『正信偈』十四 資料 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽 『正信偈大意』(真宗聖典 753頁)  「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」というは、かの龍樹の『十住毘婆娑論』(易行品) に念仏をほめたまうに、二種の道をたてたまうに、ひとつには難行道、ふたつには易行道 なり。その難行道の修しがたきことをたとうるに、陸路のみちをあゆぶがごとしといえり。 易行道の修しやすきことをたとうるに、みずのうえをふねにのりてゆくがごとしといえり。 歓喜地 「行巻」  真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩 うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいわんや十 方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。ゆえに阿弥陀仏と名づけたてま つると。これを他力という。ここをもって龍樹大士は即時入必定といえり。曇鸞大師は入 正定聚之数といえり。仰いでこれを憑むべし。もっぱらこれを行ずべきなり。 易行・難行 「易行品」抜粋  是の故に、若し諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地(不退転地)に至ることを 得る方便あらば、願わくは為にこれを説きたまえと。  答えて曰わく、汝が所説のごときは、これ[ニョウ]弱怯劣にして大心あることなし。これ 丈夫志幹の言に非ず。  何を以ての故に。若し人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、未だ阿惟越 致を得ずは、その中間に於て身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救うがごとくすべし。  助道の中に説くがごとし。菩薩いまだ阿惟越致地に至ることを得ずは、常に勤精進して なお頭燃をはらい、重担を荷負するがごとくすべし。菩提を求むる為の故に、常に勤精進 して、懈怠の心を生ぜざるべし。  声聞乗・辟支仏乗を求むる者のごときは、ただ己が利を成ぜんがためにするも、常に勤 精進すべし。  いかにいわんや菩薩の自ら度し、また彼を度せんとするに於てをや。この二乗の人より も、億倍して精進すべしと。大乗を行ずる者には、仏かくのごとく説きたまえり。願を発 して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重しと。  汝、阿惟越致地はこの法甚だ難し。久しくして乃ち得べし。もし易行道にして疾く阿惟 越致地に至ることを得るありやと言うは、これすなわち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹 の説に非ず。  汝もし必ずこの方便を聞かんと欲せば、今まさにこれを説くべし。  仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の 乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のもの あり、あるいは信方便易行を以て疾く阿惟越致に至る者あり。偈に説くがごとし。 難行・易行  『論註』  難行道とは、いわく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難とす。この難 にいまし多途あり。ほぼ五三をいいて、以て義の意を示す。一には外道の相善は菩薩の法 を乱る。二には声聞は自利にして大慈悲を障う。三には悪を顧ことなき人は他の勝徳を破 す。四には顛倒の善果、よく梵行を壊る。五にはただこれ自力にして他力の持つなし。か くのごときらの事、目に触るるにみなこれなり。譬えば陸路の歩行はすなわち苦しきがご とし。  易行道とは、いわく、ただ信仏の因縁を以って浄土に生れんと願ず。仏願力に乗じて、 すなわち彼の清浄の土に住生を得、仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定は すなわちこれ阿毘跋致なり。譬えば水路に船に乗ずればすなわち楽しきがごとし。 難行・易行 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」  唯、仏道は一路なれども、帰入するの機につきて難易二道を示すなり。「見」字の下を 上に云うごとし。  『楽邦文類』に「浄土は難易にあらず、難易は人にあり、難とは疑情咫尺万里、易とは 信心万里咫尺」文。  御釈に「難とは三業修善不真実の心なり。易とは如来願力廻向の心なり」文。 難行・易行  『曽我量深選集 9』  かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。一には難 行道、二には易行道なりと。  菩薩が阿毘跋致を求むるについて二種の道がある。その一つは難行道で、いま一つは易 行道である。これは『浄土論註』によって教えられるわけでございましょう。それで、難 行道の修し難きことは、たとえば「陸道の歩行の苦しきが如く」、易行道の修し易きをた とうるならば、「水道の乗船は楽しきが如し」と、龍樹菩薩がお示しになった、と。  『論註』に「謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに、云く。菩薩、阿毘跋致を求 むるに二種の道有り、一には難行道、二には易行道なり」として、その難行道の難たる所 以を、五か条を以て示された。  「一には、外道の相善は菩薩の法を乱る」と。外道は、やはり大乗仏教に摸しておるの であります。とくに利他行ということをば奨励しておるのであります。とくに利他行とい うのは社会事業でございましょう。そういうことを大いに宣説しておる。それが外道の相 善で、相ということは、似てしかも非なるもの、という意味をもつものであります。これ は、有漏の善根である。この有漏の善根の徳を述べるのであって、それを現世祈祷のため にするわけであります。これを、外道の相善という。この外道の相善は菩薩の法を乱る。  世の中の一般の人はですね、仏教の菩薩の道というものも、畢竟ずるに外道の相善と何 ら変わるところはないと、こういうふうに外道の相善が菩薩の法を乱る。