『正信偈』十 資料  摂取心光常照護 已能雖破無明闇  貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天  譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇  獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣 『尊号真像銘文』(真宗聖典 532頁)  「摂取心光常照護」というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまも りたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきになりぬとしるべし となり。  「已能雖破無明闇」というは、このこころなり。信心をうればあかつきになるがごとし としるべし。  「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」というは、われらが貪愛瞋憎をくもきりにたとえ て、つねに信心の天におおえるなりとしるべし。  「譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、日月のくもきりにおおわるれども、や みはれて、くもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくもきりに信心はおおわる れども、往生にさわりあるべからずとしるべしとなり。  「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というな り。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。  「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしる べしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人は、ときをへず、日をへだてず して正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。 他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅 槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、 他力には義なきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおの おののはからうこころなり。このゆえに、おのおの*533のはからうこころをもったるほど をば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。 『正信偈大意』(真宗聖典 751頁)  「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲 霧 雲霧之下明無闇」というは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまうひかりは、つねに てらしたまいて、すでによく無明の闇を破すといえども、貪欲と瞋恚と、くもきりのごと くして、真実信心の天におおえること、日光のあきらかなるを、くもきりのおおうにより てかくすといえども、そのしたはあきらかなるがごとしといえり。  「獲信見敬大慶喜」というは、法をききてわすれず、おおきによろこぶひとを、釈尊は 「わがよき親友なり」(大経)とのたまえり。  「即横超絶五悪趣」というは、一念慶喜の心おこりぬれば、すなわちよこさまに地獄・ 餓鬼・畜生・修羅・人・天のきずなをきる、というこころなり。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」240頁     二心光照護益三      一正明     摂取心光常照護     (摂取の心光は常に照護す)  「心」は信心、天に喩え、「光」は日光に喩う。「照」は照益なり、「護」は護念なり。 『銘文』に、「摂取心光常照護といふは、無碍光仏の心光つねにてらし、まもりたまふゆ ヘに、無明のやみはれ、生死のながき夜すでにあかつきになりぬとしるべし」。『讃』の 左訓に、「摂取」とは、「ひとたびとりてながくすてぬなり、摂はもののにくるをおわえ とるなり、摂はおさめとる、取はむかヘとる」ともうすなり。  「護」とは愚禿鈔に云わく、「護の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不 捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり」文。導師の「摂生護念増上縁」の文を聖 人御釈具なり。往きてみよ。  『観念法門」に云わく、「ただ専ら阿弥陀仏を念ずる衆生ありて、彼の仏の心光常にこ の人を照らして、摂護して捨てたまはず」文。「彼仏心光」より「摂護不捨」まで『尊号 銘文』に御釈あり。「彼比の三業、あい捨離せず」等。『要集』に、「我また彼の摂取の 中にあれども、煩悩眼を障えて見たてまつること能わずといえども、大悲倦むことなくし て」等。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」241頁     二伏難     已能雖破無明闇     (すでによく無明の闇を破すといえども)  「已」は過去なり。