謗斉しく廻入すれば   衆水の海に入りて一味なるが如し  これは「正信偈」の中においては一番の眼目ともいうべきお言葉であると思う。この不 断煩悩得涅槃ということが阿弥陀の弘誓である。   いつつの不思議をとくなかに  仏法不思議にしくぞなき   仏法不思議といふことは    弥陀の弘誓になづけたり こうある。弥陀の弘誓が何ゆえに仏法不思議であるかというならば、   弥陀の廻向成就して      往相還相ふたつなり   これらの廻向によりてこそ   心行ともにえしむなれ これは阿弥陀の本願を仏法不思議というゆえんであるということを明らかにしておる。 そして、   尽十方の無礙光は       無明のやみをてらしつつ   一念歓喜するひとを      かならず滅度にいたらしむ  煩悩具足の凡夫が一念歓喜すれば、必ず滅度に至らしめる。これがまた立ち返っていえ ば   本願円頓一乗は        逆悪摂すと信知して   煩悩菩提体無二と       すみやかにとくさとらしむ  しからば煩悩菩提体無二と悟るという、そのような悟りはどうしてそういうようになる かといえば、本願円頓一乗は、逆悪摂すと信知する。いよいよ助かるまじき逆悪、五悪十 悪のわれらが、如来の本願円頓一乗の不思議の法の力で摂取してくださる、こうわれらが 信知する。もうはや本願に助けられておるところのわれわれ自身を信ずる。 だから、自分が現に助けられておるという一つの事実を離れて本願を信ずるのではない。 自分自身を離れて本願を信ずるということはない。  親鸞一人がための本願だというのは、自分が本願に助けられておる自分であるというこ とを見出した喜びが自覚される。そういうものを明らかにするのが「唯除五逆誹謗正法」 である。それで御開山さまの『愚禿鈔』を読むと、「第一の深信は、決定して自身を深信 する・・・・・・第二の深信は、決定して乗彼願力を深信する」とある。決定して彼の願 力を信ずるというのではない。彼の願力に乗托することを信ずる。これは単に、決定して 阿弥陀如来の本願を信ずるということではない。決定して自分自身が、彼の願力に乗托す る。まさしく本願の船に自分は乗っておる。だから、本願というても自分自身を取り除い た本願ではなくて、本願に自分はまさしく救われておるということを信ずる。彼の願力に 乗せてもろうておるということを信ずるのが、第二の法の深信である。 『曽我量深講義集 14』33頁  人間の自力我慢というものは、どこまでもわれらの命のあらん限りつき添うている。そ れがいよいよ仏智不思議を信ずるというのは、如来の廻向である、ということを明らかに してくださる。だから、自力の力、人間の力では仏智不思議を信ずることはできない。如 来の廻向によって真実の信心を与えてくださる。その信心を成就せしめてくださるのは如 来の仏智不思議の御力によるものであるということを、われわれは特に御開山聖人におい て知ることができるのである。  本願を信ずるということはわれわれの自力の力ではない。蓮如上人の『御文』一帖目の 第四通を見ると、「わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由 来を存知するものなり」。われわれが弥陀の本願のおぼしめしを聴聞するということは「 宿善の開発による」のである。だから、われわれは宿善開発しなければ、おみのりという ものはなかなか聴聞することはできないのである。  宿善開発ということを一応心得た後は、その宿善開発などというところにひっかかって おらないで、さらに心を転じて、わが力にてはなかりけり、仏智他力の授けによりて、本 願の由来を存知するものなりと心得るが、すなわち平生業成なり、こうある。つまり私ど もはどこまでも自力の執念の深いものであって、いくらおみのりを聴聞しても、私どもに は自力のはからいが容易にとれない。