『正信偈』二十一 資料 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化 正信偈大意  「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」というは、一念の信おこりぬれば、いかなる惑染 の機なりというとも、不可思議の法なるがゆえに、生死すなわち涅槃なり、といえるここ ろなり。  「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」というは、聖人弥陀の真土をさだめたまうとき、 「仏は不可思議光なり、土はまた無量光明土なり」といえり。かの土にいたりなばまた穢 土にたちかえり、あらゆる有情を化すべし、となり。 『浄土論註』  問いて曰く、若し無礙光如来の光明無量にして、十方国土を照らすに障礙する所なしと 言わば。此の間の衆生、何を以てか光照を蒙らざる。光、照らさざる所あらば、あに碍あ るにあらずや。  答えて曰く、碍は衆生に属す。光の碍にはあらず。譬えば日光は四天下に周けれども、 盲者は見ず、日光の周からざるにはあらざるが如し。また密雲のおおいにそそげども、し かも頑石の潤わず、雨の洽〈うるお〉さざるには非ざるが如し。 「信巻」  信に知りぬ。至心・信楽・欲生、その言異なりといえども、その意惟一なり。何をもっ てのゆえに、三心すでに疑蓋雑わることなし。かるがゆえに真実の一心なり、これを「金 剛の真心」と名づく。金剛の真心、これを「真実の信心」と名づく。真実の信心は必ず名 号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」 と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃  科の「往相益」は、『論』の入の四門なり。「惑染」とは、理に惑い、事に惑う故に云 々。猶、着執す、是れを染と為す。「惑」は謂わく、迷惑、其の体は煩悩なり。「染」は 謂わく、染汚なり。煩悩不浄なればなり。凡夫の迷道なり。「内、惑障を起し、外に五塵 に染す、故に惑染凡夫という」と。『略本』には、「煩悩成就の凡夫人 信心開発すれば すなわち忍を獲」文と。『二門偈』には、「煩悩成就凡夫人」と因果所被の機を挙げたま えり云々。  「信心」は、「広大無碍浄信」ともいえり。「発」とは可発の機なり云々。  「証知」とは『論註』に云わく、「『経』にいわく、十方無碍人の一道より生死を出ず といえり。一道とは一無碍道なり。無碍とは、いわく、生死すなわちこれ涅槃と知るなり。 かくのごときら入不二の法門は、無碍の相なり」文。  「証知」は不二の法門に入るをいう。不二の法門とは即ち是れ仏智の所証なり。『二門 偈』に「煩悩を断ぜずして涅槃を得しむ、すなわちこれ安楽自然の徳なり」文と。  今この二句は、日出でて闇なき喩を以て伺うべし云々。「惑染」は迷の因、「信心」は 悟の因なり。生死は迷の果、涅槃は悟の果なり。尚又、「報土因果」と云うより、これま での間、句中に悉く因果あり。「正定」「証知」「涅槃」、これらは果なり。「唯信心」 「信心発」は因なり云々。 『正信念仏偈科文意得』「相伝義書 3」     必至無量光明土 諸有衆生皆普化  科の「還相益」は二十二願なり。『論』の五念門、出相の下と見合わすべし。・・・  「皆普化」は万機普益を挙げたまうなり。「行巻」に「大悲の願船に乗じて、光明の広 海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、すみやかに 無量光明土に到る、大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり」文。 『一念多念文意』  凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そね み、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、た えずと、水火二河のたとえにあらわれたり。 