『正信偈』一三 資料 釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 『正信偈大意』(真宗聖典 753頁)  「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上 法 証歓喜地生安楽」というは、この龍樹菩薩は(八宗の祖師、千部の論師なり)釈尊の 滅後五百余歳に出世したまう。釈尊これをかねてしろしめして、『楞伽経』にときたまわ く、「南天竺国に龍樹菩薩という比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法 をときて、歓喜地を証して、安楽に往生すべし」と、未来記したまえり。  「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」というは、かの龍樹の『十住毘婆娑論』(易行品) に念仏をほめたまうに、二種の道をたてたまうに、ひとつには難行道、ふたつには易行道 なり。その難行道の修しがたきことをたとうるに、陸路のみちをあゆぶがごとしといえり。 易行道の修しやすきことをたとうるに、みずのうえをふねにのりてゆくがごとしといえり。  「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」というは、本願力の不思議を憶念する人は、おの ずから必定にいるべきものなり、といえる心なり。  「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」というは、真実の信心を獲得せん人は、行住座臥 に名号をとなえて、大悲弘誓の恩徳を報じたてまつれ、といえる心なり。 『曽我量深選集 1』  就中、釈尊の時代は特に思想界の堕落甚だしきの状態にあつたが故に、釈尊は之を一括 して我見として、為に無我の正道を説き給ひ、龍樹の時代は思想界の紛乱はその極に達し たれば、大士は空の一刀を以て縦横に之を破壊し給ひた。  惟ふに有無の邪見は客観の事実であると共に、一層確実なる大士の主観中の事実である。 是れその破邪の響が森厳悲壮を極めて、支那三論のそれと色味の異なる所以である。  大士の破邪論の特色は破邪それ自らが目的であつて、他の顕正の手段に非ざるの点に在 る。即ち大士にありては何等の独断的臆説もない。空は彼の中道の真理に対する不偏の態 度である。  限りなき雑多の思想を統一せんが為に積極的なる学説を立つるは、是れ益々思想界の紛 乱を増加する所以であつて、明かなる自家撞著であらねばならぬ。是れ大士が専ら空の一 字を以て思想統一の第一義となし給へる所以である。  されば『中論』『十二門論』は大士の内観健闘の告白である。我等はその明快なる理智 と壮烈なる能力とを、消極的破邪門の言論の上に見る。而も大士自身に於ては、智を極め て絶対の無智を証し、力を極めて究竟の無力を観じ給ひたのである。『中論』の文字は時 代の邪見に対しては勝利の壮烈であると共に、大士の主観の邪見に対しては全く失敗の壮 烈である。何となれば、自己に対するの破邪は能破の智と力とに依りて、所破の無智と無 力との邪見の現存を覚悟せしむるからである。 『曽我量深選集 3』  形式上よりは有無の辺見であるが、実質上よりは我法の身見である。形式の末に拘泥せ る学者の有無断常の辺見に対しては、彼は勇しくも八不中道の旗をかゝげて折伏の軍を進 めたのであるが、八迷の辺執の内面に迷悶せる自己の姿を見、茲に無始以来恒不断に内に 我法の愛執のために執蔵せらるゝ所の十方衆生の声を聞かれたのである。  茲に来りては、八不中道観なるものも、亦この深い執愛力を反顕するものに過ぎないこ とを知り、亦底なき闇を示すに過ぎないのである。爰へ来りては、高原の陸地に生じたる 教義は全く無効である。真の蓮華の道は卑湿の汚泥からのみ発生する。彼は遂に八不の理 観の山を下り、真の自己を卑湿の汚泥の裡に求められた。かくの如くして得られた旅の記 録が、彼の『十住毘婆沙論』の易行品の一章であらう。 『曽我量深先生講話集 1』  善導大師の「機法二種深信」の中の、機の深信――つまり、阿弥陀如来様の御本願の光 によって照らし出されたわれわれというもの、われわれの姿というものは、罪悪生死の凡 夫である。  罪悪ということと生死ということと二つ合わせてそれを凡夫という。罪悪に悩み、罪悪 ということに悩まされる。  悩むのは自覚でありますが、悩まされるというのは、それはつまり、自覚のない時には 悩まされる。悩むというのは自覚。自覚の人は悩む。自覚のない人は悩まされる。悩むと は自覚の言葉であって、悩まされるというのは、これは自覚しておらない姿でしょう。凡 夫でも、早やおたすけを得たところの人が悩む。罪悪と生死というこの二つに悩む。罪悪 生死を悩む。  悩まされるというのであれば、まだ自分が罪悪生死を自覚しないのでしょう。罪悪生死 でありながら罪悪生死を自覚しない。そして、浮き足になって邪見驕慢のところにおる人 が悩まされておる。  悩む人はもう早や、邪見驕慢を超越した。邪見驕慢を一つの自覚のところで超越した。 だから、悩むということと悩まされるということと、こういうことでもって違うのだろう と、こう私は思うのであります。