そういうことについて私どもは、特に仏智不思議と いう一つのことを知らしてもらうことができるであろうと思う。  自力は弱いけれども、自力の執念というものは容易にとれない。そういうことがあるか ら、阿弥陀如来さまは特に第二十の願をお示しくださる。そして自力の罪の深いことを私 どもに教えてくださる。そしていよいよ信心を得るということは、その信心そのものが如 来の御廻向である。われらの自力をもって真実信心を起すということはできない。信心そ のものが如来の御力であるということをお示しくださる。それは絶対他力である。それゆ え、絶対他力というのは、何もかも仏さまがしてくださるのだというわけではないのであ って、特にわれわれが真実信心を得るということは容易ならんことだということを、自分 自身についてよく内観することが大切だということを教えてくださる。それを絶対他力と いう。  「絶対他力の大道」において清沢満之先生が、真実の信心を得ることは私においては容 易ならんことだ、といっておられる。それはすなわち『大無量寿経』に浄土は「往き易く して而も人なし」とある、そういうおぼしめしを身をもって体験しておられるのである。 『曽我量深講義集 15』148頁  私どもは煩悩即菩提ということは解らぬ。解らぬが、煩悩成就の凡夫が如来の本願を信 ずれば、如来の願力に乗じて浄土に往生して、無上涅槃のさとりを開く。阿弥陀の本願を 信じ助けられて、阿弥陀の浄土に往生することによって、生死即涅槃、煩悩即菩提という ことを本当にさとらしめられる。これ無上涅槃である。  これは自力で以て、煩悩を断じて菩提を得る、生死を離れて涅槃のさとりを得るという が、本当に生死即涅槃ということは南無阿弥陀仏をいただくという以外にはできぬ。ご開 山は聖道門にいて修行なされた。どうしても煩悩を断じなければならぬ。断ずるとは否定 するということ。煩悩生死を否定するということは、いくら我々が否定せんとしても裏切 られるもの、どんなに真剣になってもできない。  だから「能発一念喜愛心不断煩悩得涅槃」と、南無阿弥陀仏により一切を如来の本願の 船に乗せていただくことにより、我らは無上涅槃の浄土へ到着せしめていただく。弘誓の 船に乗って無上涅槃の岸に到着するのである。  無上涅槃というのは、我らが命終って突然無上涅槃の岸に行ったわけではない。初めか ら如来のおさとりの船に乗っているのである。初めから生死即涅槃、煩悩即菩提の本願の 船に乗っているのである。だから到着点が無上涅槃のお浄土だというわけでない。出発点 からもう如来の本願に乗托しているのだから、初めから無上涅槃である。初めから無上涅 槃の如来のさとりから本願をおこして下された。到着点が無上涅槃の浄土であることのま ちがいないことは、本願そのものが無上涅槃、出発点が無上涅槃だからである。 『曽我量深先生講話集 1』122頁  ゛娑婆゛が゛寂光土゛に変わるのでしょう。娑婆が寂光土に変わるのであって、それは、 自覚というものがあって連続しておる。娑婆と寂光土とは連続しておる。連続しておるけ れども、これは独立しておる。娑婆は娑婆、寂光土は寂光土と――。娑婆は浄土ではあり ませんし、浄土は娑婆ではありません。娑婆は浄土であるということは出来ないし、浄土 は娑婆であるということは出来ない。煩悩は菩提であるということは出来ないし、菩提は 煩悩であるということは出来ない。  それはつまり、この煩悩と菩提とは、゛時間゛というものがあって、そうしてそこに転 換というものがある。そういうのでありましょう。それをつまり「不断煩悩得涅槃」とか 「煩悩即菩提」と、こう仰せられるのであります。  つまり、この゛信゛と゛証゛というものは連続しておるものです。証は死んでから先だ と、生きておるうちは信だと、そんなふうに言うけれども、そういうわけではないのであ って、生きておっても「証知せしむ」というのだから、何も、死んでからやっと証だと、 そんなことはないんですよ。  