『正信偈』十八 資料 広由本願力回向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死薗示応化 『正信偈大意』  「依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 広由本願力回向 為度群生彰一心」というは、こ の菩薩、大乗経によりて真実をあらわす、その真実というは念仏なり。横超の大誓願をひ らきて、本願の回向によりて群生を済度せんがために、論主も一心に無碍光に帰命し、お なじく衆生も一心にかの如来に帰命せよ、とすすめたまえり。  「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」というは、大宝海というは、よろずの衆生をきら わず、さわりなくへだてずみちびきたまうを、大海のみずのへだてなきにたとえたり。こ の功徳の宝海に帰入すれば、かならず大会の数にいるべきにさだまるとなり、といえり。  「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」というは、華蔵世界というは、安養世界のことな り。かの土にいたりなば、すみやかに真如法性の身をうべきものなり、といえる心なり。  「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」というは、これは還相回向のこころなり、弥陀の 浄土にいたりなば、娑婆世界にもまたたちかえり、神通自在をもってこころにまかせて、 衆生をも利益せしむべしといえる心なり。 『尊号真像銘文』  「世尊我一心」というは、世尊は釈迦如来なり。我ともうすは、世親菩薩のわがみとの たまえるなり。一心というは、教主世尊の御ことのりをふたごころなくうたがいなしとな り。すなわちこれまことの信心なり。  「帰命尽十方無碍光如来」ともうすは、帰命は南無なり。また帰命ともうすは、如来の 勅命にしたがうこころなり。尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。こ の如来は光明なり。尽十方というは、尽はつくすという、ことごとくという。十方世界を つくして、ことごとくみちたまえるなり。無碍というは、さわることなしとなり。さわる ことなしともうすは、衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。光如来ともうすは、阿弥陀仏 なり。この如来はすなわち不可思議光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。十方微 塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり。  「願生安楽国」というは、世親菩薩かの無碍光仏を称念し、信じて安楽国にうまれんと ねがいたまえるなり。 五念門 『浄土論』  云何が観じ、云何が信心を生ずる。  若し善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、彼 の阿弥陀仏を見たてまつることを得。  何等か五念門。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には廻 向門なり。  云何が礼拝する。身業をもて阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。彼の国に生 ずる意を為すが故なり。  云何が讃歎する。口業をもて讃歎したてまつる。彼の如来の名を称するに、彼の如来の 光明智相のごとく、彼の名義のごとく、如実に修行して相応せむと欲するが故なり。  云何が作願する。心に常に願を作し、一心に専ら畢竟じて安楽国土に往生せむと念ず。 如実に奢摩他を修行せむと欲するが故なり。  云何が観察する。智恵をもて観察し、正念に彼を観ず。如実に毘婆舎那を修行せむと欲 するが故なり。彼の観察に三種有り。何等か三種。一には彼の仏国土の荘厳功徳を観察す。 二には阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三には彼の諸菩薩の功徳荘厳を観察す。  云何が廻向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に願を作し、廻向を首と為す。 大悲心を成就することを得むとするが故なり。 五功徳門 『浄土論』  一には近門(礼拝門)、二には大会衆門(讃歎門)、三には宅門(作願門)(入蓮華蔵 世界)、四には屋門(観察門)、五には園林遊戯地門(廻向門)なり。  初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す。  入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝し、彼の国に生ぜむと為すを以ての故に、安楽世界に生 ずることを得。是を入第一門と名づく。  入第二門とは、阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相に 依りて修行するを以ての故に、大会衆の数に入ることを得。是を入第二門と名づく。  入第三門とは、一心専念に彼に生ぜむと作願し、奢摩他寂静三昧の行を修するを以ての 故に、蓮華蔵世界に入ることを得。是を入第三門と名づく。  入第四門とは、専念に彼の妙荘厳を観察し、毘婆舎那を修するを以ての故に、彼の所に 到りて種種の法味楽を受用することを得。是を入第四門と名づく。