「雖」は不定の語、縦奪の辞なり。「闇」は天台に一念癡心なり。 『銘文』に、「已能雖破無明闇といふはこのこころなり、信心をうればあかつきになりぬ としるべし」。『略本』に「必至無上浄信暁」等。  『口伝鈔』に云わく、「不断難思の日輪貪瞋の半腹に行度するとき、無明やうやくやみ はれて信心たちまちにあきらかなり。しかりといヘども、貪瞋の雲霧かりにおほふにより て炎王清浄等の日光あらはれず。これによりて煩悩障眼雖不能見とも釈し、已能雖破無明 闇とらのたまヘり」。『涅槃経』に曰わく、「一切衆生にことごとく一乗あり、無明覆う を以っての故に得て見ることあたわず」文、又説きて「仏乗」と。  『論註』に、「名を称し憶念することあれども、無明なお在して、所願を満たざる者、 何となれば、如実に修行せざると、名義と相応せざるに由るが故なり」文。無明は体なり。 貪愛・瞋憎に対す。無明無体全依法性、法性無体全依無明。「無明法性ことなれど、心は すなはちひとつなり。喩えば鏡の明闇体一なり」。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」242頁     三謝難二      一初牒難而通     貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天     (貪愛瞋憎の雲霧 常に真実信心の天に覆えり)  「貪愛瞋憎」は善導は水火二河に喩えたまえり。本無今有雲霧のごとし。「雲霧」は空 裡に現起して、又空裏に滅尽す、天更に変易なし。「真実信心」は中間白道なり。「天」 は今覆、本有なり。  『銘文』に、「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天といふは、われらが貪愛瞋憎をくも・き りにたとヘたり、貪愛のくも瞋憎のきりつねに信心の天をおほへるなりとしるべし」。  貪愛心は、貪欲なり、愛着なり、瞋恚なり。「貪愛」は順なり、「瞋憎」は違なり。共 に用なり、無明に対す。『讃』に、「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違 順することは 高峯岳山にことならず」。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     二挙喩正通     譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇     (譬えば日光の雲霧を覆れども 雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)  「雲霧」は、天地気不応の貌なり。「雲霧之下明無闇」とは、三有生死の雲晴なり。「 明無闇」は三毒煩悩はしばしば等の釈意にてしるべし。  『銘文』に云わく、「譬如日光覆雲霧雲霧之下明無闇といふは、日月の、くも・きりに おほはるれども、やみはれてくも・きりのしたあかきがごとく、貪愛瞋憎のくも・きりに 信心はおほはるれども、往生にさはりあるべからずとなり」。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     三信心歓喜益二      一因     獲信見敬大慶喜    (信を獲て見て敬い大いに慶喜すれば)  「見敬大慶喜」とは、仏身を見るものは仏心を見る。供敬の心に執持して大いに慶喜す るなり。  『経』に云わく、「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶わば、すなわち我が 善き親友なり。この故にまさに意を発すべし」文。  「見」とは心見、信心即ち仏智の故に境智相応す、故に見なり。境は仏境、智は心智な り。  『銘文』に云わく、「獲信見敬大慶喜といふはこの信心をえておほきによろこびうやま ふひとといふなり」。  問う、生即無生と知ることは、愚鈍の衆生及び難し、いかんぞ心得べきや。謂わく、凡 夫は実に往生と信じて、更に無生の理を知らずとも、一念発起の信、他力なる時は、その 信心即ち仏智無生の大信心なるゆえに、終日往生一定と思うその心知らずして、無生の深 理にかなう、これ他力不思議の利益なり。此の義、『論註』に三喩をあげて釈しましませ り云々。仏智不思議の徳なるゆえに信ずれば、生即無生の理にかなうなり。「生者得生者 之情耳」とたとい一期の間往生せんと思いらくしても、更に障りなく点々無生なり。今は はや平生業成即得往生なれば、光明照護にあづかりて「獲信見敬大慶喜」なり云々。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     二果     即横超截五悪趣     (すなわち横ざまに五悪趣を超截す)  「即横」等とは、本『経』に、「必得超絶去横截五悪趣」と言えり。祖師字釈具なり云 々。今、『銘文』に、「横はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆへ に行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と まふすなり。これを横超といふなり。横は竪に対することばなり、超は迂に対することば なり、竪と迂とは自力聖道のこころなり。横と超はすなはち他力真宗の本意なり。截とい ふはきるといふ、五悪趣のきづなをよこさまにきるなり。