『正信偈』十五 資料 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩 『正信偈大意』  「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」というは、本願力の不思議を憶念する人は、おの ずから必定にいるべきものなり、といえる心なり。  「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」というは、真実の信心を獲得せん人は、行住座臥 に名号をとなえて、大悲弘誓の恩徳を報じたてまつれ、といえる心なり。 憶念  『易行品』  「阿弥陀仏の本願はかくのごとし、もし人、我を念じ名を称して自ら帰すれば、即ち必 定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得と。この故に常に憶念すべし。」 疑惑  『易行品』  「もし人善根を種うるも、疑えば則ち華開けず。信心清浄なれば、華開けて則ち仏を見 たてまつる。」 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     憶念弥陀仏本願 自然即時入必定     (弥陀仏の本願を憶念すれば 自然にすなわち時、必定に入る)  『十住』「易行品」に「阿弥陀仏の本願を憶念することかくの如し。もし人、我を念じ て名を称えんは自ずから帰す、すなわち必定に入り阿耨多羅三藐三菩提を得んと。この故 に常に憶念すべしと」文。今、「念我(我を念じて)」とは十八願、「称名」とは十七願、 「自帰(自ずから帰す)」と云うを『略本』には自然といえり云々。『文類』に云わく、 「憶念すなわちこれ真実の一心なり」文。「憶念」とは、憶は憶持不忘の義なり、念は明 記不忘の義なり。又、『要解』に、「能求とは機法一体を信知し、時々に礼拝称名する、 不離の故に常に憶念なり」とは非なり。  「自然」とは法爾なり、求めず自ら得るを自然という。「即」は速疾なり。「入必定」 は不退なり、正定業の下、見合わすべし云々。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩     (ただよく常に如来に号〈みな〉を称して まさに大悲弘誓の恩を報ずべし)  是れ信楽憶念の相貌なり。「応報」は、応信応機を思い合わすべし云々。『歎異抄』に 云わく、「すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほ れぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねにおもひいだしまいらすべし。しかれば念仏も まうされさふらふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然とまうすなり。これすなは ち他力にてまします」文。『口伝鈔』に「平生に善知識のをしへをうけて信心開発するき ざみ、正定聚のくらいに住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきに あらず。そののちの称名は仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり」 文。  聖人より性信へ与えたまう御書に、一念にあまる念仏は法界の衆生に廻向すと天下安穏 なれ、仏法弘まれ、一切衆生聞信して常に念仏すべしとのたまえり。取意文なり。尚、自 信教人信の文を思い合わして、上尽一形をしるべし。導師云わく、「聞きたすなわちう信 行せん者は、身命を惜しまず、急にためにこれを説き。もし一人、苦を捨てて生死を出ず ることを得れば、これを真に仏恩を報ずと名づく」文。但し、仏恩深遠なり。たとい骨を 砕き、身を粉に未だ酬報に足らず。『式文』に云わく、「万劫を経とも一端をも報じがた し。しかじ、名願を念じてかの本懐に順ぜん」文。聖人、十種益を挙げたまう中に、常行 大悲益・知恩報徳益あり。又、『口伝鈔』に「一念無上の仏智をもて、凡夫往生の極促」 等云々。『文章』に「一念を以て往生治定の時刻とさだめ、そのときの命のぶれば、自然 と多念におよぶ道理」とのたまえり云々。導師、「上尽一形下至一念」と釈しまします故 に、一念往生治定の上の仏恩報謝の多念の称名とならうところなりと云々。上の正定業如 実修行に今の二句見合わすべし云々。 