『正信偈』二〇 資料 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還回向由他力 正定之因唯信心 蓮如『正信偈大意』  「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願」というは、かの鸞師、天親菩薩の『浄土論』に『 註解』というふみをつくりて、くわしく極楽の因果一々の誓願をあらわしたまえり。  「往還回向由他力 正定之因唯信心」というは、往相還相の二種の回向は、凡夫として はさらにおこさざるものなり、ことごとく如来の他力よりおこさしめられたり。正定の因 は信心をおこさしむるによれるものなりといえり。 『論註』三願的証  問いて曰く、何の因縁ありてか速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得と言え る。  答えて曰く、論に五門の行を修して、自利利他成就するを以ての故なりと言えり。  然るに覈に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁と為す。他利と利他と談ずるに左右 あり。若し仏よりして言わば、宜しく利他と言うべし。衆生よりして言わば、宜しく他利 と言うべし。  今将に仏力を談ぜんとす。是の故に利他を以て之を言う。当に此の意を知るべし。  凡そ是彼の浄土に生ずると、及び彼の菩薩人天の所起の諸行とは、皆阿弥陀如来の本願 力に縁るが故なり。何を以て之を言うとなれば、若し仏力にあらずは、四十八願便ち是徒 設ならん。  今的らかに三願を取りて、用て義の意を証せん。  (18願)願に言わく、設い我仏を得んに、十方の衆生、心を至して信楽して我が国に 生ぜんと欲して、乃ち十念に至るまでせん。若し生ずることを得ずは、正覚を取らじ。唯 五逆と誹謗正法とを除くと。    仏願力に縁るが故に十念の念仏をもて便ち往生を得。往生を得るが故に、即ち三界 輪転の事を勉る。輪転なきが故に、所以に速やかなることを得る一の証なり。  (11願)願に言わく、設い我仏を得んに、国の中の人天、正定聚に住して必ず滅度に 至らずは、正覚を取らじと。    仏願力に縁るが故に正定聚に住す。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至りて、諸 の廻伏の難なし。所以に速やかなることを得る二の証なり。  (22願)願に言わく、設い我仏を得んに、他方仏土の諸の菩薩衆、我が国に来生せば 、究竟して必ず一生補処に至らん。其の本願の自在に化せんとする所ありて、衆生の為の 故に、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、 十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんをば除 く。常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。若し爾らずは、正覚を取らじと。    仏願力に縁るが故に、常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。常倫諸 地の行を超出するを以ての故に、所以に速やかなることを得る三の証なり。  斯を以て推するに、他力を増上縁と為す。然らざることを得んや。 『浄土論』の回向 1, 何等か五念門。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には 回向門なり。 2, 云何が回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に願を作し、回向を首と為す。 大悲心を成就することを得むとするが故なり。 3, 菩薩の巧方便回向とは、謂はく、説ける礼拝等の五種の修行をもて集むる所の一切の 功徳善根は、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かむと欲するが故に、一切衆生を 摂取して共に同じく彼の安楽仏国に生ぜむと作願するなり。是を菩薩の巧方便回向成就と 名づく。 4, 出第五門とは、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、 煩悩の林の中に回入して遊戯し、神通をもて教化地に至る。本願力の回向を以ての故なり。 是を出第五門と名づく。 『論註』  問いて曰く、何の因縁ありてか速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得と言え る。答えて曰く、論に五門の行を修して、自利利他成就するを以ての故なりと言えり。  然るに覈に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁と為す。他利と利他と談ずるに左右 あり。若し仏よりして言わば、宜しく利他と言うべし。衆生よりして言わば、宜しく他利 と言うべし。今将に仏力を談ぜんとす。是の故に利他を以て之を言う。当に此の意を知る べし。  凡そ是彼の浄土に生ずると、及び彼の菩薩人天の所起の諸行とは、皆阿弥陀如来の本願 力に縁るが故なり。何を以て之を言うとなれば、若し仏力にあらずは、四十八願便ち是徒 設ならん。 『論註』五功徳門(五念門)  入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅 三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已るは、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆 の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の 屋宇に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ 菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。「この五種の門は、初 めの四種の門は入の功徳を成就したまえり。第五門は出の功徳を成就したまえり」(論) とのたまえり。 「行巻」  他力というは如来の本願力なり。 『高僧和讃』  弥陀の回向成就して   往相還相ふたつなり   これらの回向によりてこそ   心行ともにえしむなれ  往相の回向ととくことは   弥陀の方便ときいたり   悲願の信行えしむれば   生死すなわち涅槃なり  還相の回向ととくことは   利他教化の果をえしめ   すなわち諸有に回入して   普賢の徳を修するなり 『御消息善性本』  安楽浄土にいりはつれば、すなわち、大涅槃をさとるとも、滅度にいたるとももうすは、 み名こそかわりたるようなれども、これはみな法身ともうす仏となるなり。