悪趣自然閉といふは、願力に帰 命すれば五道生死をとづるゆへに自然閉といふなり」。具に文を往拝せよ。亦「信巻」、 又『愚禿鈔』に、竪出竪超・横出横超の四句分別の御釈、具なり云々。  『銘文』に云わく、「即横超截五悪趣といふは、信心をうればすなはち横に五悪趣をき るなりとしるべしとなり。横超といふは横は如来の願力、他力をまふすなり、超は生死の 大海をやすくこえて無上大涅槃のみやこにいるなりと、信心を浄土宗の正意としるなり。 このこころをえつれば、他力は義なきを義とすとなり、義といふは行者のはからふこころ なり、このゆへに自力といふなり、よくよくこころうべしと」文。  『広本』に、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え」文。  道綽の釈に、「もしこの方の修治断除に依れば、まず見惑を断じて三塗の因を離れ、三 塗の果を滅す。後に修惑を断じて人天の因を離れ、人天の果を絶つ。これみな漸次に断除 すれば、横截と名づけず。もし弥陀の浄国に往生することを得れば、娑婆の五道一時に頓 に捨つ。故に横截五悪趣と名づくる」文、云々。 『正像末和讃』  無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す  愛憎違順することは 高峰岳山にことならず  無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな  生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ  願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず  仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず  如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして  回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり 光明  曽我講話・曽我講義 正信偈10資料 『曽我量深講義集 1』38頁  「称彼如来名如彼如来光明智相」とある。五念門の行として中心になるものは第二の讃 嘆門に過ぎぬ。  光は智慧の貌である。仏の智慧の相である。仏の姿の象徴である。智慧の行相である。 如来の御名を称ふれば光明智相の如く無明の闇を破するのである。御念仏を称へると往生 之業念仏為本と何かしら往生成仏の心が満足して、心が一時でも明るくなる。然しそれが 相続しない。無明の闇を破するが一時的である。  清沢先生は「我が信念」で南無阿弥陀仏は妄念妄執が立場を失ふと云はれるが、それは 若存若亡である。されば曇鸞は一時は無明が無くなつた様であるが、やれやれと思ふと無 明尚有つて志願を満さぬ。念仏を称へる時だけは闇はなくなる。効能はないことはないが 一時的で徹底しない。どういふ訳かと云へば、不如実修行、名義不相応と云つてゐる。仏 教を信ずる人はそれから先が大切である。自力無効を徹底して行かねばならぬ、どこまで も徹底して行かぬと救はれぬのである。どこまでもつきつめて、一文不知の尼入道まで掘 り下げねぱならぬ。  開山は御師匠に別れてから御自分の信心を効能などどうでもよい、たゞ一途に掘り下げ て行かれたのである。自分の経験や体験等は自分の妄念に過ぎぬと、地獄の釜底まで掘り 下げて、そしてそこに仏の深い智慧、仏智不思議を感得されたのである。  その仏の前に無能力であることが明らかになつた時、不思議なるかな、本当に現在の救 が明らかになるのである。仏の前に手も足も出なくなつた時、一心帰命せざるを得ざる時 にさう出来る。さうせずにをれぬ時にさう出来る様にしていたゞく、いたゞける道理が南 無阿弥陀仏といふことである。  全く無智無能を徹底することが南無で、その徹底境に阿弥陀仏此処に在りと感得するの が阿弥陀仏である。自分をして自分たらしめることが現生不退である。 『曽我量深講義集 1』77頁   観仏本願力、遇無空過者、能令速満足、功徳大宝海。  天親菩薩の「願生偈」に二十九種荘厳が出て来るが、かの世界の相を観ずるとあるのが 世界観である。段々深く深く世界観と云ふものが歴史的意義をもつ歴史観である。それを 明らかにしてゐるものは観仏本願力といふもので、その仏の本願力を観ずることに於て観 彼世界相が成就するのである。  観仏本願力とたゞその世界観が本当の意味の世界観である。即ち自然の方から胸をひら いて自分ををさめる。世界観は歴史観として完成するといふので、仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぐるものなくて、これ功徳大宝海を成ず。その世界観が仏の本願力を観ず る事によつて成就する。  たゞ頭でもつて理屈で描いた世界観ではなくて、浄土の中に自分がをさめとられ、一切 の功徳を、つまり国土の功徳全体を我が身に得る。全世界の功徳大宝海を我が身に満足す る。世界は歴史を通して、胸をひらいて歴史を通して自分の中にをさめとる。功徳成就し て一切の功徳の主体となる。  「遇無空過者、能令速満足、功徳大宝海」、さういふことと領解せしめる道であると思 ふ。その喜びが「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり けり」と本願を案ずる、南無阿弥陀仏のよつて来る本願を案ずるのである。こゝに道理が ある。私はこれを論理といはず道理と申したい。