『論註』  彼の名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲すとは、彼の無礙光如来の名号は、能 く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。  然るに名を称し憶念すれども、無明由在りて所願を満てざる者あり。何となれば、如実 に修行せず、名義と相応せざるに由るが故なり。云何が如実に修行せず、名義と相応せざ ると為すとならば、謂く、如来は是実相身なり、是為物身なりと知らざればなり。  又三種の不相応あり。一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるがごとき故なり。二 には信心一ならず、決定なきが故なり。三には信心相続せず、余念間つるが故なり。此の 三句展転して相成ず。信心淳からざるを以ての故に決定なし。決定なきが故に念相続せず。 『論註』  名をば法の指と為す。指をもて日(月)を指すがごとし。若し仏の名号を称するに便ち 願を満つることを得といはば、日(月)を指す指、能く闇を破すべし。 『略本私考』「相伝義書 5」  最初の一念往生極楽を願う心の発起するからが全く自力に非ず。  往生の願心は発しながら、定散心に止まりて迷う間も、その機に随い威神力を加えたま う。  仏智は衆生愚癡の心内に遍満したまい、無明の闇を残らず破し尽くしたまう。 『略本私考』「相伝義書 5」 「信心開発」  「開発」とは、今更なきものの始めてあらわるるに非ず。  本より「煩悩成就凡夫人」に、往還二種の廻向を成就してあたえたまう功徳のあらわる るを、「開発」と云うなり。  「為衆開法蔵 広施功徳宝(衆の為に法蔵を開き 広く功徳の宝を施し)」たまうこと わりの顕わるを「開発」と云うなり。故に、その即時獲忍なり云々。 「証知生死即涅槃」  「生死」は迷いの境界なり。「涅槃」は悟りの境界なり。迷悟大きに別なるようなれど も、その体は不二なり。  喩えば、水と波との如し。不変の水無明の風によりて生死の波となれども、その心性は いつも不変なり。これ大乗の常の法門にして、その理はしれども、無明の風をしずめるこ とはかなわぬなり。  故に、今のたまう処は、この生死涅槃迷悟の境界は、凡夫のしるところに非ず、「証知 せしむ」と訓点して、「生死即涅槃」とは、本願の上に証りてしらしめくださるるぞとな り。  故に、仏智心より、生死を即涅槃となしましまして、曽て機の上に弁えて証知せよと云 う義には非ず、凡夫の方にはいつも生死迷境のありさまなれども、仏の方よりは涅槃の境 となしたまうなり。凡心の方は愚癡にして、善悪邪正をも曽てしらざるが実となり。然る に、この凡心をそのままにて、仏智を以て永劫に修行して、「生死即涅槃」と証知したま う廻向成就の御名を、南無阿弥陀仏と顕わしたまうことを、我人は信ずるばかりなり。こ れ、証知せしめ下さるるなり云々。 『略本私考』「相伝義書 5」  「煩悩を断ぜ令めずして、速かに大涅槃を証したまえり。」  不退転地をうれば、必至滅度なり。煩悩無体全依法性なれば、煩悩もと無体なれども、 一心染法に縁起せられて、法性を具して迷えり。  常没の凡夫は、無際より以来、更に生死とも煩悩ともしらで沈没せり。今日今時に至り て、生死ぞ煩悩ぞとしることもただごとに非ず。菩提涅槃は今以て曽て知らねども、他力 廻向の虚しからざる故に、煩悩としり生死と云うことをしるが生死即涅槃、煩悩即菩提の 利益ということなり。煩悩具足と信知すること、大かたならざる大悲廻向のあらわれゆえ なり。  凡夫面々終日通霄三毒をもととして、煩悩妄念不断なれども、本願を信知する利益に預 かるなり。機を信ずるか法を信ずるか、信知するところにはかわりあれども、本願に相応 するところは、更に相かわらぬなり。