法身ともうす 仏をさとりひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかいを、法蔵菩薩われらに回向したまえるを、 往相の回向ともうすなり。  この回向せさせたまえる願を、念仏往生の願とはもうすなり。この念仏往生の願を一向 に信じてふたごころなきを、一向専修ともうすなり。  如来の二種の回向ともうすことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真 実の信心ともうす。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからいより おこりたりとしらせたまうべく候う。 『御消息集(広本)』  一念のほかにあまるところの念仏は、十方の衆生に回向すべし 『御消息集(広本)』  念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために 念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。  往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。  わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために 御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、 おぼえ候ふ。 真玄師「玄義分偈頌」  今は回向の義につきて心得べし。聖人は「往還回向由他力」と顕わしましまして、自利 利他満足の法体に本より往還は成就したまい、それをして「令諸衆生功徳成就」し施与ま しましたるなれば、我しらずして自然と何事も何事も仏の本願力よりはからわせたまう上 なれば、往も還も此<ココ>も彼<カシコ>も知らずして、たすかるまじき身の本願力の不思 議ゆえに、往生の成就満足したることの喜び楽しむようになりたるを回向というなり。  其の例を論文に「一切の苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願し、回向を首と為して、 大悲心を成就することを得るが故に」とのたまいて、この回向を首として大悲心を成就し たまう処の信心をうるがゆえに回向というぞと判じたまうなり。兎角この信心一つを得さ せんがためなり。 真玄師「玄義分偈頌」  「願」というは本願なり、「功徳」とは本願の名号なり。「発菩提心」とは、浄土の大 菩提心・願作仏心なり。これ他力なり。これを回向という。回向と願と語路はかわれども、 その意、全く一つなり。  阿弥陀如来の本願、即ち衆生の願なり。衆生の願、即ち仏の願なり。然れば人々の方に おこる処、即ち阿弥陀仏の本願なり。即ち安楽国に生ずるの欲生心のおこるは、これ本来 回向せられてあるゆえなり。仏の方よりいえば回向という、衆生の方よりいえば願という。 故に願心のままになるを信心という。即ち是れ本願回向なり。ここを以て機法一体の南無 阿弥陀仏というなり。 「相伝義書 5」  然ればこれ、大悲心より廻向を首とし成就したまい、苦悩の衆生を捨てずしてあわれみ たまうは、往相なり。本願力より種種の身等を現じて利他教化するは、還相なり。 「相伝義書 5」  喩えば、一切のものの種を地にうゆるときは実とならんことを期し、実となりては種と ならんことを期す。種となりて地にうゆると云うは、如来の他力往相廻向なり。実となり て種とならんことを期すというは、還相廻向のこころなり。 『大本私考』「相伝義書 8」  「常に能くその大悲を修行する者なり。深遠微妙にして覆載せずということなし。」( 大経)  「大悲」とは、本仏弥陀の大悲を伝えて、普く化したまうぞとの御指南なり。これ教化 地還相の菩薩たることを示したまう御手引なり。  然れば、「其(その)」とさすは、弥陀仏の大悲ぞとなり。大悲を修行するとは、伝え て普く化したまうの義なり。現生十種の益の中に「常行大悲益」とあるも、此の経文によ りたまうなり。現生十種の益は、信心にそなわる徳益なれば、常行大悲の義なり。 『行信の道』曽我量深  自分の子供に先立たれた人は、自分の幼い子だけれども、自分に生死無常を知らしめ、 如来の本願に気ずかせるために、自分の子供が親に先立つて亡くなつたのである。それは 自分に対する善知識である。即ち還相回向である。それは人間は死ねば還相回向と云うこ とはある。生きていると、子供はうるさいことを云うものだから還相回向などと思えない こともある。けれども、子供が死んだから初めで還相回向と云うわけではなくて、とに角 親が子供に教えられたなら、たとえ、その子供が生きておつても、その子供を還相回向と 見ることが出来ないと云うわけではなかろうと思う。だから、相手が生きていようがいま いが生死にかかわらず、それを還相回向と見ると云うことは、一つの歴史観と云うもので ありましよう。生きていても、矢張り如来の本願の一つの歴史を作つておると、生死にか かわらず、相手の人を還相回向だと見ることが必ずしも出来ないわけでもなかろうと思わ れる。 『曽我量深講義集 2』  往相はお浄土へ参ることであり、還相はお浄土から還つて来ることである。さうすると 今日はお浄土参りで往相にちがひない。それなら一体、お浄土から還つて来る人はどんな 人であらう。いつ還相するのか。私達の目の前で、お浄土から還つて来た人はどの人か。 還つて来ないとなると、お浄土はないことになる。  それは何かの意味で、皆お浄土から還つて来たといふことにならねばならぬ。釈尊の時 代について見ても、提婆の様な悪人でも、仏法否定の面から仏法を輝かしてゐる還相の菩 薩である。 『曽我量深選集 4』  五劫の思惟には彼を比丘と呼び、永劫の修行には彼を菩薩と記してある。前者は往相の 行者であり、後者は還相の菩薩である。  その還相を説くのは罪業の深重を明して、その罪業の深重に対して、如来の功徳の不可 思議なるを翻顕せんがためであらう。  衆生に八万の煩悩あるが故に諸仏に八万の徳相が成就円満せることが明になる。これが 永劫の第二義的修行を開いて、本願力回向の意義を明にし、罪の自覚が衆生の救済の門で あることを明にして、極難信の理由を示すものである。それは畢竟五劫思惟の浄土荘厳の 後景を示し、純粋願心の思惟反省の相を明にするものである。