真実信の業識  『三識の事』 「相伝義書 19」  「業識」というは一心の動ずるをいう。動は可発の義なり。可発とは信心のあらわるべ きを可発という。・・・  和讃(浄土和讃)に「無明法性ことなれど 心はすなわちひとつなり この心すなわち 涅槃なり この心すなわち如来なり」と。・・・  ただ念仏の心のみを信ずるにあることをしめして、その念仏の心をやわらげて「心はす なわちひとつなり」といえり。「ひとつ」とあるは一心なり。一心は信心なり。これより 外に念仏というものはなきなり。念仏というは口にただ南無阿弥陀仏ととなうるばかりを いうにあらず、十劫正覚の刹那より我らが往生成就したまいけるという信心おこるを、念 仏というなりといえり。しかれば心の一つなるが即ち念仏の心なり。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」  先徳云わく、「たまたま欲往生の深信発得することは、これしかしながら、法蔵因中の 強願と正覚弥陀の智力と内薫蜜択して、一念帰命の往益を成ず」文。・・・  即ち先徳の曰わく、(『文類集』)「阿弥陀といふは願なり。仏といふは力なり。願と いふは法なり。力といふは世々先徳なり、人なり。願よく力をたもち、力は願をたのみて、 願力ともにあひたすけて成就する、阿弥陀仏といふなり」。 『曽我量深選集 9』  それから「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。唯だ能く常に如来の 号を称して応に大悲弘誓の恩を報ずべし」。まあこの通りのお言葉があるというわけでは ありませんけれども、前後の文をいろいろ組合せまして、そしてこのお言葉をお作りにな ったものと思われる。自然は如来の本願の自然でありましょう。弥陀仏の本願を憶念すれ ば、自然に即の時、即時に、必定に入る。この即時という言葉は、龍樹菩薩の『易行品』 に出ておるところの言葉でございます。  この言葉には、祖師聖人がとくに深い感銘をもっておいでになるわけであります。それ で本願成就の文をお読みになるときに、「即得往生住不退転」の「即得往生」の即の字を 即時とお読みになったわけでございます。即時に、自然に即時に必定に入る。必定は正定 聚でございます。正定を必定とも言う。  『正信偈大意』では「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩といふは、真実の信心を獲得せ んひとは、行住坐臥に名号をとなへて、大悲弘誓の恩徳を報じたてまつるべしといへるこ ころなり」と。報じたてまつれと言うてくださるのである、と。  龍樹菩薩は、別に三部経とくに『大無量寿経』についてのご註釈というようなものはな いのでありましょう。けれども祖師聖人がご覧になりまするときにはですね、龍樹菩薩の お言葉というもの、『易行品』のお教えというものは、やっぱり『大無量寿経』のおぼし めしを伝えておいでになる。それでまあ、即という字を即時とおおせられる。即ちの時必 定に入るとおおせられた。  人能く是の仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る。是の故に我れ常に念じた てまつる。 と。それを「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」とおおせられたのである。これも龍樹菩 薩のお言葉でありまするが「若し人善根を種ゑて、疑へば則ち華開けず、信心清浄なれば、 華開けて則ち仏を見たてまつる」というお言葉もあります。これはやはり龍樹菩薩の時代 というものがありましてですね、龍樹菩薩は特別に『大無量寿経』――、正依の『大無量 寿経』を引いて、経の名を挙げてお示しになるということをなさらなかったのである。や っぱりそれは時代のためであろうと思われるのであります。 『註論入科会解』「相伝義書 15」     故に知んぬ、帰命は即ち是礼拝なり。     意に帰命あれば、身に必ず礼す。然るに礼拝はただこれ恭敬にして、     必ずしも帰命にならず、帰命は必ずこれ礼拝なり。     もしこれを以って推せば帰命を重しとす。  称礼念すれども自の行にあらず、ただ阿弥陀仏の行を行ずるなれば、かつて凡夫が自心 を発こして礼するにあらず、仏の善巧方便して生ぜん意をなさしめ給うが、仏の身業礼な り。