『正信偈』十一 資料 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華 弥陀仏本願念仏 邪見[キョウ]慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯  『観無量寿経』  「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩 薩・大勢至菩薩、その勝友となる」 「散善義」善導大師  「もし能く相続して念仏する者は、此の人甚だ希有なりと為す、更に物として以て之に 方ぶべきなし。故に分陀利を引きて喩えと為すことを明かす。分陀利と言うは、人中の好 華と名づけ、亦希有華と名づけ、亦人中の上上華と名づけ、亦人中の妙好華と名づく。此 の華相伝して蔡華と名づくる是なり。もし念仏する者は、即ち是人中の好人なり、人中の 妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。」 『無量寿経』流通分 弥勒付属  仏、弥勒に語りたまわく、「如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得 難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。  善知識に遇い、法を聞きて能く行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信 楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。  このゆえに我が法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う。応当に 信順して法のごとく修行すべし。」 『正信偈大意』(真宗聖典 752頁)  「一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」というは、一 切の善人も悪人も如来の本願を聞信すれば、釈尊はこのひとを「広大勝解のひと」(如来 会)なりといい、また「分陀利華」(観経)にたとえ、あるいは「上上人」なりといい、 「希有人」なりとほめたまえり。  「弥陀仏本願念仏 邪見[キョウ]慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」というは、 弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと[キョウ]慢のものと悪人とは、真実に信楽したて まつること、かたきがなかにかたきことこれにすぎたるはなしと、いえるこころなり。 『略本私考』「相伝義書 5」435頁  総じて仏法を聞くと云うは、耳に聞きて心に徹るを聞くという。  義理を弁えたばかりなれば、六識所知の分斉にして、心に徹底せざれば、何の所詮もな きことなり。徹する詮は他力の顕わるるにあり。今、この御書を聖人御述作ましましたは、 我人に聞かせて、心に獲得せしめん為の御意なるを、面々耳には聞きても、その義理を弁 え、その言語に止まり、ゆく道に滞りて、心に徹底せざれば、無益と云うものなり。  その心に徹底せぬは何ゆえなれば、「常没の凡夫人」と顕わしたまう御意がおもいしら れぬゆえなり。故に、そこをしらしめたまう御意なれば、法義の地盤なれば、至極大事の 心得と思うべし。  いつも聞き、心得知り居る義のように思うは、心甚だ遠くして、知り難し。知ったと思 うは知らぬ故なり。今日まで此の御意に遇えども、看過して実に心に知らざる我が心中と、 自心を改め、始めて聞く心に成らざれば、いつまでも心には入るべからず。  まことに無始已来諸仏の教化にあいて、廃悪修善の道は聞き習いしかども、我身を常没 の凡夫と知らしめくだされた御教えは、今始めて遇い奉るなり。  故に、初めて聞くこと故に、甚だ以て聞信し難く心得難きなり。当流の御教化に逢い、 御流を汲む所詮には、唯この御意を思いしること、返す返すも肝要なり。  他力の法門は、自心を常没と知らざる間は、心には聞こえざるなり。「常没凡夫人」と は、兼ねて心得の通り、凡夫の迷倒三世不断にして常住なり。生と死との愛河に沈没して 無有出期なり。この常没の凡夫人は、仏法非器として、三世恒沙の諸仏の大悲に預かり、 十方無量の如来の慈悲に預かりながら、その大慈大悲を離れて、常没常流転し来たれる凡 夫なり。  