(二十九種荘厳)  出第五門とは、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、 煩悩の林の中に廻入して遊戯し、神通をもて教化地に至る。本願力の廻向を以ての故なり。 是を出第五門と名づく。  菩薩は入の四種の門をもて自利の行成就す、知るべし。  菩薩は出の第五門の廻向をもて利益他の行成就す、知るべし。  菩薩は是くのごとく五門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就 することを得る故なり。 「信巻」  私に三心の字訓をいかがうに、三はすなわち一なるべし。・・・  明らかに知りぬ、「至心」はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わること なきなり。「信楽」はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心 なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「欲生」 はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なるがゆえに、疑蓋 雑わることなきなり。  今三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑 わることなし。  真に知りぬ、疑蓋間雑なきがゆえに、これを「信楽」と名づく。「信楽」はすなわちこ れ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに「一心」と言える なり、と。知るべし。 天親の一心帰命が善導の二種深信となる  『曽我量深講義集 1』  人が皆、自分の足で立つのが南無阿弥陀仏と云ふことで、他力信心とは本願を対象とし て信ずる信心でなく他力より廻向された信心である。他力を信ずるのでない。仏は縁であ つて涅槃の真因は唯信心を以てするのである。仏をとほして一切衆生を荷うてゐるのであ る。  大体念仏は往生の方に向つてゐる、目的に向つて歩いてゐるが信は行と方向を異にして ゐる。信はそのよつて来たる因を掘り下げて止まぬ。行は往生することを目ざしてゐるが 信はさうでなくそのよつて来たる内面背景にその眼は注がれてゐる。行は往生の果に向ひ 信はその反対にそれのよつて来たる本願に方向してゐる。たゞ信だ行だと云ふのでなくそ の眼の向けどころを注目する必要がある。こゝに天親の一心帰命が善導の二種深信となり、 親鸞の三願転入と展開されて来る所以がある。深く深く自己を掘り下げると無縁大悲まで 至る。  そこに真実の機の深信がある。これは法蔵菩薩に通ずるものである。自分には何等の手 段もない、その機の深信から法の深信が湧き出して来る。今は親鸞を決定せしむることが 親鸞一人がためなりけりと仰せられることに本願成就がある。本願成就して今日がある。 ほんとに力のないところに判然と自己をそこに置いて安住のところを見出した。そこに無 上涅槃がある。限りなく自己を否定し徹底して行くところに無上涅槃が感得されるのであ る。機の深信がほんとに地獄一定と驚かぬところに大涅槃の境地がある。一切衆生と真実 感応できるところが無上涅槃といふものでなからうか。謙虚に自己を掘り下げてそこに安 住ができるとそこには恐れも後悔もないといふのが機の深信でなからうか。 『曽我量深選集 9』  一心は、すなわち帰命尽十方無碍光如来である。帰命尽十方無碍光如来が一心である。 それを、広大無碍の一心と名づけるのである。だから、広大無碍の一心の中に、往相も還 相もすべておさめて、余すところがない、ということを言うておるわけでございます。  「論主は、広大無碍の一心を宣布し、普遍く雑染堪忍の群萌を開化す」。これがすなわ ち「群生を度せんが為に一心を彰はす」。論主は、意識して「群生を度せんが為の一心で ある」と、こういうようなことを意識しておっしゃるわけではありません。論主は、どこ までもご自身の安心を表明なされて、「世尊、我一心帰命尽十方無碍光如来」とおおせな されたのでありますが、これはどこまでも論主の私の一心帰命でなくて、広大無碍の如来 のご廻向の一心である。広大無碍の一心である。その一心を宣布なされた。・・・  わたくしどもが、如来の廻向によって、天親菩薩と同じように一心帰命するというのは、 全く如来の本願力廻向によるのである。 『曽我量深選集 10』  畢竟するに五念門全体が一心の内容であると云ふことを明かにすることに依つて、一切 の疑問は氷解せらるゝことと思ひます。・・・  身業と云ふも口業と云ふも意業と云ふも総て一つであります。自利々他もすべて一つで あります。之れ即ち曇鸞が帰命即ち礼拝なり、尽十方無礙光如来は即ち讃嘆なり、願生安 楽国は作願門なり、天親菩薩の帰命の心なりと解せられた所以であると思ひます。  されば五念門は、之を詮じつめれば何れにも、摂することが出来るのでありませうけれ ども、其最直接なる表現としては讃嘆の一行であります。而して此廻向なることは如何な ることであるかと申しますれば、現代に広く行はれてゐる表現と云ふ意味であります。真 実の廻向は表現の廻向である。其廻向表現の最も直接なるものは、讃嘆の一つである。  斯の如くにして、五念門は信の表現として、又信の内容として、唯称名讃嘆の一つに摂 るのであります。全体此言語と云ふものは迷の根本であります。世の中に若し言語なかり せば、人生の苦痛若くば罪悪は殆んど存在せないものであらうと思ひます。言語の無い世 界と云ふことを考ふる時には、其処に何等の罪悪をも考ふることが出来ないのであります。 けれども救済と云ふことも亦言語に依るのである。若し言語なるものが無かつたならば、 一面には此人間は仏から捨てられないものでありませう。