歎異抄 第一章
  T 誓願不思議

 「阿弥陀仏の誓願の不思議にたすけられる」とは、どのような意味でしょうか。親鸞聖人は「不思議」を「不可称・不可説・不可思議」ともいわれ、また、『正像末和讃』に「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称・不可説・不可思議の 功徳は行者の身にみてり」と歌っておられます。
 「不可称・不可説・不可思議」とは、匹敵するものは何もなく、どのようなことばによっても説きあかすことができず、人間的思考で把握することができないということです。ですから、阿弥陀仏の本願にたすけられるということは、阿弥陀仏の功徳・阿弥陀仏の働きかけを感じとることです。
 仏教では智慧を「分別智」「無分別智」のふたつに分けています。一般的には、「分別がある人」は理性的で物事がよく分かった人、「無分別な人」は思慮のたりない非常識な人という意味になるでしょう。しかし、もともと仏教ではそのような意味ではありません。「分別智」は、自分の自我に支配された煩悩の智慧、執着にとらわれた智慧という意味です。「無分別智」は仏の智慧です。煩悩や執着から解放されて、あらゆる物事をすなおに感じとり、あらゆるものを包みこむような智慧です。
 「阿弥陀仏の誓願の不思議にたすけられる」とは、この阿弥陀仏の無分別智を実感することだともいえるのではないでしょうか。

 むかし、因幡の源左とよばれる妙好人がおられました。天保十三年(一八四二年)鳥取県に生まれ、昭和五年に八九歳でなくなった方です。源左のはなしを柳宗悦『妙好人 因幡の源左』から紹介します。

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 おらが十八歳の秋、旧の八月二十五日のこつてやあ。親爺と一緒に稲刈りしとったら親爺がふいに気分が悪いちって家へもどって寝さんしたが、その日の晩げにゃ死なんしたいな。親爺は死なんす前に「おらが死んだら親様(阿弥陀仏)をたのめ」ちってなあ。その時から死ぬるちゅうなあ、どがんこつたらあか。親様ちゅうなあどがなむんだらあか。おらあ不思議で、この二つがごっつい苦になって、仕事がいっかな手につかいで、夜も昼も思案し、その年も暮れたいな。
 親に別れたのが仏法に縁ができた始めでござんしたがやあ。別れてみりやなんともいえん悲しゅうて、おらの心はように親を焦がれてのう。親が生きとらんした時にゃ、さいさいにやかましゅうお寺まいりさんせえって言わんしたが、遊ぶのが面白うて、親の言わんすこたあ聞かず、親不孝もんでござんしたいのう。
 別れてみりや親の遺言やらいろいろのことが思われて、じつとしておられず、それから親様探しに一生懸命になった。それが翌年の春頃からで、厳正寺様に参ったり、そこら中のお寺の説教や同行の話を聞いて回ったいな。
 それでもどうしても親様のお声は聞こえなんだ。いろいろと悩んで疑って、なんぼ親に背を向けたかわからんだいのう。聞けよ聞けよと教えられはするが、いくら聞いてもわからんで、時には聞かん方がましだいなあと思ったこともあるがやあ。
 聞けば聞くほどむずかしゅうてなあ。寝ても醒めてもむずかしゅうてわからんだいなあ。易しい道とは教えて下さるが、なにが易しかろうがやあ、仏さんも嘘を言われるがやあと思ったいなあ。
 易しい易しいと言われはするが、凡夫だによって、むずかしいだいなあ。おらあが心が邪見でむずかしくするだいなあ。仏様には嘘がのうて、邪見の此奴(自分)が嘘にするだいなあ。むずかしいむずかしいと言って、此奴がむずかしいするだいなあ。なんでもわが思い、わが考えでわかろうとする此奴がいけん奴だいなあ。それを知らせてくれたのがデン(方言で牛のこと)であっただいなあ。
 ある日、朝早うデンを連れて草刈りに行ってのう。デンや、今朝はわれにみんな負わせりや、われもえらからあけ、おらも負うぜやちゅうて、刈草の束を三束背負うて戻りかけたが、これが重うて体がえらあになって「おらあも負うたらと思うて負うたが、おらあ体がえらあになったで、デンや、お前負うてごせ」ちゅうて、荷をデンに着けたいなあ。そしたらすとんと楽になってなあ、その時ふいっとここがお他力か、わがはからいではいけんわい、お慈悲もこの通りだと気付いてなあ。デンに知らせてもろうてなあ。デンはおらあが善知識だがやあ。この朝、長い間の夜明けをさせてもらっただいなあ。おらデンめに、ええご縁をもらってやあ。帰りにゃ親様のご恩を思わせてもらいながら戻っただいなあ。
 家に戻るなりすぐにお寺のご隠居さんのところへ飛んで行って、この話をしたら「源左そこだ」と言われましてなあ。それから世界が広うなって、ように安気になりましたいな。不思議なことがござんすがやあ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