已に、三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにして、大菩提心おこせども、自力かなわずし て、流転の凡夫となれるところの我人なれば、今日一旦悪を造る等に増さりて、仏法のあ だとなり、かたきとなり来たりし常没の凡夫人なり。然るに、この非機たるものが本願の 正機ぞとなり、  故に、聖人、・・・本願所被の機、十方衆生の中に於いて、分けて常没の凡夫を正機と したまいて、聊かも真実の功徳を聞き、無上の信心を獲得すべきいわれはなけれども、そ こが願力の廻向に縁るゆえぞとなり云々。 『略本私考』「相伝義書 5」  薄地底下の凡夫なれども、浄信をうるを以てこの益を蒙り、「大威徳者」「広大勝解者」 と嘆ぜらるるなり。  「大威徳者」とは、仏なり。「広大勝解者」とは、一切智人を云うなれば仏なり。 これ等の名を蒙るは、みな獲信の徳なり。  『讃』「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」文。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)  願文の十方衆生なり。『名義』に云わく、「一はこれ普及の言、切はこれ尽際の語、ま た究竟じて二にあらざるを一と名づく。その性広博なるを切と名づく」文。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)  「聞其名号信心歓喜」の意なり、必ず聞信に次第前後のあるに非ず。言説の次第のみ。 説は必ず次第し、理は次第に非ず。  「信巻」に、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり」 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     三能讃仏語     仏言広大勝解者 是人名分陀利華     (仏は広大勝解の者〈もの・ひと〉とのたまえり この人を分陀利華と名づく)  科の「能讃仏語」とは、教主釈迦一仏の讃語を挙げて、諸仏同等の讃意を収むるなり、 「仏」は仏言の二字二句に貫通す。「言」は印可の言なり。「広大勝解者」は『如来会』 の言なり。「是人名分陀利華」は『観経』の言なり。  『如来会』に云わく、「かくの如き等の類は大威徳の者なり、よく広大仏法異門に生ぜ ん」文。『大経』の文意同じ云々。「信巻」の本に『華厳経』を引きて云わく、「もし人、 大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなわち 諸仏の為に護念せらる」文。『倶舎』の頌に云わく、「勝解とは、謂わく、よく境におい て印可して、この事かくの如し、かくの如きならざるにあらずと殊勝の解を起す」文。 『華厳』には、「信心疑いなき者は、すなわち無上道を成ず、もろもろの如来と等しと」 文。聖人は「無疑者」を歓喜者と引きたまえり。「即成無上道」の五字を省略したまえり しるべし。  『大経』に、「それ至心ありて安楽国に生まれんと願ずれば、智慧明かに達し功徳殊勝 を得べし」文。「願生」の願は欲生心なり。「智慧」は般若、信楽心なり。法身に「明達」 す。「功徳殊勝」は解脱をあらわす。「広大」等に二意あり。一には信者の了受に約す。 弘誓に会うが故にと。二に仏智心に約す。後の義、正なり。信心の智慧と云うに同じ。次 の句、『観経』に云わく、「もし念仏する者は、まさに知るべし、この人はこれ人中の分 陀利華なり」文。大師五種嘉誉を出せり。分陀利、此れ白蓮華と云う。華中の王なり。 『観経疏』の四巻に具なり云々。  「散善義」に云わく、「衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに」 文。これら皆、信の益なり。即ち、「聞信如来弘誓願」の益なり、正信念仏の人なり。已 上四科の中、皆、信心を以て要としたまえり。即生直入の科意、思うて知るべし。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」  二反顕勧 示自力 機失難三 一難信法     弥陀仏本願念仏(弥陀仏の本願念仏は)  先徳曰わく、「念仏といふは摂取といふことにてあるなり」。念仏は憶念なりと聖人言 えり。  已下の二行四句、『経』の二箇処の文を引用して、綴り合わしたまうことを先ずしるべ し。