歎異抄 第2章
 U 地獄一定

 「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」ということばは親鸞聖人の重たい述懐です。自分の居場所が地獄しかないとは、よほどのことがなければ、とても出てくることばではありません。
 ひとつには、親鸞聖人が法然上人の教えに深く信順しておられたからこそ表れたことばだといえるでしょう。
 栂尾の明恵上人は『摧邪輪』に法然上人を「付仏法の外道」とまで批判しています。「付仏法の外道」とは、仏教の形をまねた邪教という意味です。それほどまでに、法然上人の教えは仏教からはずれ、人を迷わせていると非難する人びとが多くいたようです。
 そのような批判を親鸞聖人がどのように受けとめていられたか、恵信尼公が娘の覚信尼公に出されたてがみに書いておられます。

 山(比叡山)を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世(ごせ)を祈らせ給いけるに、九十五日のあかつき、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあかつき、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしかば、上人のわたらせ給わんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり。
 『恵信尼文書』(聖典 東六一七頁)

 山=比叡山 延暦寺
 後世=浄土往生。迷いが晴れてたしかな世界が開かれること。
 生死出ずべき道=浄土への道。
         生死をくりかえして迷い苦しむ世界を離れて、たしかな覚りにいたる道。
 悪道=地獄・餓鬼・畜生・阿修羅
 世々生々=親鸞聖人が法然上人に出会うまで、迷い悩んで苦しむ生をくり返してこられたこと。

 俊寛 鬼界ガ島流罪
 親鸞聖人が「地獄一定」といわれたことには、親鸞聖人の流罪の体験もあるのではないでしょうか。
 念仏弾圧によって京都から越後に追放され、五年にわたる流刑生活をおくられたことは、親鸞聖人の念仏を決定づけたできごとでした。その流罪中の生活については、親鸞聖人はほとんど書きのこしておられませんが、わたしたちには想像もできないような厳しい生活であったことでしょう。
 親鸞聖人より三十年前(一一七七年)に流罪になった俊寛僧都のことは、『平家物語』をはじめ、いろいろな文芸の題材になっています。
 当時は平清盛を頂点とする平家が権力をにぎり、「平氏にあらざれば人ではない」とまでいわれた時代です。後白河法皇の側近の人びとは不平をつのらせ、ついに、藤原成親、西光、俊寛などは鹿ヶ谷にあった俊寛の山荘にあつまり、平氏打倒を企むにいたりました。ところが密告によって平清盛の知るところとなり、藤原成親と西光は処刑され、俊寛・藤原成経・平康頼は鬼界ガ島に流罪となりました。

 鬼界ガ島は鹿児島県大隅半島から南西に四十キロメートルあまり離れた小さな火山島です。
 自然も風俗も京都とはまったくことなり、ことばもほとんど通じない土地での流罪生活は、京都の貴族であった三人にとってあまりにもきびしいものでした。人が生きられるような環境ではないとか、土地の人を、とても日本人とは思えないと言い、罪を許されて京都に帰ることばかり願ってすごしていました。
 康頼は千本の卒塔婆を作り、歌を書きつけて海に流そうと思いつきました。
 卒塔婆に書いた歌は次のようなものでした。
  薩摩潟おきのこじまに我ありと おやにはつげよ八重の潮風
  思いやれしばしと思う旅だにも なお古郷はこいしきものを

 翌年、京都から藤原成経と平康頼との赦免がつたえられ、二人は京都に帰りますが、俊寛は許されずに、ひとり鬼界ガ島に取りのこされました。そのときの俊寛の嘆くすがたが『平家物語』に次のように書かれています。

 「一人ここに残すべきとは、平家の思い忘れか。執事の誤りか」と、天を仰ぎ地に伏して、泣き悲しめどもかいぞなき。
 僧都、少将の袂にすがり、「俊寛がかようになるというも、御辺の父故大納言殿の、由なき謀反の故なり。都までは叶わずとも、せめてはこの船に乗せて、九国の地まで着けて賜べ」とて、悶え焦れ給いけり。
 さる程に、船出さんとしければ、僧都船に乗っては降りつ、降りては乗つつ、あらまし事をぞし給いける。
 すでに、ともづな解いて船押し出せば、僧都綱に取り付き、腰になり、脇になり、長の立つまでは引かれて出づ。俊寛船に取り付き、
 「都までこそ叶わずとも、せめては、九国の地まで」と、くどかれけれども、都の使、取り付きたる手を引き除けて、船をばついに漕ぎ出す。
 僧都せん方なさに、渚に上がり倒れ伏し、幼き者の母などを慕うように、足摺をして「これ、乗せて行け。具して行け」と云い、泣き叫び給えども、漕ぎ行く船の習にて、跡は白波ばかりなり。

 その後、俊寛は京都から訪ねてきた有王(京都での俊寛の侍者)に看とられて、気力も体力も衰えて亡くなります。

 越後での親鸞聖人
 親鸞聖人が越後でどのようにすごされたのか、はっきりとはわかりません。しかし、厳しいといっても俊寛ほどではなかったでしょう。それよりも、俊寛は土地の人びとに親しむこともありませんでしたが、親鸞聖人は越後の人々にたすけられ、いっしょに生活して、厳しい自然の中で生活する人びとに共感されたようです。
 親鸞聖人は『唯信鈔文意』に次のように書いておられます。

 ひとすじに具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)、屠沽(とこ)の下類(げるい)、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽(しんぎょう)すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。
 具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は身をわずらわす。悩は心をなやますという。
 屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。
 りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。
 (聖典 東五五二頁末二行 明五〇六頁末六行)

 「地獄一定」と聞けば、苦痛に満ち、みじめな生活をすごさなくてはならない世界に落ちるよう思いますが、そればかりではなく、苦しい中でも確かな道に出会うことができたという確信から生まれたことばでしょう。清沢満之の「絶対他力の大道」にも同じような境地が表れています。

 請うなかれ、求むるなかれ、汝、なんの不足かある。もし不足ありと思わば、これ汝の不信にあらずや。
 如来は汝がために必要なるものを、賦与(ふよ)したるにあらずや。もし、その賦与において不充分なるも、汝は決してこれ以外に満足を得ること能(あた)わざるにあらずや。
 けだし汝みずから不足ありと思いて苦悩せば、汝はいよいよ修養をすすめて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。これを人に請い、これを他に求むるごときは、非なり、陋なり。如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱を受けることなきも、汝の苦悩を如何せん。

 深い人間観
 また親鸞聖人の「地獄一定」には深い人間観があらわれています。
 清沢満之の「絶対他力の大道」からいうと、「不足ありと思い」「人に請い」「他に求」めている人間であるということです。しかし、親鸞聖人も清沢満之もけっして絶望してはいません。