その仏の身業が今日へ顕われて、信者の方に我しらず本願の行を行ぜしめ給うなり。 「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべた まふ」。仏体所修荘厳の三業が開け顕わるるなり。故に凡夫の方には、何を行ずるやらん 行ぜざるやらん弁えねども、仏体御廻向のゆえに我しらず不行而行の身となる、これ無行 不成の願海に帰するゆえなり。かつて我が心に起こして礼拝をなすにはあらず、ただ仏の 礼拝なり云々。     然るに称名憶念すれども、無明なお在りて所願を満てざる者あり。何となれば、     実の如く修行せずして、名義と相応せざるに由るが故なり。     云何が実の如く修行せずして、名義と相応せずと為す、     謂く、如来は是実相身、是為物身なりと知らざればなり。  此の文下に、「称名憶念」を二つに分けず、一句に一事に続けたまえり。・・・  浄土の教縁に触れ催されて定散の心の行者も只うち見たる処は、身口の二業に称名憶念 する姿専修に似たれども、我が方の機に持つの失ある故に不相応となりて、一向の他力な らねば、「無明由在而不満所願」なり。如実の行、本願のままに非ざる故なり。「不満」 は名義と不相応の故に、次下の釈をかけて見合わすべし、子細なし。 仏々相念 『曽我量深講義集 1』  三世の諸仏が、仏と仏と相念じ給ふ。それが仏々相念である。これ『大経』の所説であ る。我々は勿論、つまらぬ愚かな人間であるが、南無阿弥陀仏と云ふと仏々相念して全く 仏と等しい。そのまゝ仏になる。所謂能念と所念と一つである。これ仏々相念といふ。  去来現の仏、仏と仏と相念じ給ふ、今の仏も諸仏を念じ給ふことなけんや。衆生が仏を 念ずるといふが、衆生が仏に於て仏を念ずるのであつて、仏に於て仏を念ずる。仏の中に 打ちこんで仏を念ずる。念仏の衆生仏を憶念するといふが、衆生が己れを忘れて本来仏の 中に仏を念ずるので、念ずる衆生と念ぜられる仏と、仏に於て一つである。 憶念執持、純粋感情の世界  『曽我量深講義集 4』  本統の精神問題といふものは憶念執持、純粋感情の世界のことであります。法蔵菩薩の 本願の世界は憶念執持の世界でありまして、『歎異抄』には、「誓願の不思議によりて、 たもちやすくとなへやすき名号を案じいだしたまひて・・・・・・」とありますのは、こ のところを明かされてあるものと思ふのであります。それが連続して往生を得るのであり ます。  憶念執持の中に往生があるのであつて、衆生が仏を憶念すれば仏また衆生を憶念する、 ここに憶念の感情において一如一体といふことが言へるのであります。それを開顕するの が称名であり、それ(称名)がそのままに憶念であります。  称名によつて如何に憶念するかと申しますれば、称名そのものが憶念の象徴なのである。 称名の上にも一つの憶念があるのではない。「称名即ち憶念、憶念即ち念仏、念仏則ち是 れ南無阿弥陀仏なり」(『文類聚鈔』)。  念仏は純粋感情においては憶念執持の道、それを離れて象徴の世界はないのであります。 南無阿弥陀仏は象徴の世界であつて、南無阿弥陀仏において我と仏とは一体であります。 南無阿弥陀仏を称へるときに機法一体であり、我と仏とは感応道交する、即ち南無阿弥陀 仏は感応道交であります。 憶念とは欲生我国  『曽我量深講義集 4』  憶念とは欲生我国であります。だからして十八願の中に十八願を生み出すところの因が ある。つまり十八願中に十八願があるのであつて、本願は二重の本願である。欲生我国が 本願を自証してゐるのでありまして、つまりそれは本願の二重構造であります。欲生の中 に欲生がある、欲生の中に欲生を生み出すところの欲生がある。本願を包む本願がある。 本願は限りなく本願を包み、内に欲生を孕む。欲生は本願の中にあつて本願を包む道理、 即ちそれが憶念執持の道理であつて、これ即ち感応道交・機法一体の南無阿弥陀仏の道理 であります。欲生我国は内にあるものが外にあるものを包む、それが摂取不捨の意味であ ります。欲生といふは即ち是れ如来諸有の群生を招喚したまふの教命なりであるのであり ます。 煩悩の中にはたらいている 『曽我量深講義集 8』  「舎利弗よ、・・・・・・彼の仏を何が故に阿弥陀と号するか。舎利弗よ、彼の仏の光 明は無量にして、十方の国を照らすに障碍する所なし、この故に号して阿弥陀となす」。  光明は即ち本願である。光明即ち本願というものが我々の煩悩と一つになって、一つに なっているときは私どもには解らぬ。