偈頌なれば文の外言に余る隠意あり、よくよく伺うべし。  「弥陀仏」は主なり。「本願念仏」とは、念仏は余仏の念仏に通ずるといえども、今は 本願念仏なり。此の仏の本願は、即ちその仏を念ずるを以て本願とす。題の正信念仏は今 の難信の所対なり。「信楽受持」は本願の廻向なり、故に難とす。「如来の加威力による が故に」等と。然れば自から正信念仏の結文なり。反顕して正信を勧むるならん。首尾思 うてしるべし。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     二難信由     邪見[キョウ]慢悪衆生 (邪見と[キョウ]慢の悪衆生は)  科の「難信」は機なり。「邪見」の見をば見敬の所対してしれ。「悪衆生」とは、諸悪 ありといえども其の中に信受を碍るは、今、邪見[キョウ]慢の二つ重し、故に「悪衆生」と いう。宗家は朽林碩石生潤の期、あることなき道芽を失うは悪人の悪人なり。  『大経』に云わく、「[キョウ]慢と弊と懈怠とは、もってこの法を信ずることかたし。宿 世に諸仏を見たてまつるもの、楽みてかくのごときの教を聴かん」等。「弊」に六弊あり、 貪と瞋と慢と無明と見と、及び疑となり。「宿世に諸仏を見たてまつるもの、楽みてかく のごときの教を聴かん」、今偈に隠意あるは、この文なり。正信念仏是れなり。「邪見」 とは『瑜伽論』に云わく、「邪見というは一切僻見にして、所知の事において顛倒するを、 みな邪見名づく、これ前業の所感なり」文。  「[キョウ]慢」とは『倶舎頌』に、「慢対他心挙、[キョウ]由染自法」。『文句』の第五に 「陵他を慢となし、自ら貴<と>むを[キョウ]となす」文。慢字を守りとして自策自励の切 瑳琢磨の功を積むを、自力聖道の初門とす。他力門の中、別して当宗素意一途しるべし。 『頌疏』七慢等あり。今、[キョウ]慢は勝慢なり。亦劣慢等あり云々。  「邪見」とは『倶舎頌』に邪見は癡の究竟せるなり。今の信受は宿善と習う、何ぞ一塵 も邪見に非ずと慶べ。  「見」とは天台の云わく、邪心理を観ずる、是れを名づけて見と為す。見に違いなし、 心による道も亦又同じ。『倶舎頌』には「因果を撥無するを名づけて邪見となす」文。『 改邪鈔』に、「慢心は聖道の諸教にきらはれ、仏道をさまたぐる魔とこれをのべたり。わ が真宗の高祖光明寺の大師釈してのたまはく、[キョウ]慢弊懈怠難以信此法とて、[キョウ]慢と 弊と懈怠とはもてこの法を信ずることかたしとみへたれば[キョウ]慢の自心をもて仏智をは からんと擬する不覚鈍機の器としては、さらに仏智無上の他力をききうべからざれば、祖 師の御本所をば蔑如し自建立のわたくしの在所をば本所と自称するほどの冥加を存せず利 益をおもはざるやから、大[キョウ]慢の妄情をもてば、まことにいかでか仏智無上の他力を 受持せんや。難以信斯法の御釈いよおのおもひあはせられて厳重なるもの歟」云々。  『如来会』に、「懈怠・邪見・下劣の人は 如来のこの正法を信ぜず」文。宗家、二河 法合釈に別解別行悪見の人等を群賊等に合せり。祖釈には、「悪見人等というは、[キョウ] 慢懈怠邪見疑心の人なり」と。  易往無人之金言、世間難信之誠言と今に思い合わせり。「浄土真宗に帰すれども真実の 心はありがたし虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」真実なるものは甚だ以て希 なり、虚偽なるものは甚だ以て滋しと言えり。導師は、「それこのごろ自ら諸法の道俗を 見聞するに、解行不同にして専雑に異あり」文。  宗旨の心得は、邪見とは、浄土の真証を貶め、定散の自心に惑う者のことなり。これ悪 衆生なり。異見異執は聖道自力悟解の機、別解別行は浄土定散疑情の機なり。謂わく、異 学異執の人は唯理唯性の空に沈みて、還りて実乗を誹りて権乗とし、誦持を笑うて麁行と して他力の真証を貶しむ、これ自力の執情に対せられて他力本願の正信をしらず。これ自 性唯心の無念に沈むゆえに、等仏超祖の高峰岳山に昇りて、鎮(おさ)えに[キョウ]慢貢高 の臂を張り、敗壊懈怠の坑に陥ちて、慙愧悔過の思い亡ぼす、これ大過の咎に堕するゆえ に、邪見の悪衆生となづく。又、別解別行の人は定散の自心の有に迷うて、本願の嘉号を 以て己れが行として、定心に念仏し散心に念仏して、称名に功を入れ、自策自励して金剛 の真信に昏し。是くの如き人は恩妄廃修の有念に惑うが故に、或いは臨終を期し来迎を頼 み、本誓を疑い仏智他力廻向を忘れて、声念の功を募り自力廻向をこととして、機情を本 とす、これ及ばずの咎を扱(くだ)く故に、定散自力雑毒虚仮の人とす。