歎異抄 前序
 親鸞聖人と唯円の出会い


 今回から『歎異鈔』の学習をはじめます。真宗の書物は、親鸞聖人の著作をはじめとして、数えきれないほどたくさんありますが、そのなかで『歎異鈔』は真宗門徒以外の人たちにも広く読まれています。それは、明治時代後期に清沢満之先生が『歎異鈔』を重視されたことがはじまりだったそうです。

 清沢先生は東京で真宗大学の学長に就任され、ついで浩々洞を開き、真宗の教えを一般の人たちにまで公開されました。「歎異鈔と阿含経(あごんきょう)とエピクテタスが私の三部経です」といわれ、宗門教学の枠を打ち破って、真宗の教えを近代化されました。明治の近代日本の中で求道し、見いだされたのが『歎異鈔』だったということでしょう。

  また『歎異鈔』第三章の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということばに表れているように、人の現実のありさまをきびしく見つめ、常識を打ち破ったところから、念仏の包容力に満ちた慈悲(摂取不捨)の世界を説きひらく『歎異鈔』の精神が、清沢先生だけではなく、近代現代の人びとに広く共感されるのでしょう。

 『歎異鈔』の著者は唯円大徳で、親鸞聖人が亡くなられてから約三十年後に書かれたといわれます。
 『歎異鈔』の基本姿勢は題名にあらわれています。
 序分に「ほぼ古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き(親鸞聖人がおいでになったころと、今のようすとを考えあわせてみると、現在の門徒の心根に、わたしが先師親鸞聖人から直接に教えを受けた真実信心とは、あまりにも異なっているものがあって、まことに嘆かわしいことである)。・・・故親鸞聖人御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれを記す(今は亡き親鸞聖人からお聞きした教えのおもむき、今も耳の底に残っているところを、わずかであるが、ここに書きしるそうと思う)」とあります。

 「歎異鈔」は「異を歎ずる鈔」と読むことができます。「親鸞聖人の説かれた真意から、あまりにも異なってしまった人びとの誤りをただし、真実の念仏の精神を回復するために、親鸞聖人のことばの一端を書きしるした書物」という意味の題名になるでしょう。

 『歎異鈔』は二つの序分(前序・後序)と本文十八条からなっていますが、本文は前後二部に分けることができます。前半の第一条から十条までは唯円が親鸞聖人から直接に聞かれたことばの記録です。後半の第十一条から十八条までは親鸞聖人の教えを誤解して誤った説を主張する人びとに対する批判です。つまり、前半で親鸞聖人から受けた教えを確認し、その教えをよりどころとして、後半で誤りを正すという構造になっています。

 唯円大徳は親鸞聖人の晩年になってから弟子になられた方で、報仏寺(常陸国茨城郡河和田)を建立されたことから「河和田の唯円」とよばれました。唯円の記録はほとんど残っていませんから、どのような生涯をすごされたかわかりませんが、晩年は奈良県吉野下市で草庵(立興寺)に住まわれ、一二八九年に六八歳で亡くなられたと伝えられます。亡くなる前年に、二八歳の覚如上人(本願寺第三世)に親鸞聖人の教えを伝えられたことが覚如上人の伝記に書かれていますから、当時でも親鸞聖人の教えを確かに受け伝えるたいせつな方であったことが知られます。

 歎異鈔の序分に「先師の口伝の真信(先師親鸞聖人から直接に教えを受けた真実信心)」ということばがあります。唯円と親鸞聖人とは、どのように出会い、どのような交流があったのでしょうか。

 唯円が親鸞聖人に出会われたのは、親鸞聖人が関東から京都に帰られた後であったといわれます。『歎異鈔』を読むと、この二人はたいへん深い信心で結ばれていたことが感じられます。ですから、唯円は教えを聞くために、関東から京都まで、何度も何度も通っておられたに違いありません。

 第二条に「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、訪ねきたらしめたもう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり」とあります。そのころ関東で異端の説が起こって、門徒たちは動揺していました。そこで代表者たちが親鸞聖人に教えを確認するために、関東から京都まではるばるやってきたのですが、そのとき親鸞聖人が最初にいわれたのが、ここにあげたおしかりのことばでした。このとき上京した人たちの中に唯円もいたようです。唯円がはじめて親鸞聖人にお会いしたのがこの時であったといわれますが、唯円にとってたいへん厳しい出会いであったのではないでしょうか。しかし、厳しい出会いが唯円の聞法の姿勢を決定したように思われます。

 親鸞聖人は師の法然上人から直接に教えを聞いておられたのは、親鸞聖人が二九歳から三五歳までの六年間でしかありませんでしたが、六年間でほんとうに教えが血となり肉となっていたのでしょう。親鸞聖人は法然上人を生涯の師としてすごしてこられました。それは、悩んだり迷ったとき、常に法然上人との出会いの初心に帰って道を開いてこられました。

 親鸞聖人がはるばる関東から訪ねてきた門徒たちに説かれたのは「初心に帰れ」ということではなかったでしょうか。親鸞聖人が関東におられたとき、門徒たちは深く感動をもって教えを聞いていたはずです。その初心を忘れているから動揺しているのであって、初心を思い出せば、ふたたび確かな道が開かれるに違いないと、門徒たちに語られたのでしょう。

 第十六条に「回心ということ、ただひとたびあるべし」ということばがあります。聞法しつづけていると、念仏の心が開かれる一瞬があるといわれるのです。この一瞬が念仏の初心です。ひとたび心が開かれると、その後、いろいろに悩み迷うことがあっても、初心に帰れば道が開かれるという確信・安心感が生まれるのです。唯円の聞法は、初心となるべき念仏の探求から始まったにちがいありません。

 第九条に、ある日、唯円が親鸞聖人に向かって、日頃感じている悩みを打ちあけられたことが記されています。
 「念仏していても少しも喜びが感じられず、今生きている娑婆世間への愛着心ばかりで、阿弥陀仏の浄土へのあこがれも感じられません。これではだめだと思いながらもどうしようもありません。いったいどうしたらいいのでしょうか」と、唯円は親鸞聖人に申し上げたのですが、それに対して「親鸞もこの疑問を持っていた。唯円も同じであったか」と親鸞聖人が答えておられます。

 なぜ親鸞聖人がこのように答えられたかは第九条につづいて書かれていますが、この問答から唯円の素直でまじめな気持ちが感じられます。「念仏しても喜べない」とは、たいへんな質問です。私であれば、先生に向かってこのような質問はとてもできないようにおもいます。ことばを飾るとか、へんに構えたような質問になってしまうのではないかと思います。また、親鸞聖人の唯円に対する答えにしても、まさかこんな答えをされるとは予想もできず、常識で計ることもできない答えです。
 しかし、親鸞聖人も唯円も、ともに念仏によって心が開かれていたからこそ、このような問答ができたのだと感じます。