信と証というのは、いわゆる「前念」「後念」というのでしょう。やはり必然に、必然 に、ちゃんと触れておるのだ。触れておるのだけれども、信と証とが同じものだとこう混 乱するというと、大変な間違いになるだろうと思います。ここのところはたいへんにむず かしいところであって、そういうところに「二種深信」というものが大切なことになって おるのですよ。  よく「俺は早やたすかった」「たすかっておるということを自覚するのを信というのだ」 と、――そういうのは一概に悪いと言うことは出来ないかも知らんけれども、しかしそう いうことは、ちょっとしたことだけれども人を誤まるということがある、と私は思うので あります。だから、よく注意する必要がある。   本願円頓一乗は   逆悪摂すと信知して   煩悩菩提体無二と  すみやかにとくさとらしむ  何ごとも、するのは自然法爾であるというそういう御開山聖人の一つの心境というもの が常にあるのだから、だから「――である」「こう信ずる」ということを「――せしむ」 「信ぜしめて下さる」とお書きになっている。  「せしむ」とこうあるのは、御開山聖人の御心が常に仏の本願の中に、寝ても覚めても 仏の本願の中に自分が居るという謙虚な、慎しみ深い生活態度――聖人の身口意三業に通 じてそういうものを総括して、聖人の日暮らし全体、聖人の生活全体が聖人の信心である。 こういうことになって来ておるから、御開山様のお言葉は常に――「せしむ」「せしめら れておる」――こういうお言葉が自然に出て来る。 『曽我量深選集 11』66頁  凡夫人煩悩成就せる有りて亦彼の浄土に生ずることを得・・・・・・則ち是れ煩悩を断 ぜずして涅槃の分を得るなり、焉んぞ思議すべきや。  かう書いてある。凡夫と云ふ人間があつて煩悩を成就して居る、さうするとその煩悩成 就の侭で亦往生することが出来る。  煩悩成就して居るとそれは往生出来ないと多くの人は思つて居るからして、煩悩成就し て居る人間も亦往生することが出来る。  煩悩成就して居る者が往生することが出来る、不断煩悩得涅槃と云ふのはこの事ぢや。 これが不思議なものだ、焉んぞ思議すべけんや、かう曇鸞大師が仰しやつて居る。  煩悩成就出来る世界とは阿弥陀仏の国土であります。大概ここらの世の中では煩悩は成 就しない、煩悩と云はれると直に叩き壊してしまふ。  その煩悩が成就すると云ふのだから、煩悩が煩悩の侭で成就した、かう云ふのでありま せう。煩悩が成就すると云ふ国がなければ吾々は救はれない。吾々をして本当に安らかに 煩悩を成就することの出来る国が必要である。煩悩成就しないものだからいらいらとする、 煩悩成就したら何か知らぬけれども天下泰平でないか。  本当に仏に救はれたと云ふことは煩悩成就といふやうな境地に初めて成立するのでない か。  帰命と云ふことが大切な言葉であります。南無と云ふは帰命、帰命と云ふは本願招喚の 勅命、帰命とは、仏に帰せよ、かう仏が命じたまふのである。普通の読方をすれば帰命と 云ふは命に帰すると云ふことである。  帰せよと命ずるなり。それで帰命といふは本願招喚の勅命なり。 『論註』 五不思議の中に、仏法最も不可思議なり。仏能く声聞をして復無上道心を生ぜしむ。真に 不可思議の至りなり。  荘厳清浄功徳成就とは、偈に観彼世界相、勝過三界道と言へるが故なり。 此云何が不思議なる。凡夫人有りて煩悩成就するも亦彼の浄土に生ずることを得れば、三 界の繋業、畢竟じて牽かず。則ち是煩悩を断ぜずして涅槃分を得。焉んぞ思議すべきや。 いつゝの不思議をとくなかに  仏法不思議にしくぞなき  仏法不思議といふことは  弥陀の弘誓になづけたり 往相の廻向とゝくことは  弥陀の方便ときいたり  悲願の信行えしむれば  生死すなはち涅槃なり 罪障功徳の体となる  氷と水のごとくにて  氷多きに水多し  さわり多きに徳多し