煩悩に眼さえられて、摂取の光明ではない。遍照の 光明というものでありましょう。  我々から見れば煩悩であるが、仏の本願から見ればその煩悩の中にはたらいている。は たらいているが我々には解らぬ。宿善開発して、それが善知識の教えというものによって 目を開く。だから南無阿弥陀仏というものが念仏である。念仏の念は憶念ということであ る。だから念仏は憶念ということになる。 即得往生  『曽我量深講義集 10』  御開山よりみれば往生は即得往生である。信心決定の時、つまり如来の「至心廻向」に あずかって信が決定した時に不退転に住する。これは龍樹の「易行品」の「即時入必定」 の御心である。「正信偈」に、「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定、唯能常称如来号、応 報大悲弘誓恩」(龍樹章)とある。この「自然」とは本願力自然である。これは龍樹の「 易行品」に出ている言葉ではないが、御開山は行信道の立場で味読されたのである。御開 山は称名報恩は、龍樹の教として明らかにされた。 平常心  『曽我量深講義集 14』  無理に力をだして闘争するのではなく、おのずから力がでるのが本当の力であります。  宗祖は、「憶念の心つねにして」と申されますが、これが平常心であります。この力が いつもみちみちているところに、満足の大地があり、これが恒産、本当の財産でありまし ょう。すみやかに功徳の大宝海を満足し、功徳は行者の身にみてりであって、いくらつか っても、いつもたくわえられてある本当の力が、仏法の精神主義・恒心であります。 仏様の方から、忘れるな忘れるな、ということが憶念  『曽我量深先生講話集 2』  南無阿弥陀仏というのは、これは、憶念といって、忘れるなということです。忘れるな 忘れるなとね。忘れちゃならん。ですから、こちらが忘れようとしても忘れられない。お 前がいくら忘れようと思っても忘れられないぞと、向うから御催促なさるのです。こっち から仏様に催促するのでないのです。  能称の功をつのるのは、こちらから仏様に催促するのです。「これ仏様、忘れるな」と ・・・・・・。仏様忘れてはなりませんぞと・・・・・・。なあに、仏様は忘れるものか。 忘れるのはこっちの方だ。われわれの方が忘れる。  仏様の方から、忘れるな忘れるな、ということが憶念です。憶念の心。忘れるな忘れる な、と。南無阿弥陀仏ということは、忘れるな忘れるなということです。そして、忘れら れないぞと・・・・・・忘れられないぞということを「憶念の心つねにして仏恩報ずるお もひあり」と言います。 他力救済の本願を憶念 『曽我量深先生講話集 5』  「念仏」という言葉は清沢先生の文章に書いてない。けれども「他力の救済を念ずる」 という言葉がある。「念ずる」ということは、つまり「憶念する」ということ、「憶い出 す」ということである。つまり、他力の救済を憶い出すために、お念仏というものがある。 称名念仏というものがある。それで、清沢先生は、あまり口に出して、他人に聞こえるよ うな称名念仏というものをしておられないのでしょう。けれども、やはり「他力の救済を 念ずる」と−−。  「我、他力の救済を念ずる」ということは、詳しく言えば、「我、他力救済の本願を憶 念する」ことだという意味である。どうして憶念することが出来るか、と言うならば、お 念仏というものがある。そういうことは書いてない。書いてないけれども、それはちゃん とそういうことになっているのですよ。南無阿弥陀仏というお念仏というものがあって、 そのお念仏によって他力救済の本願を憶い出すことが出来る。 『曽我量深選集 3』271頁  龍樹はじめて「称名憶念」の大文字を感得せられた。而して大に称名憶念の大道を鼓吹 せられた。この大道こそは遥に印度民族の血の中に流れ来つた大思想であつた。真実の思 想は所謂思想家なるものゝ頭脳を通過するものでなく、普く凡人の胸を通し、血を通して 流伝し来る。思想家はこの凡人の胸を流るゝものを直感する。この意義に於て龍樹は実の 思想家である。  すなはち龍樹は単に憶念と云はずして、称名憶念と云はれた。この称と念との二者の合 する一点に真実の十方衆生の救ひの道がある。印度民族の胸を貫通する深き内観憶念は遂 に諸仏称名の名号の世界を創造する所の根本的なる如来の本願力に到達したのである。 『曽我量深選集 3』  私は静に憶念の眼を開いて、法蔵菩薩の永劫の歩みを観ぜんと思ふ。