不退転地を得て煩悩を断ぜしめず、速やかに大涅槃 を証したまえりとは、我らが証するに非ず、みなことごとく本願に成じたまうと云う義な り。  悪業煩悩のこの身を助けたまうとはしりながら、同じくは煩悩あるよりは、なきはよき 筈なれども、止められざれば是非もなしと、煩悩を述懐する機の上を憐れみたまいて、仏 願の不思議なれば、煩悩を断ぜ令めて助けたまう義も自在なれども、機の上には断ぜ令め ず、其のまま造らせて置きて助けたまい、煩悩の心を直ちに涅槃にいたるようになしたま う超世の本願なれば、煩悩に心を止めず、ただ仏願をたのめよと教えたもう、他力至極の 御意なり。 『大本私考』「相伝義書 7」  「実相」とは、柳は緑、花は紅の、その身そのままを改め替えざるを諸法真実の相(な りすがた)と云う。凡夫の迷える眼よりこそ、迷悟雲泥同日の論にこそあらね、理を窮め 性を尽くしたまえる仏智の方より見たまうときは、何れか実相ならぬことなく円融せずと いうことなし。故に煩悩即菩提、生死即涅槃にして、煩悩罪障の凡夫を不断煩悩のままに て摂取したまうなり。然れば、本願に相応するところに於いては、聞くも本願より成じて 聞き、見るも仏智に即して見る。此(ここ)も彼(かしこ)も、往くも還るも、見聞覚知、 塵々法々、皆円頓実相の法音ならずということなし。「聞かんと欲するところの法、自然 に聞くことを得」の願益、其れ大なる哉。是れ等の法門は、信仰の意地ならずしては伝聞 しがたし。悪く聞き誤まれば唯心自性の論に混雑するなり。ゆるがせにすること慎しむべ しと、先輩より伝えられしなり。 『註論入科会解』「相伝義書 15」  爾るに、沈・不沈を弁えざる今日の凡夫、煩悩の惑の為に誘引せられ生死海に迷倒して 苦しみひまなきこころながら、一心の宗旨に相応すれば我知らずして色身に撹入せる大悲 の薫習にはこばれ、煩悩即菩提、生死即涅槃の大利をうるなり。  ここを善導は、「一時煩悩百千間」と釈して、一時の煩悩機分を捨てみれば、煩悩は本 実体なき虚妄の相なれば願力不思議より消滅して、無他間雑の実相真如の弥陀如来の一心 は二たびきえず相続して、昼夜六時、行住座臥、時処諸縁をいわず間断なきを、「憶念の 心つねにして 仏恩報ずる」と言いて、常に「無他想間雑」なるを一心とのたまう。若し 仏智にあらずば「心心相続」に非ず。日々千度、是れ皆、仏智相続の上より発起すと知る べし。  然れば、「心心相続」は仏智の相続にして刹那もきれめなし、ただ一心なり。今日一時 煩悩百千間の凡夫の機の上に、争でか相続あらんや。唯仏に帰するところを以て、「心心 相続」とも無他想間雑ともいうなり。道理として虚妄の心は生滅し、真実の一心は相続す。 これ他力難思の徳益なり。一文字のたてよこをもしらぬ身ながら、一念帰命のところに我 しらずして此のことわりに叶う。これ他力の勝益なり。若ししからずといわば、五劫永劫 の御苦労いたずら事なるべし。  然れば、これを本願には三心と説き、今は一心と教え、『讃』には、「煩悩成就のわれ らが 他力の信とのべたまう」。  微塵ばかりも凡夫の機情にかたよることはなきなり。たとい凡夫の心に相続するとも、 なんぞ涅槃真因といわん。仏智心にあらずば、「心心相続 無他想間雑」も有名無実なる べし。されば凡夫は真心獲がたし、是れが為に大悲弘誓を超発して至心信楽と願ず。これ 又、信じがたきによりて、大悲をもて十九諸行の願を起こしたまう。これらの願に転入せ られて十八願に帰入すれば、流転の凡愚知ることあたわずといえども、唯無碍光如来を念 じて安楽に生ぜんと願ずれば、弁えずして而も「心心相続」し、覚えずして而も「無他想 間雑」なり。機を離れて法に合するところを一心というなり。「信心無二心故曰一念、是 名一心」といえるもこれなり。  尚又、我が身のつねに法縁により心にも忘れぬが「心心相続」とおもい、又、一時も我 が心に間断すれば相続に非ずと云うは、彼の僻解、起行の沙汰なり。 