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 牛に荷物を背負ってもらって体が楽になったことがきっかけになって、他力を実感し、世界が広くなり、心が安らかになったという、この源左の体験が、『歎異鈔』の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」ではないでしょうか。
 源左の父親が亡くなったとき源左は十八歳、牛にたすけられてほんとうに念仏に出会ったのは三十歳でした。その間、迷ったり背いたりしながらも、教えを聞きつづけたからこそ、ふとしたことから念仏の世界に入ることができたのです。
 善導大師の「二河白道の譬喩」でいえば、源左は十八から三十歳まで群賊悪獣に追いかけられ、三十歳になって水と火の河にぶつかったのです。二つの河に道をさえぎられ、どうしょうも逃げようがないと覚悟を決めた時、釈尊の勧める声に出会い、阿弥陀仏の呼ぶ声を聞いたのです。その時、源左は「世界が広くなり、心が安らかになった」と感じたのです。
 妙好人とか念仏者というと、なにか私たちとはかけ離れた優れた特別な人と思いがちです。たしかに、私たちには感じとれないほど深く念仏の心をいただいている人たちではあるでしょう。しかし、私たちと少しも変わらない凡夫であることは確かです。また、私たちの心の底には法蔵魂があり、阿弥陀仏は常に心の底で働いてくださっています。その阿弥陀仏の働きかけは、妙好人であっても、私たちであっても、少しも違いはありません。


 源左は自分のことを「ばくち打ちの、けんか買いの、こがな、よだきい(汚い)源左め」といっていたそうです。
 こんなことがありました。
 あるとき、源左は近所に住んでいた二瀬川という相撲取りと縁がわで仏法の話をしていました。源左の孫たちは庭であそんでいました。小さな子どもたちが遊びまわっているとたいへんさわがしいものです。そのときも子どもたちはさわがしくあそんでいたようです。源左はがまんできなくて、とうとう大声でしかりつけました。それは孫をさとすというようなものではなくて、はらの底から怒りをぶちまけるような声だったそうです。二瀬川はびっくりして、
 「こんっあん(あなたさん)、こんっあんでも腹が立つかいのう」
というと、源左は、我にかえって、恥ずかしそうに
 「立ちゃだいのう、借りものなら暇もかかるけっど、煩悩具足の凡夫だけのう、肚にあるけれ、じきに出るがやぁ、ようこそ、ようこそ」

 また、こんなこともあったそうです。
 ある人が田圃道を村へ帰る途中、田植をすませたばかりの田圃のあぜに源左がつくなんでいるのを見て、こんなところに源左の田圃はないはずだが、といぶかりながら声をかけると、源左はふりむいて、
 「上の道を出よったら、田圃に大きな穴があいとって、おらは止めるやな奴じゃないけっど、源左よ、源左よ、源左がとめにゃ、この田圃は干てしまうぞって、親さんがいわれるだけに、一間ほど出たけど、またあともどりして、止めとるだいなぁ」といったそうです。

 源左は一途な気性で、自分を飾らない人だったようですが、時に善人であったり、悪人であったりして、特別な人間ではありません。ただ、なにがあっても念仏に帰って自分をふりかえる。これが生活の中心にあることが源左の特徴です。一途な性格から、父親の遺言を守って、生活のあれやこれやを念仏にぶつけて求道したということができるでしょう。そのすべてが源左を念仏に導くご縁になりました。そのご縁をたいせつにし、ご縁に育てられ、ご縁を生かしていったことが、源左の求道を成就に導いたといえるでしょう。
 人それぞれにご縁との出会いはあります。そのご縁との出会いを見逃さないこと、そしてそのご縁をたいせつにしなければなりません。

 『涅槃経』に次のようなことばがあります。
 信にまた二種あり。
 一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆえに名づけて信不具足とす。
 また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす。
                    (聖典 東二三〇頁一行 明二五〇頁末二行)
  聞より生ず=大ように聞いてあっさりと信ずる信。
  思より生ず=我が身の上を思い、聞いたいわれを聞き開いて深く信ずる信。
  得道の人=すでに自分が進むべき道を見つけ、その道を歩んできた人。
 私たちにとって源左は「得道の人」です。すでに道を得て、その道を歩んだ人があるということは、私たちの求道にとって大きな励ましになるのではないでしょうか。

参考 『妙好人』   鈴木大拙著 法蔵館
   『妙好人を語る』楠恭著 NHK出版
   『妙好人のことば』梯実圓著 法蔵館