とくに難行道を 行ずる人はですね、やはり難行の苦しいところから、名聞利養という、そういうことに迷 い、落伍することがある。それで、外道の相善が菩薩の法を乱ると、こういうのでありま しょう。  第二には「声聞の自利、大慈悲を障ふ」と。声聞はもっぱら自身の救い、得脱というこ とを、とくに珍重するものである。それは、それだけの深い意味があるに違いありません けれども、しかし、これは菩薩の大慈悲、菩薩の求めておりますところの大慈悲心という ものを妨げるものである。こういうことで、「二には声聞の自利、大慈悲を障ふ」と示さ れたのでありましょう。  「三には無顧の悪人、他の勝徳を破す」と。無顧という字は、顧みることなしというこ とで、菩薩が仏道修行しておいでになるときに、それを妨げるということがある。  第四には「顛倒の善果、能く梵行を壊す」と。これはまあ、やはり出家者は人さまから 大変に尊敬をされて、いろいろと供養を受けるということがある。そうすると、それに惑 わされるということがある。それで「顛倒の善果、能く梵行を壊す」と、こういうことが ある。梵行を破られて、長いあいだ、真面目に修行したことも、水泡に帰する、というよ うなことになるわけであります。  「五には、唯是れ自力にして、他力の持つなし」と。人間はどうしても一方に片寄るも のであります。一方に片寄るものでありますから、正しい教えは「ただこれ自力」という ような教えではないのでありましょうけれども、その教えを実際に修行するということに なると、ただこの、自力とか自利とかいう、そういう点に人間の弱点というものがありま して、「ただこれ自力にして、他力の持つなし」という結果になると、こうおおせられた わけであります。  この難行・易行につきましてはですね、龍樹菩薩のご解釈と、それから、曇鸞大師のご 解釈というものが、少し違っていると昔から言われております。龍樹菩薩は行の体につい て難行・易行をたてているし、曇鸞大師は行の縁ですね。縁というのはつまり如来の本願 でありましょう。その行の縁について難行・易行を説き、またご自身もそう領解せられた。 『真宗宗祖伝』(東本願寺 教学研究所編) 菩薩の意義(十三番問答)  「君が十地の義を説くのは何のためか?」  「けわしく恐ろしい六道の衆生が、生死の海原におし流されている。涙や汗や膿血に痛 められ熱病や癌・悪腫・吐き下し・腸満等の悪病に苦しみ憂い、悲しみに泣き叫び、諸々 の感覚にやけただれ、死の断崖にゆきづまって、越えられず、もろもろの欺誑にまどわさ れ、愚痴の無明の大黒闇に沈んでいる。愛欲のままに動かされて無始よりこのかた、この 大海をわたったものがない。もしもわたるものがあったなら、この人は、自分のみならず 兼ねて無量の衆生を済度することになる。この因縁のために、十地の義を説くのである」  「十地の修行の外には生死の大海をわたる道はないのか」  「声聞辟支仏の道もまた生死をわたることができるが、無上大乗の道をもって生死大海 をわたろうと欲するならば必ず十地を修行しなければならない。」  「その声聞・辟支仏の道(二乗地という)はどれ位の時間で悟れるのか」  「大乗の道は一恒河沙大劫より百千万億、無数劫の間修行して、仏道を成ずる。これも 根の利鈍と先世の宿行の因縁によって長短がある」  「君のいう所はすでに経中に説かれていることと変わらないとすれば、それを今更わず らわしく説くのは名と利を求めるためであるか」  「社会に何の救いもなく苦しんでいる衆生をたすけたいからである。そのために智慧力 をもってこの論をつくるのである。自分の智力をほこって名利を求めるためではない」  「もし仏語を聞いてみずからさとられる人は、大人が病いのために、にがい薬をすぐに 飲むようなものである。小児には甘い蜜を和するようなものだ。自分はいま、経文をよみ こなすことができない鈍根無智のもののためにするのである。君は、先に仏経だけで衆生 を利益するに充分だ、わずらわしい解釈はいらないといったが、これは誤りである。自分 はこの論を造る時、よく思惟し分別して、三宝および菩薩衆を念じまた六波羅蜜を念じ、 深く善心を発した。これは自分の得た利益である。この正法を明らかに照らしだすことは 無比の諸仏供養のわざである。即ちこれ利他である。」 『歎異鈔』第2条  おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして・・・  もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、か のひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせ をかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにて やはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざる なり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後 悔すべからずそうろう。  そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄に もおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行 もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしま さば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言し たまうべからず。・・・  詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じた てまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々 「行巻」  律宗の祖師、元照のいわく(観経義疏)、いわんやわが仏大慈、浄土を開示して慇懃に あまねく諸大乗を勧属したまえり。目に見、耳に聞きてことに疑謗を生じて、みずから甘 く沈溺して超昇を慕はず。如来説きて憐憫すべきもののためにしたまえり。まことにこの 法の特り常途に異なることを知らざるによりてなり。賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行 の久近を論ぜず、造罪の重軽を問わず、ただ決定の信心すなわちこれ往生の因種ならしむ と。以上