けれども若し真実の言語がなか りせば、人間は喜び仏の光明の中に還へることは出来ないのでありませう。 『曽我量深選集 6』  法蔵菩薩はどんな方か。  我れこそ法蔵菩薩であるとはいはれぬ。  「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あ ることなし」と深き自覚をもつてゐる主体が法蔵菩薩であり、それが阿弥陀如来となつた のであつて、我れこそは法蔵菩薩なりと名のりあげた人は阿弥陀如来にはならぬ。  法蔵菩薩は本当に責任を重んじ、一切衆生の責任を自分一人に荷ふ感覚の深い方である。 一切衆生の足で蹴られ踏みにじられても腹を立てぬ方が法蔵菩薩である。不可思議兆載永 劫の御修行とはこれをいふ。  礼拝等の五念門、三信を開いて五念とすることはこの前に話したが、三信の誓ひを立て られた法蔵菩薩は不可思議兆載永劫に五念門の修行をなされた。  五念の行は第一は礼拝次は讃嘆次は作願である。未来のために隠忍して何といはうと他 人の惑はしにかゝらぬ、これが法蔵菩薩、法蔵魂、法蔵精神である。  浄土真宗は法蔵精神を感得するものが浄土真宗である。浄土真宗に生をうけてゐるもの はみな法蔵魂を感得せねばならぬ。 一心 『真宗宗祖伝』  一心とはいうなれば一如に遇うた心、如来にふれた心である。しかし如来に触れること は単に如来が明らかになることではない。寧ろ我が明らかになること、・・・  人間の回復が一心の問題である。願に触れて始めて我というものが見出される。我を見 出すといっても、我々の思っている我ではない。・・・我は一心の自覚をあらわす。一心 の主体は我であって、我は一心に於て成立つのである。我が見つからねば流転もなく、解 脱もない。想像の上に無上仏道を成就することはできない。そういう私自身を見出す自覚 を一心というのである。  主観に対する客観、それらはすべて意識構造の対立であるが、それが現実と自分との対 立として受取られている。天親が一心といわれるような心はこういう二の心ではない、対 立のない心であろう。しかし二を捨てて一というのではない。一になろうとする心には却 って一はない。二を自覚する、つまり心の構造に二を自覚した時、自己と世界との二は消 えるのである。  こういう心を無分別智ともいう。  天親の一心はこういう意義をもっている。真宗に於ても信心が智慧という意義を持つと いわれるのも、こういうところから考えられねばならぬ。宗祖は「信心の智慧」といわれ る。宗祖は天親の一心のところに、念仏の信心が仏道の原理である智慧、無分別智の成就 を御覧になったのであろう。念仏の信心こそ真に仏道の成就であるという証明を見出され ることは念仏にとって大きな課題でもあり、天親の一心はこの問題に重要な位置を持つも のといってよい。 信楽とは疑いがない、疑蓋無雑ということである。だから天親の一心というものは信楽、 それを『観経』では二種深信と善導があらわされた。宗祖は深信を深く信ずる心といわれ たのは、本願の三心に照らすからである。 いうなれば人間から真如への方向でなくて真如から人間への方向であろう。一如を証した 心が一心であるが、一心でない心が一如を証することはできぬ、一如を証する心は一如の 心である。始めて人間の上に一如が開かれた、それを一心見道というのである。 仏法の智慧は、すべてのものを知るということは必要としない。自分が明らかになれば、 総てのものは正しく明らかになってくる。同時に解ったということが助かったことである。 そういう意味で仏法の智慧には解脱ということが必ず伴う。智慧と解脱とが二つあるわけ でない。解脱を伴っている智慧である。そういう智慧が人間の上に成就したのを一心とい う。  浄土は一心によって開かれた世界である。それを表明されたのが『浄土論』の二十九種 荘厳である。・・・純粋な世界は純粋な信心に開かれる。・・・三界というのは自覚的に いうなら人間世界であろう。勝過三界は人間を超えた世界、それであればこそ人間が安ん ずる世界である。それは人間の理想的世界ではない。・・・人間というものを完全に廻転 した世界、まったく人間が質的に転換された世界である。 『曽我量深講義集 8』  仏荘厳も国土荘厳も彼岸の世界の光景のみであり、向うの方の世界のことが書いてある ようだが、最後の功徳を説く時に当り、仏の本願力の功徳を説き、この仏の世界は単なる 彼岸のことではなくて、彼と此の二つを統一し、二つを超えて二つを貫通する荘厳である ことを明らかにした。今までは荘厳が静止していた。ただ静止している荘厳に過ぎなかっ た。不虚作住持功徳つまり本願力となると、動的になって、その荘厳が近く我々の世界を 包むようになる。それまでは向う岸のことであった浄土荘厳が、この世界と接触してこの 世界を包む。現実として浄土がこの世を包む。観念としてではない。つまり言ってみれば 浄土が近付いた。近門――。五功徳門の第一番近門、これは五念門の第一の礼拝行を成就 する門である。近門というと浄土に近付く、こちらから浄土に近付くように考えるが、そ うではなくて浄土が近付いて来た。仏の本願力に依って浄土が近付いて来た。  近門とは浄土が近付くこと。一心に如来に帰命する時に浄土が近付いた。如来の本願を 念じて我我が如来に一心に帰命する時には浄土が、遠い浄土が近付く。こちらから向うへ 行こうとすれば浄土は遠い。如来の願力に乗ずれば浄土は目前に在り。浄土は娑婆を包む ものである。仏功徳の第八種・不虚作住持功徳の「能く速やかに功徳の大宝海を満足せし む」とは未来を待たぬ。現生に於いて如来の廻向に依って、南無阿弥陀仏に依って、如来 の満足を我々の上に廻向成就せしめ給う。これを如来の御助けという。