初めの人は無念 を以て無念として断見に堕し、後の人は有念を以て有念として常見に沈む。是くの如く二 辺に沈溺せしゆえに、出離其の期なし。微塵劫に超過すとも慙愧懺悔の心なければ、真実 大信心海に入りがたし。是の故に[キョウ]慢邪心懈怠の悪衆生は、信楽受持すること難中難 無過斯難なりと。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     三明極難(三に極難を明かす)     信楽受持甚以難 難中之難無過斯     (信楽受持すること、はなはだ以って難し 難きが中の難きことこれに過ぎたる はなし)  『大経』に、「如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。 菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞きて能く行 ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、 これに過ぎて難きことなし。このゆえに我が法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、 かくのごとく教う。まさに信順して法のごとく修行すべし」  「信楽」は至心廻向の真実信心、即ち愛楽愛欲なり。「受」は心の領納、「持」は得記 不忘憶念住持力不散不失なり。『楽邦文類』に、「ひとたび信じての後、さらに再び疑わ ざるは、すなわちこれ間断せざるなり」、又「貪瞋癡来間せる者は、ただ随犯随懺して念 を隔て日を隔て時を隔てしめず、常に清浄ならしめよと」文。  反顕して正信を勧むるとは、顕には難信の機法を挙げて、隠には正信を勧進する意地自 ら具えたり。今、難信というにつき問起あるべし。云わく、「信巻」に、「おおよそ大信 海を按ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいわず、造罪の多少を問わず、修行の久 近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正 観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念 にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり」文。  この御言の如くなれば、有心にて求むべきにあらず、無心をもて得べからず、語言を以 て会すべからず、寂黙を以て通ずべからず、四句を離れ、万兆を絶して言語道過し心行所 滅せり。如何ん、今日の凡夫、信を獲得すべきや。答えて曰わく、今の偈に引けねども隠 意あり。『経』に「宿世に諸仏を見たてまつりしもの 楽しみてかくの如きの教を聴かん」 と、文。  先徳の言に、「当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益をあおぐも のなり。起行をもって一向専修の名言をたつというとも、他力の安心、決得せずんば、祖 師の御己証を相続するにあらざるべし。宿善もし開発の機ならば、いかなる卑劣のともが らも願力の信心をたくわえつべし」文と。唯、信不は宿善の遅速に在て、更に智愚の浅深 にはあらざるなり。問う、宿善説の如きは二十の願意なり、本願は難思なり、一生に往生 を弁ずべし。答えて云わく、宿善とは強ちに隔生の事に限るにあらず。前念に法を聞き見 仏す、後念に信を獲て見敬す、なお是れ宿善なり。況んや二十願に「十方衆生」という、 何ん人か宿善なからんや。『楞厳』に云うがごとく、仏を憶し仏を念ずれども、現当に仏 を見ると。謂わく、憶念は宿善なり、今の楽聴も同じきなり。見仏は果報なり。染香人の 身に香気あるがごとし。一色一香、宿善に非ざるものなし。あゝ一たび人身を失えば万劫 にも帰らず。更に擬議すべからざるなり。因に宿善の有無を問わば、曰わく、有無という は猶、遅速なり。此れら総別とす。総じては一切衆生に在り、則ち「令諸衆生功徳成就」 と言える故に、別しては聞法見仏と聞法能行との人に在り。「信心歓喜即得往生」と言う が故に、難信というは無信というには異となり。  故に『小経疏』に云わく、「終に仏説は信ずる者あるをもっての故に」と、しかれば則 ち速かに発心するを以て有とし、遅くして而も信を起らざるを無とするなり、知るべし。 