『正信偈』十七 資料 天親菩薩造論説 帰命無碍光如来 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 広由本願力回向 為度群生彰一心 『正信偈大意』  「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」というは、この天親菩薩も龍樹とおなじく千部の 論師なり。仏滅後九百年にあたりて出世したまう。『浄土論』一巻をつくりて、あきらか に三経の大意をのべ、もっぱら無碍光如来に帰命したてまつりたまえり。  「依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 広由本願力回向 為度群生彰一心」というは、こ の菩薩、大乗経によりて真実をあらわす、その真実というは念仏なり。横超の大誓願をひ らきて、本願の回向によりて群生を済度せんがために、論主も一心に無碍光に帰命し、お なじく衆生も一心にかの如来に帰命せよ、とすすめたまえり。  「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」というは、大宝海というは、よろずの衆生をきら わず、さわりなくへだてずみちびきたまうを、大海のみずのへだてなきにたとえたり。こ の功徳の宝海に帰入すれば、かならず大会の数にいるべきにさだまるとなり、といえり。  「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」というは、華蔵世界というは、安養世界のことな り。かの土にいたりなば、すみやかに真如法性の身をうべきものなり、といえる心なり。  「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」というは、これは還相回向のこころなり、弥陀の 浄土にいたりなば、娑婆世界にもまたたちかえり、神通自在をもってこころにまかせて、 衆生をも利益せしむべしといえる心なり。 『曽我量深選集 1』  天親の『唯識三十頌』は仏教史上に於ける最深の自己観である。・・・  『唯識三十頌』は天親菩薩の機の深信の記述であり、『浄土論』の我の一字の註脚であ る。  曠劫已来恒生死流転の現在の自己を以て過去の罪業の果報とすると共に、この過去の罪 業の根本を現在の自己に求め、自己は外の六識に於ては具に善悪無記の諸業を起して賢善 精進の相を現ずると雖も、内には常にマナ識に執蔵せられて煩悩は常に止むことがない。  この深重なる罪悪的自己観は、やがて一心帰命の法の深信の起る所以である。 『曽我量深講義集 2』  法蔵菩薩は一切衆生を自己にをさめて自の体とするのである。  安危は生死であり、苦楽である。死ぬも生きるも衆生と共にする。自分一人悟りを開か うとするのでなく衆生と共に悟りを開かう――これが法蔵魂である。  法蔵菩薩は助ける仏の代表者と一応解釈されるが更に深く掘り下げると我等一切衆生の 代表者である。  私は蔵識即ち阿頼耶識、これが我等の阿弥陀如来の因位の法蔵だと諒解している  蔵識は大菩提心といふものの一つの自覚である。菩提心の自覚といふものの主体、自覚 の体、それがつまり阿頼耶識である。  自分が仏にならう、一切衆生を救はう、かういふ大菩提心の自覚の原理となるものが阿 頼耶識である。  大体において阿頼耶識の根本をついてみると、やはり法蔵菩薩といふのと同じ意義をも つものに違ひないと思ふ。 如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり  『曽我量深選集 2』  されば法蔵菩薩は決して一の史上の人として出現し給ひたのではない。彼は直接に我々 人間の心想中に誕生し給ひたのである。十方衆生の御呼声は高き浄光の世界より来たので はなく、又一定の人格より、客観的に叫ばれたのではない。彼の御声は各人の苦悩の闇黒 の胸裡より起つた。法蔵菩薩の本願を生死大海の船筏と云ふは、御呼声が我が胸底我が脚 下より起りしことを示すものである。 『曽我量深選集 3』  『大無量寿経』重誓偈  これは釈尊を発遣したる印度民族の誓願の表現の教声である。我等は釈尊の還相に表現 回向せられたる印度民族の無意識なる内性を知らねばならぬ。この無意識的なる民族の血 の教が、茲に選択回向せられて釈尊の個性の行となつたのである。釈尊はかゝる久遠甚大 の民族の使命に発遣せられて誕れ給ひた。 確然たる祖先の血の流れである。すなはち「恒に転ずる事暴流の如き」阿頼耶識の大河で ある。まことに教主釈尊の還相に表現せる、印度民族の全人類的民族としての使命はかく 甚大であつたのである。 『曽我量深選集 3』  南無阿弥陀仏、是は三千年前の印度民族の叫びで、又七百年前のわが祖先の叫びである。 而して私は此叫と共に、此原始人の叫を始めて聞かれたる釈尊や親鸞の深き驚嘆の声を、 唯一声の念仏によりて味ひます。 『曽我量深選集 3』  南無阿弥陀仏は印度民族の産んだ唯一最大の法である。人は釈尊、法は南無阿弥陀仏で ある。一小動物たる人間は此念仏の自覚と共に宇宙の大生命と一体となる。南無阿弥陀仏 の体現者なる釈尊を産出せる印度民族は永久に滅亡しないのである。此南無阿弥陀仏を産 出する為めに、彼民族は如何に多くの精神界の犠牲を出したか、九十五種の外道は畢竟そ の裡の著明なるものに過ぎぬ。九十五種の外道は菩薩因位の痛々しき御姿であつた。  南無阿弥陀仏は釈尊の心霊の隠彰の説法でありた。又隠彰の行であり、隠彰の信証であ つた。その唯我独尊の誕生偈も、法身常住の涅槃の説法も、畢竟南無阿弥陀仏の自覚の一 面を表現したものに過ぎない。