『正信偈』二十一 曇鸞大師 一 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦 曇鸞大師(AC.476−542)67歳  南北朝時代 AC.386−589    北朝      北魏・孝文帝−東魏〈西魏・文帝〉      北魏 AC.386−435      北魏分裂 AC.435      東魏−北斉 AC.550      西魏−北周 AC.557    南朝      宋  420−479      梁  502−557      陳  557−589 『高僧和讃』  世俗の君子幸臨し   勅して浄土のゆえをとう   十方仏国浄土なり   なにによりてか西にある  鸞師こたえてのたまわく   わが身は智慧あさくして   いまだ地位にいらざれば   念力ひとしくおよばれず 『浄土和讃』  南無阿弥陀仏をとなうれば   この世の利益きわもなし   流転輪回のつみきえて   定業中夭のぞこりぬ 『正信偈大意』  「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼」というは、曇鸞大師はもとは四論宗のひとなり。 四論というは、三論に『智論』をくわうるなり。三論というは、一つには『中論』、二つ には『百論』、三つには『十二門論』なり。和尚はこの四論に通達しましましけり。これ によりて梁国の天子蕭王は御信仰ありて、おわせしかたにつねにむかいて、曇鸞菩薩とぞ 礼しましましけり。  「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」というは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にてお わせしが、仏法のそこをならいきわめたりというとも、いのちみじかくは、ひとをたすく ることいくばくならんとて、陶隠居というひとにおうて、まず長生不死の法をならいぬ。 すでに三年のあいだ仙人のところにしてならいえてかえりたまうに、そのみちにて菩提流 支ともうす三蔵にゆきあいてのたまわく、「仏法のなかに長生不死の法は、この仙経にす ぐれたる法やある」とといたまえば、三蔵、地につばきをはきていわく、「この方にはい ずくのところにか長生不死の法あらん、たとい長年をえてしばらく死せずとも、ついに三 有に輪回すべし」といいて、すなわち浄土の『観無量寿経』をさずけていわく、「これこ そまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれてはかりな き命をうべし」とのたまえば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちにやきすて、 一向に浄土に帰したまいけり。 長生不死の神方  「信巻」 顕浄土真実信文類三  謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。  大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広 の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信 の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。  この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく。また本 願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。 しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲 ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧 の力に因るがゆえなり。  たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆 生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。 『曽我量深選集 3』  如来の無量寿は無縁大悲の本である。光明は現実の闇に対する所の一如の平面であるが 寿命は直に現実の十方衆生の寿命と同根である。一如の寿命は現実の衆生界の寿命の根原 である。  まことに光明は現実に対して、現実に反映して、明に明と暗と、浄と穢と、楽と苦と、 悟と迷とどこまでも相対の域を超ゆることが出来ぬのである。かくどこまでも能照所照の 相対的関係を以て理想と現実とを分析する限りは二者共に抽象観念に過ぎないのである。 明と暗との相対は已に還相の方便荘厳の教の相である。  されば一切の相対を超へて、一切を摂取するものは無縁大悲の寿命の本願である。此寿 命を顕はすものが光明である。  光明無量は観念界の十方諸仏を摂取し、寿命無量は正しく現実の十方衆生の生命を摂取 す。  我々は単なる光明の力に救はれることは出来ぬ。光明に対しては現実の人間愛は迷の闇 である。人間の現実的愛執力は唯如来の大悲本願にのみ摂取せられて、幻の人生の上に無 限の生命を得る。  まことに一如の大悲本願は十方衆生の真実の寿命である。此を真心と云ひ、一心と云ひ、 至心と云ひ、衆生心と云ふ。又一念と云ふ。  如来の光明に照破せられて、罪悪生死の凡夫たりし我々は、かへりて直に貪愛瞋憎の意 欲そのまゝに一如の大意欲に摂取せられて、直に専修念仏の大行の表現となる。  光明の理想は人生を根底より否定し、寿命無量の本願は現実人生をあるがまゝに肯定す る。  現実の真の肯定は極難信の法である。  現実の肯定には必ず現実否定の深い背景がなければならぬ。否定の至極に肯定の発端が ある。茲に光寿二無量を大悲の本とすると云ふ意義が少しく味はゝれるのである。  まことに貪欲瞋恚は唯その生起せんとする端的の一点を肯定するのである。肯定は断じ てそれ以上に及ばない。それ以上は悉く自己弁護である。  光明無量の一如の浄鏡の前に立つて、わが虚偽の生活を反省する時、誰かその厳粛悲痛 の感に打たれないものがあらふ。而も此時彼の内面から「汝」と招喚せらるゝ時、誰かそ の大悲に感激して起たんと欲せぬものがあらふ。光の一如の前に悪魔外道であつた我は寿 命の一如の懐中の寵児である。