『高僧和讃』  無碍光の利益より   威徳広大の信をえて   かならず煩悩のこほりとけ   すなわち菩提のみずとなる  罪障功徳の体となる   こおりとみずのごとくにて   こおりおおきにみずおおし   さわりおおきに徳おおし  名号不思議の海水は   逆謗の屍骸もとどまらず   衆悪の万川帰しぬれば   功徳のうしおに一味なり  尽十方無碍光の   大悲大願の海水に   煩悩の衆流帰しぬれは   智慧のうしおに一味なり 「行巻」  「海」と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙 無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに 喩うるなり。良に知りぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言えるがごと し。已上  願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいわんや、人天の虚仮邪偽の善業、雑毒 雑心の屍骸を宿さんや。 『曽我量深講義集 12』  第三十三願「設ひ我仏を得たらんに、十方無量不可思議の、諸仏世界の衆生の類、我が 光明を蒙りて、其の身に触れんもの、身心柔軟にして、人天に超過せん。若し爾らずんば 正覚をとらじ」。  その光に触れるときに、身と心とが柔軟になる。つまり、柔軟というのは、氷がとけて 水になることであろう。光に触れると、氷のように冷たい、岩のように堅いところの生死 の体が、だんだんとけてくる。堅い氷がとけて、柔かい、心持のよい、温い水となる。そ れを身心柔軟という。  まず身が柔軟になるがゆえに、心が従ってまた柔軟になる。  仏教の解釈はすべて身というものを先にして、身が柔軟になれば、従って心がまた柔軟 になる、そして身も心も仏の光というものを障碍しない、 『曽我量深講義集 12』  すなわち仏の本願をいただいておる浄土真宗のおみのりを信ずる人のみに、ほんとうに 煩悩即菩提、生死即涅槃がわかっておる。理屈などどうでもいいのだ。事実において煩悩 即菩提、生死即涅槃が実践的にほんとうに会得されておるのが御開山聖人のおみのりであ る。  話をもとのほうへ戻して、聖道門の人は、・・・だから人間は仏性を持っておるという その根本のところへ目を開くと仏さまだ、こういうように思っておる。・・・ ところが果して人の性は善であるか、・・・人間というものは明るいものであり、人生と いうものは単純なものだろうか。もしそういうものであるならば、阿弥陀仏の本願という ものはむだごとである。・・  御開山聖人は、御自身もやはり水の中へおぼれかかっておって、しかもおぼれない、そ ういう一つの信念を他力信心という。つまり如来の本願の船に乗って、そうして水の中に あって、流されながらそれをおそれない、流されても流されておるということが、何もお それるに足らん、だから安心して水の中に流されておる、そういう人がわが御開山聖人で あられる。 水の中におっても、人間というものは水の上に浮ぶようにできておる。ほんとうは水より も人間のからだのほうが軽いものだからちゃんと浮ぶようにできておる。カワズなどはち ゃんと水に浮んでおる。カワズは何も水泳を覚えたわけではあるまい。・・・カワズは水 におぼれないが、人間だけは、水におぼれる、これは何であるかというてみると、人間と いうものはなかなかカワズのように無邪気になっておれない、人間というものは、まこと に複雑なもので、えたいの知れないものだ。・・・  何もかも、いいところのありったけを知っていなさるが、また同時に悪いことのありっ たけも知っていなさる仏さまが阿弥陀如来。だから、善人も助けるし、悪人も助ける。善 人も悪人も平等に助ける、そういうのであろう。だから、阿弥陀如来の本願を超世の本願 という。『歎異抄』などを見ると、あの御開山さまこそは阿弥陀如来さまの御化身という べきお方、だからいいことのありったけも知っていなさるであろうけれども、それよりも 悪いことのありったけをみな知っていなさる。