又、『大経』の説の如きは、「如来興世」とは仏宝の難値なり。「諸仏経道」は法宝の難 聞、菩薩と知識とは僧宝の難遇なり。ひとえにこれ、若し値い若し聞くは精進に求めよと いわん為のみ。喩えば世の宝山の如き取らずして、而も出るものは悲しむべし、痛むべし かな。  仰ぎて彼を思い伏して此れを思うに、慶しき哉、我曹深く仏祖の冥加を蒙り、真宗一流 の法水を呑み、真実信心を味わい、而して本願の帰命を寿(いのち)なごうす。特に彼の 恩徳を知りて其の報謝を議すといえども、名字心縁言語を眠忘す。併し一身の慙謝を呈し て四口の咎を顧りみず談ぜんとすれども、或いは真俗事理の法門に貧しく、願意を遂ぐる こと難く、或いは又、内外教相に昧く、自他共に障えて、実に祖懐を尽くしがたし。是を 以て進退盤桓し、悲喜交流す。慙ずべし傷むべし。如法より凡近にして以て宗旨の己証を 次ぐに足らざることを知るといえども、黙然として、又伝化の便りなきと小師の所望に任 せて大事を発語す。唯、希う所は聞者の褒貶を請う。互いに無常迅速有余の時に偶わんを しらず。吾(わが)、短慮不覚は既に人の知る所なり。  何ぞ憶せん、此の間亦、何劫何れの時か、智力の完きを待つべきぞや。斯れを以て『華 厳』の偈を披きたるに云わく、「もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善不善の心を起 すことありとも、菩薩みな摂取すと」文。若し聖意に称うべけんば、真に信受を為す。或 いは聖意に称わずば以て不善と為す。然りと雖ども菩薩の慈悲、我を摂受し、今の言語の 善不善を証知したまわばん、誠に是れ信謗共に因と成りて同じく信楽受持の一端ともなら んか、深く尊敬し奉持せよ云々。  難信を信知すること、ひとえに次下師承伝持の法脈にあり。已下を摂むる今の四句たる ことを分別すべし。反顕の旨趣、順信伝信の中間に安ずれば、成上起下の四句ともいうべ きか。 『略本私考』「相伝義書 5」     然に流転の愚夫、輪廻の群生、信心起すこと無し、真心起ること無し。  上より已来、他力廻向斉入平等なれども、甚だ「難信」をしらせん為に、「釈迦諸仏の 顕益」を示すにつき、「私釈」を設けて、先ず其の機を挙げて、「然に」と上を受けて、 「流転の愚夫、輪廻の群生」といえり。・・・今難信を挙げて、それを釈迦諸仏の顕益と は如何というに、得がたく聞き難く起こしがたく起こりがたしと思いしられたほどの、釈 迦諸仏の顕益はなきなり。  扨、「信心無起」とは、難信のゆえに発起しがたきなり。而るに、その上に亦重ねて「 真心無起」といえること、いかがといわば、ただ信心というばかりには、定散自力の信心 のまぎれものあり、「報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし」文。  次下に「難中之難」の文あり。これにあたりて、今句を重ねたまうなるべし。  今いう処の信は、流転輪廻の愚癡の凡夫のこころより起るにあらず。信心起こりがたき は、他力廻向のゆえなり。この仏智心たる真心を、たやすく発起し難きとなり。  畢竟は、詞短かにいわば、今の信心というは自力のまことにあらず、信心は仏の真実心 という他力廻向を顕わさんために、重ねて置きたまうなり。上三尊の密益なり。  その故は、即ち聖人「信巻」の序に言わく「信楽を獲得することは、如来選択の願心よ り発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧従り顕彰せり」文。この文義の格を以 て、今の義を伺いしれ。 『大本私考』「相伝義書 7」  『大経』一部に補処の弥勒、伝法の阿難を対告として、深位の権機を同聞衆となして、 所説の法は「二乗非所測 唯仏独明了」の大願仏智の一道を、凡夫出要の不思議とおしえ て、流通に「若聞斯経、信楽受持、難中之難、無過此難」と付属したまいたれば、是れ弥 勒・阿難を初めとして、深位の権機といえども、自ら信じ、自ら聞くにはあらず。  況んや、末代今日今時にいたりて、たまたまこの経を聞くというとも、いささか凡夫有 漏の耳根に識を発こして、凡夫不成の迷情に思いさだめて聞くにあらず。ただ是れ宿善、 時いたり、令諸衆生の仏智の満入があらわれて、伝えて聴聞するなり。仏智より聞こしめ して下され、聞くも仏智を以って聞くなり。これ「究竟靡所聞」の誓約のあらわれなり。 然れば今、阿難の「我聞」と伝持したまえるが、即ちあまねく末代に及ぶの聞なり。